54.霊亀、尹沙鈴。
――気配がする。
いえ、ずっとしていた。
『あの時』だって彼はこの場にいた。
あの方が黎家の姫にしでかしたことは、とても償いきれない事。
だけど、わたくしは――わたくしだけは、『彼』に一縷の望みを未だに抱いているのです。
「
『……はい、
「昔みたいに呼んではくれないんだね」
『…………』
水晶宮の奥の間は、本来であれば男子禁制の聖なる場であった。
禊場であり、
沈夜辰は元よりこの場の結界には干渉されない。そして彼が黎華を襲った件以降は、侍女らですら出入りが出来なくなった。
たが、結界そのものを
「……あの時のままかと思いましたが、あなたが手を加えたのですか?」
「まぁな。ここを放置しとくのは師姉にとっても水晶宮にとっても悪影響にしかならないだろ。侍女たちの出入りに関しては、俺のほうから暫くは近寄るなって伝えておいたんだ」
一連の件の後、しばらくは沈英雪は謹慎として室内に篭りきりであった。
沈梓昊は元からの立場というものがあったので、様々な行動を一人きりでこなしてきたらしい。
この場の一時的な浄化や、崩れてしまった景観などはある程度は修復したようだ。
「尹沙鈴さま、お久しぶりです」
『……黎静……いえ、黎華姫。戻られたのですね』
「はい。長らく自分の務めを放棄してしまい、申し訳ございませんでした」
『いいえ、あなたが謝ることは何もないのです。そもそも、わたくしという存在が、『霊亀』がここに居続ける限り……あなたたちは、幸せになれない』
「それについてなのですが、私と沙鈴さまのみでご相談したいことがあります」
『……わかりました。ではこれ以降は――わたくしの神の声と致しましょう』
尹沙鈴はそう告げた後、この場にいる黎静以外の者たちの音を絶った。
巫覡として、霊亀の『声』を戴く儀式と同じ形をとってくれたのだ。
「……やっぱり俺たちは弾かれるか。師兄もダメなのか?」
「仕方ないよ。これは水晶宮での古くからのしきたりだし、僕も昔からこの時間だけは弾かれるんだ」
「何を話されるおつもりなのでしょうか……姫からは、言い知れぬ強い意志を感じました」
「その意思が、皆を泣かせることじゃないといいけど」
三人の男子たちが僅かに向き合ってそう話し合う。
彼らは同門の兄弟弟子であるし、育った環境も同じだ。だがそれでも、拭い切れない感情は当然に残ってはいる。
今は、黎静のために。
誰もがそう思いながらの歩み寄りなのだ。
『……黎華姫、それはあまりにも……』
「いえ、もう自分の中で決めたことでしたし、これだけは譲れません」
『ですが、わたくしは……わたくしたちは、あなたに全てを背負わせようなどとは、一度も考えておりませんでした』
「でも、それは沙鈴さまにだって言えることでしょう? ……ご子息だっていらっしゃるのに、これ以上の我慢はしなくていいと思います」
『姫……』
――黎静が示してきた相談事とは、一つの提案だ。
「あの時……遊びの延長で入れ替わってしまった私たち兄妹は、それぞれに苦しみました。だけど、私は兄さまに助けられた。男の姿だけど、名前通りの遊学の日々は、私の人生の中で最高に楽しい時間でした」
『それでしたら、今後はこの水晶宮に留まるだけでも、充分でしょう』
「ええ、だから。私は兄にも沙鈴さまにも、自由を感じていただきたいのです」
『……なんて、強情なのでしょう。黎家の人々は皆……わたくしに尽くしすぎです』
――嗚呼。
これは
尹沙鈴は心の中で唱えるようにしてそう言った。
霊亀である以上、この霊峰と一体化している以上、尹沙鈴は代替わりを迎えるその日までこの場にいなくてはならない。
それは遥かに遠い未来の事であり、この先何代も……黎華姫や黎静の子孫たちを見守っていくのだと疑うことなく過ごしてきた。
血で汚れた己の体こそは厭うことも多かったが、それでも彼女にはこの役目自体を全うしていく気が確かにあったのだ。
『姫。わたくしはあなたのそのご提案に沿うことは出来兼ねます。……それでもあなたは、やり遂げてしまうおつもりなのですね』
「はい」
黎静は爽やかな笑顔を向けてくれた。その仕草はやはり男として生きてきた癖が抜けきれておらず、沙鈴も小さく笑みを漏らしてしまうほどだ。
だがそれ以上に、彼女の強い意志に対しての、適切な言葉を選ぶことが出来なかった。
『――わたくしは、霊亀。この水晶宮に生き、この土地を潤す者。巫覡の姫よ、わたくしはあなたに永劫の祝福を与えます』
「そのお言葉だけで、充分です。それに今すぐにというわけでもありません。でもまずは、あなたにだけはお伝えしておきたかったのです」
『皆もわたくしと同じ思いでしょう。……もしかすると、お怒りになるかもしれませんよ』
「ふふ、それもまた見物です」
『……あなたという人は……。思い返せば、幼少時に出会った時からお変わりありませんね。仕草は男性寄りにはなってしまいましたが……』
「私も、今のこの衣が落ち着かないんです」
黎静が肩をすくめつつそう答えると、尹沙鈴は鈴のように笑った。
花のほころぶような美しい笑顔。この姿を見ることが出来るのも、自分だけなのだと黎静は思った。
霊亀と巫覡が心を通わせる時だけ、その姿を目視できる。普段は泉だけの場に、尹沙鈴の愛らしい姿がふわりと浮かぶのだ。
(――この姿、沈夜辰もしばらく見てないのよね。護衛時代はどうったかは、分からないけど……)
「沙鈴さま、もう秘密のお話は終わりにしましょう」
『ええ、そうですね。では、界を解きます』
『言葉を頂く儀式』はそこで終了した。離れた場にいた沈梓昊たちがこちらに視線を向け、表情を緩ませている。
「……あの三人が揃って立っている光景って、不思議ですね」
『わたくしも同じことを思っておりました。……特に夜辰は、この場にいて許されるはずも無いというのに……』
「私からすれば、全員がお人好しですよ。その表現が少し違っただけ」
『そう言ってくださるのは、あなただけだと思います。でも、わたくしもそう思いたいのです』
二人の姫はそう言いあいながら、ふふ、と笑ったのだった。
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