53.水鏡

『いつぞやぶりじゃの、英雪インシュエよ。この偉大なる母を放って、下界は楽しいか?』

「……そういう月樹ユエシゥこそ、我らが姫を独り占めしているそうではないですか」

『ええい、いちいちうるさいやつじゃのう。黎華リー・ファは今やわらわの娘――ああ、いや、息子じゃぞ』

「姫が変わらずご健勝であれば、私はそれでいいのです。……それよりも、天上ではお変わりはありませんか」


 沈英雪シェン・インシュエが、水鏡を使って天上へと連絡を入れた。育ての母である月樹ユエシゥは変わらずの口調で、英雪の不在に僅かの嫌味を含ませている。だがしかしこれは以前からのやり取りの一つであるので、深くの言及はしない。

 そして彼女は、英雪の含みのある言葉に眉根を寄せた。


『――何か、あったのか』

「気がかりなことが一件だけ……。『父君』の状態は、何も変化がございませんか?」

『背の君か……変わらず眠り続けてはおるが、妾は何も感じてはおらぬ』

「そうですか……」

『お主らしくもない口ぶりじゃな。思い浮かべていることを素直に申せ』


 愛弟子の様子から只ならぬ予感を感じた月樹は、言葉を選び続けている英雪を促した。

 するといつもは冷静そのものである沈英雪ハクタクが、僅かに視線を落として口を開いた。


「……天狐の、気配がします」

『!』

「こちらにいる師兄――沈夜辰シェン・イエチェンではない気配です」

『……相分かった。天上は妾が調べよう。それから、近日中には尹馨たちをそちらへと戻す』

「御意に」


 水面が揺れ、透き通った鈴の音がどこから聞こえた。

 これは水鏡での連絡を終えた合図であり、沈英雪もそれを心得ているために静かに頭を下げる。


(……いつになく厳しい表情……あんな月樹の顔は、久しぶりに見ましたね)

 

 微かに訪れた変化に、心が良くない色へと騒ぐ。

 それが今後に強く影響する事だけは、容易に想像出来た。

 用心しなくてはならない。自分も、沈梓昊も――あの時の後悔を繰り返すわけには行かないのだ。




「よっ、母上は元気だったか?」

「――ええ、変わらずのご様子でした」


 黎華姫の室に戻ると、そこには身支度を終えた黎静リー・ジン沈梓昊シェン・ズーハオが待っていた。

 同じ顔であるはずの本来の姫は、姫らしい格好が若干浮いて見えてしまう。

 彼女はかつての黎華が身にまとっていた衣の一つを着ていた。白と水色、黄緑色などが混じった涼しげな色合わせである。


「英雪、何か言いたそうね?」

「いえ、私は何も」

「……わかってるのよ。兄さまのほうが姫らしいでしょ?」

「そのようなことは、決して。あなたも充分に美しいですよ」

「口が上手いんだから」


 沈英雪は表情を変えずに黎静に対応した。

 そのやり取りを傍で見ていた沈梓昊は、こらえきれずに口元に手をやってクックッと笑っている。


「――あぁ、『人は衣装、馬は鞍馬子にも衣裳』ってヤツだね」

「おい、師兄」

「いいの、わかってるから」

「怒ってもいいんだぞ、姫さん」

「私は大丈夫。――さぁ、尹沙鈴イン・シァリンさまのところに行きましょう」


 少しだけ離れた場に沈夜辰シェン・イエチェンが立っていた。彼はいつもの調子で思ったことをそのままぶつけてきたが、悪気はないのだ。

 そしてそれを誰よりも理解していると自負している黎静は、笑顔を絶やさぬままで一歩を進み出た。


「……姫さん、なんだかんだと師兄には甘いよな」

「我々には踏み込めない想いなどがあるのでしょう。師兄のほうも、ああやって悪態は付きつつも彼女のそばを離れませんしね」

「何もなけりゃ、面白い展開になってたんだろうけどなぁ」

「そうですね」


 ――何事も。


 歯車が最初から狂っていた。噛み合っていたと思い込み、回し続けていたようなものだ。

 沈夜辰には図らずも『妻』がいる状態であり、その彼女はこの水晶宮で動くことが出来ないままだ。そうして黎静には、この件に関わる事で重大な決意をしているらしい。

 この場にいる誰もが薄々感じ取ってはいるようだが、その誰もが本人には問えずにいる。


「……とにかく、だ。俺たちはここの姫さんを守らねぇと」

「ええ。この身に変えても、必ず」

「僕はまぁ、どうでもいいけど」

「はぁ……ここは素直に頷いてくれよ、師兄」


 沈夜辰の言葉にかくりと肩を落とすのは、沈梓昊である。

 彼らはほんの少し前に刃を交えた中でもあるが、今ではその遺恨などは無いようにも見えた。


「どうしたの? 置いていくわよ」

「はいはい姫さん。勇み足なのはいいですけど、俺ら護衛を立ててくださいよ」

「歩き方はもっとしとやかに」

「むぅ……『姫』って難しいわね……」

 

 黎静と二人の客卿。以前のようにとはいかないが、それでも黎静は姫らしくを努めようとしている。

 本来であれば『これ』が本当の形であり、理想であるのだと誰もが思いながら。

 そんな彼女たちの後ろに続くのはつまらなさそうな表情をしている沈夜辰で、彼らはゆっくりと霊亀のいる水晶宮の奥の空間へと足を運んだ。

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