52.再びの陰気

 ――胸騒ぎがした。

 期待のそれではなく、不安を煽るものだ。


(何の気配だ……?)


 そう内心で呟いてみるのは、斜陽山の主である大蛇だった。

 ヒトではなく、妖魔でもない。

 だからといって天仙の類でもないこの異質な気配は、どこから感じているのだろう。


(俺様が判断できないとなると……虞淵ユーユァン……尹馨イン・シンたちは大丈夫か?)


 ほんの数日前、彼は尹馨の婚姻の報せを小鳥から受け取った。

 実際に会って祝うつもりだが、しばらくは難しいであろう。

 そう考えていた先での、この気配だ。

 特定の出来る邪なるモノであれば、大蛇には差ほどの問題ではない。例えば過去に尹馨に大けがを負わせたあの沈夜辰シェン・イエチェンでさえ、その気配が読める以上は対策を考えられる。

 少し前の奇襲では虚を突かれた面もあるが、彼からは絶対的な殺意は感じ取られなかったのだ。


(ヤツは昔ほどの残忍さが無かった……だから俺様も油断したんだが)


 大蛇には、沈夜辰に対しては個人的な恨みがある。

 遠い昔の話だが、彼は沈夜辰に仲間を殺されているのだ。


 ――あれは、一時の感情の揺さぶりだと今更ながらに思う。


 彼に大きな衝撃が起こり、心の整理が出来なかった。そしてその場が偶々この斜陽山の麓であり、大蛇の腹心と妻が逝った。

 単なる八つ当たり――と言ってしまえばそれまでだ。

 怒りも悲しみも当然にあった。慟哭のままに叫びを上げてしまった大蛇は、近隣の村を一つ岩と化してしまった。

 結局は、自分も沈夜辰と同じことをしでかしてしまったのだ。


 ヒトを殺してはならぬ。


 そう、言われ続けてきた。

 彼がまだ普通のどこにでもいる蛇であった時から、彼は尹馨の父親と親交があった。

 だからこそこうして生き永らえ、山の主として現在も居座っているのだが、あの時の代償は避けられなかった。罪もない村人の命を奪ってしまった人数分、彼が失った仲間は魂の巡りを許して貰えなかったのだ。

 それこそが、命を知る術となった。

 寂しいと思うことは良くあることだが、彼はすべてを失ったわけではない。

 各地に散らばった自分の子がいるし、尹馨がいる。


(俺様に物事を報せる術があればよかったんだが)


 ――ビリ、と空気が揺れた。


 物思いに耽けていた大蛇の頭上を、『何か』が掠めたのだ。


『!』


 大蛇は慌てて宙を仰ぎ見た。

 彼の目に映ったのは、懐かしくもあり――おぞましいその姿であった。




「――……」


 水晶宮内では、沈英雪シェン・インシュエが微かな陰気を感じ取り、眉根を寄せた。

 禊場へと向かう黎静リー・ジンの支度を待っているところであったが、前にもあった状況に静かに心をざわつかせる。


「どうした、英雪?」

「……いえ、私の気のせいだと……、言い切れればよかったんですが。嫌な予感がします。水鏡で月樹ユエシゥに連絡を入れます」

「じゃあ俺はこのまま姫さんを待つぜ。うまく説明しとくし、この前みたいな事態にはならないだろ」

「そう、ですね……」


 沈英雪の隣で静かに座していた沈梓昊シェン・ズーハオがそう言ってくる。その言葉を受け止めた後、沈英雪はゆっくりと立ち上がり別室へと向かった。


「…………」

 

 彼らの『悪』であった者は、現在はこの水晶宮内にいて、おかしなことだが黎静に従っている。

 全くの憂いがないとは言い切れないが、それ・・が起こるとすれば新たなる存在でしかない。


(いや……そういやさっき、夜辰イエチェンが妙な胸騒ぎがするって言ってたな)


 何か関連があるのだろうか。

 彼がらみだとすれば、少々厄介なことになる。

 沈梓昊は無意識に右手を握りこんで、それを額へと当てた。拳をトン、と当てると脳内に響く『標』を確かめる。

 小さな痛みを感じたような気がした。

 そしてそれは、獬豸カイチとしての答えを出す暗示でもある。


「……ここに来てか」


 彼は公正を導く瑞獣。

 この世を傾ける者が現れるその時には、然るべき罰を下さなくてはならない。


 ――その時が、近づいているのかもしれない。

 彼自身がそう思わざるを得ない、予感がした。

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