55.償い

 ――そもそも、償いとは何だろうか。

 沈夜辰シェン・イエチェンは、ずっとそのようなことを考えていた。


『償う気があるのなら、私のそばにいてくれる?』


 少し前にそう言ってきたのは、本来の黎華姫である黎静リー・ジンだ。

 沈梓昊シェン・ズーハオによって斬られた彼は、そのまま死ぬのがいいだろうと自分でも思っていた。それだけのことをしてきた自覚はあるし、唯一の存在であった尹沙鈴イン・シァリンとて自分を許さないだろう。


『……死んで、それで終わりだと思ってる? そうだったら貴方は相当な馬鹿よ』

『だからと言って……僕を生かしておいていい理由は、どこにもないでしょ』

『逃げることは許さないわよ、沈夜辰』


 手当をしてくれている最中、黎静とそんな言葉を交わした。

 水晶宮にて形ばかりの姫に手を出した時には、何の感情も浮かばなかった。ただ、『姫』は放っておけば死ぬのだろうし、だったら自分の退屈しのぎの一辺として扱えればそれでいい――そんな事を、考えていたようにも思う。


 それなのに、目の前の黎静は、『死』を逃げだと言った。

 確かにそうかもしれない。どこに足を向けても沈夜辰にはすでに味方はない。尹馨イン・シンを怒らせたり困らせたりしたこと自体は楽しくもあったが、それと同じくらいの空虚さも感じていた。

 恨んで、恨み続けて――当事者であったかつての巫覡の姫は、もう居ない。彼自身が手を下したのだから、揺ぎ無い現実だ。あの代の姫付きであった侍女も幾人手にかけたか分からない。護衛も何もかも、当時の感情のままに血で染め上げた。

 その怒りのぶつけどころを失ったとき、彼は言い知れない寂寥感に襲われたのだ。


『ねぇ、沈夜辰。もっと広い視野でこの世を見て。……今からでも遅くないわ』


 黎静は、なぜそこまでして自分を生かしておきたかったのだろう。

 霊亀レイキである尹沙鈴のためだけであるとは、到底に思えなかった。


(思い返せば、出会った頃の尹馨みたいだったな)


 天上の楼閣にいた頃、自分は異質だと言われ続けてきた。天狐でありながら聖性が無いと囁かれ、自身もそんなものを持ち合わせているとは思ってもいなかった。

 父が楼閣へと追いやったことを考えても、崇高なる天狐としては失格だったのだろう。


(どこの女か知らないけど、正室以外にも手を出した時点で、あの人だって『天狐』としての素質は傾いてたと思うけど)


 母の記憶はない。

 父の姿も背しか見たことはなく、義母はただひたすらに五月蝿いだけであった。

 生きているかどうかも分からない母は、何を思って自分を産んだのだろう。


 ――ワタシノ子 コノ腹ニイル我ガ子 ユックリ ユックリ……


「……っ、なんだ、今の……」


 大きく体を震わせて、沈夜辰が意識を覚醒させた。

 水晶宮にて与えられた室の中、どうやら普通に眠っていたらしい。微睡の中での思考の渦で、最後の最後に捻じ込んできたあの声はなんだったのだろうか。

 少なくとも、沈夜辰自身には、全く覚えがない。


(いや……楼閣、麒麟の尹老師……僕は、何かを忘れてるのか……?)


 記憶と意識が霞む。

 覚えているようで、何もわからない。楼閣で過ごした日々は確かに記憶にあることばかりのはずだが、尹馨の父君である麒麟が眠った原因を自分は知らないのだ。


(沙鈴がこの地に降りるとき、僕を護衛として遣わしてくれたのは尹老師だ。その後は何度か小鳥の文でやり取りをして……それから、彼はどうして眠ってしまったんだ……?)


 麒麟は天上の主である。らんを妻に、瑞獣たちの長でもあった。

 そんな存在の彼の身に何かがあれば、地上にいる自分や沙鈴にも当然として報せがあったはずだ。だが、彼の記憶にはどうしてもその部分が思い出せない。

 忘れているというよりは、不自然な空白が生じているとでも言うべきか。

 当然として知っているはずの事を、沈夜辰は知らずにいるのだ。


「……なんだろう、いい気持ちじゃないな」


 罪を背負って死んでいくのならば、それでもいい。

 ついこの間までそう思ってきた沈夜辰であったが、その『死』すら遠ざけなくてはならない事態が、起きているようだ。


(これすらも償いだと言うのなら……突き止めてやるさ。彼女に逃げだとこれ以上言われないためにも)


 彼は静かに決意をした。

 生きて何かをすべきだと言われるのならば、『償い』とやらを自分なりに行動として示さなければならないと感じたようだ。

 


 ――ユックリ、ユックリ……オ前タチヲ、狂ワセテヤル。



 沈夜辰の記憶で木霊した誰とも知れぬ声は、静かに今も根付いているようだった。

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