56.帰郷と誓い
次の日。
水晶宮内は少々慌ただしいことになっていた。
侍女たちがパタパタと走り回り、様々な室を行き来しているのだ。
「……何の騒ぎ?」
その瞬間に飛び込んできた空気の圧に一瞬だけ押され、それで彼の意識もはっきりとする。
「あぁ……大師兄が下りてきたのか」
「――おい師兄、そこで姿隠すのはやめておけよ」
しばらくは室内に居たほうがいいだろう――と思った直後に、
無視をして扉を閉めることも出来たが、今は分が悪い。
「……君、もしかしなくても僕の監視してる?」
「いや、別に? あんたもこの宮からは出ていこうとは思っていないだろし、その辺は俺の勘」
「いちいち嫌味だな君は。……要するに、挨拶くらいはしておけって言いに来たんでしょ。普通に考えて、それが素直に出来る立場にもないんだけど?」
「……
沈夜辰はそこで体を固まらせて、瞠目した。そして数秒後に大きなため息を漏らし、眉根を寄せる。
「わかったよ。……『
「そうそう。よろしく頼むぜ師兄」
「…………」
相変わらず、沈梓昊という男が苦手であった。
恨みの対象にあるはずなのに、なぜ彼はいつものように接してくるのだろう。
――殺しませんよ、あんただけは。
少し前に言われた言葉が、未だに脳内を掠める。
常に飄々としている弟弟子は、その本質こそが恐ろしい。だと言うのに、彼からは距離を置く気配が微塵も感じられない。
尹馨のため、黎華のためだけであそこまで動けるのだから、彼の忠誠心は誰にも負けないだろう。
(……本当に、厄介だこの男は……)
思わずそんなことを内心で呟かずにはいられなかった。
この男の前では背を見せられない。敵にすら回せないし、おそらく『あの時』であっても、本来であれば自分を殺せたはずなのだ。
(ハクタクはまだ穏やかで扱いやすくもあるけど、カイチだけは本当に扱いにくくて、なんでこんなのが同門なんだろうな)
室を出て、長い廊下を進んだ。
前を歩く沈梓昊の長い三つ編みが左右に揺れて、それがまるで暗示をかけるかのような動きに見えてしまい、沈夜辰は身を震わせた。
「――そんなに身構えなくても、あんたが前みたいな悪事を働かねぇ限りは、俺はただの弟弟子ですよ」
「さらっと脅すようなこと言わないでくれる?」
「ははっ、それだけあんたも丸くなったってことだろ。俺の出した答えは間違っちゃいなかったってワケだ」
「…………」
『世を傾ける者』という存在が、彼――
出来れば自分の代で出ないままであってほしいなどと言っていた事を思い出した。あれは楼閣にいた頃、互いにまだ幼かった姿の時であったように思う。尹馨のように交流があったわけではないが、楼閣の主である
(いよいよ、楽観視出来なくなってきたってとこか。このまま予想通りだと、僕はまたいずれ一人きりになっちゃうんだろうな……)
「……、馬鹿馬鹿しい」
「うん? 何か言ったか、師兄?」
「何でもないよ」
「ふーん、まぁいいか。……姫さん、連れてきたぜ」
思案をしている間に、うっかり黎華姫の室まで沈梓昊に案内されてしまった。
そんなことを思いつつ、戸口をくぐる。
「……っ、」
強い圧を感じた。
瑞獣としての圧、自身を上回るものだと体から覚えさせられる空気。
少し前までは弱っていたのに、と心で呟きながら、沈夜辰は目線を上げた。
「久しいな、夜辰」
「……そちらもお元気そうだね、尹馨。僕なんか呼びつけて、どういう風の吹き回し? 黎華姫だって、僕の顔なんか見たくないでしょ」
「……、……」
視線の先には尹馨と黎華姫が揃って座していた。
言葉通り、黎華は若干だけ沈夜辰を恐れる空気を生んだが、それは一瞬だけだ。
「……、沈夜辰。お久しぶりです。最初からこうした形で出会っていれば、私……いえ、俺にも、あなたにも……何の憂いもなかっただろうね」
「だったら、今すぐここから排除してくれていいんだよ。所詮僕はあなた達には属せない異物みたいなモノ……危険因子なんだから――」
「沈夜辰、それ以上自分を卑下した言い方は許さないわよ」
黎華と沈夜辰との間に口をはさんできたのは、妹姫の黎静だ。
彼女は目を吊り上げ、何故か怒っている。
そんな様子を見て驚いたのは、その場にいた全員であった。
だが、尹馨だけは彼女の思惑や胸の内の感情を僅かに読み取ったようだ。
「……黎静、いや、黎華。君は……」
「ああ、ややこしいわね、尹馨。兄さまもこうして帰ってきたけど、ここでは混乱するから、私のことは変わらず兄さまの名で呼んで」
「あ、あぁ……」
「阿華、俺より逞しいね……」
「兄さまは前より美人になっちゃって。私の立場も考えてよね? とはいっても、私はもう姫らしくなんて出来ないけど」
同じ顔をした二人の姫は、ここでも対極であった。同じような衣を身に着けていても、やはり兄の黎静のほうが姫らしく、妹の黎華のほうが男性寄りになってしまうのだ。
沈夜辰もそんな二人を見つつ、呆れ顔になっていた。
本来であればここで、自分の処遇が話し合わせるはずだっただろう。姫を穢し、多くのものを殺してきた彼にとっては、すでに立場も無いはずなのだ。
「僕を囲い込んで、どうするの。もしかしたら君たちが油断した隙に、後ろから刺すかもしれないんだよ?」
「師兄はそれを出来ねぇよ。俺が保証する」
「なんでそう言い切れる?」
「いやだってまぁ……あんたは現状、姫さんに逆らえてねぇだろ?」
「…………」
沈夜辰は何も言葉を返せなかった。
完全に分が悪かった一人きりの時であったほうが、言い返しや嫌みの言葉も楽に零せただろうに。
弟弟子が言うように、今の彼には逆らう
(……実感がないから忘れがちだけど、……本当に、面倒なことに巻き込まれた上に、もう逃げ道もなくて……そして僕は、知らずにこの『危険因子』をばら撒いてしまっていたんだな)
――それは、最愛の人との子を意味する言葉だ。
尹沙鈴が人知れず子を成していて、それが自分との子だと知れた今でも、夢を見ているのかと思えてしまう。
許されるわけもないはずなのに、この場にいる自分をほんの僅かだけ認めてもいいのかもしれないと考えてしまった。
(それにしても……尹馨と黎華姫は……かなり空気が変わったな。結婚したってだけで、そうも変われるものなのかな)
沈夜辰の目の前にいる二人が、眩しかった。
尹馨は体に巣食う呪いが消え去り、天上に一度戻ったことで本来の応龍としての役目に戻ったのだろう。そしてその『妻』となった姫も、自分が手をかけた時にはもっと弱々しく、何もかもが脆くも見えたのに今では健康そのものだ。
(……あぁ、そうか。
あれだけのことがあり、その原因を作ったのは自分自身だ。
追われていたこともあり黎華姫の行く末の確認はしなかったが、どうみてもあの後は助からないだろうと思っていた。
だがそれでも、彼らは今目の前にいる。
そうして、『咎人』でしかない自分をこうして受け入れてくれている。
――これこそが償いで、あのお節介なほうの姫の言うとおりであるならば、今はおとなしく受け入れよう。
彼はそう思い至って、膝を折った。
「!」
(……おっと。こりゃまた面白い展開になるな)
白と黒の従者たちが、それぞれに反応する。思いにもよらぬ――だが、予想の範囲内でもある展開に、沈梓昊は満足気な笑みを浮かべていた。
「――この
拱手礼の形をとり、彼は手を差し出したままで頭を下げてそう言った。
やはり誰もが驚いたが、尹馨と黎華は黙ったままで一度顔を見合わせて、こくりと頷いている。
「……君が俺の大切な友人であることには変わりない。だからその申し入れを受け入れよう。償うことは多いが、尽くしてくれればそれでいい」
「ありがとう、尹馨。それから、黎華姫」
「……はい」
黎華は若干まだ表情が硬い。
だがそれも、仕方のないことだ。沈夜辰もそれを重々に承知しているし、歩み寄るのはこれからの行動次第だろう。
自身を取り巻く『何か』が静かに蠢いている。それを突き止めるためにも、彼はこの場で生きていこうと改めて思ったのだ。
一心繚乱 星豆さとる @atsu86
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