51.黎華姫
水晶宮へと戻ってきた
権力者として争っていた
「……趣味が悪いわね。兄さまにはこんな派手な色も装飾も、全然似合わないのに」
螺鈿細工の文箱を開ければ、そこには黎家のものではない香袋と、華美すぎる装飾の簪がいくつも並べられていた。その下を覗けば、見なくてもわかるほどぞっとする恋文が敷き詰められている。
「ああ、ダメ。こんな鼻の曲がりそうなお香、世の女人には絶対に好まれないわ」
あからさまに嫌悪感を表に出しながら、黎静はそう言った。
傍で聞いていた侍女は、苦笑している。
「兄さまは沈香しか使ってなかったでしょ? ああ、こっちは……
「尹馨様をご存じでしたか」
「……ええ、実は旅先でね。兄さまよりずっと前に知り合ってたの。とんでもない美形なのに、色恋にはなーんにも興味示さなかった、面白味のない男よ」
「まぁ……ふふ。姫様ったら」
黎静と侍女は、そんな言葉を交わしながら『必要のないもの』を取り分け、代わりに新しい調度品を置いた。
しばらくはここが自分の住まいとなるが、それもおそらくは短い期間でのことだろう。
「……よく、お戻りになられましたね」
「色々手間取って、逆に遅すぎたわ。あなたを含めて沢山の人を黎家の事に巻き込んで、迷惑をかけてしまったわね。……でもこれからは、きっと良くなっていくから」
「はい、姫様」
この侍女は、黎華にとっても黎静にとっても、信頼のおける女性であった。
入れ替わりが行われる前から側付きであったため、常に『黎華』に仕えてくれていたのだ。
「……この二胡。兄さまは相変わらず弾いていた?」
「お体の調子がいい時は、必ずお弾きになっておいででした」
「私、憶えられなかったのよね。……今から思えば、女性らしいお稽古事って、苦手だったわ」
「姫様は弓に興味を持っていらっしゃいましたね。遊学でも学ばれましたか」
侍女の言葉に、黎静は「ええ」と答えながら弓を構える姿勢を取って見せた。男装をしているわけでもないのに、その姿だけで凛々しく見えてしまうのは仕方ないのだろう。
「……小さな町でね、射撃の大会があったの。腕試しもかねて飛び入り参加したら、優勝しちゃってね。町長の娘さんに求婚されちゃったわ」
「あら、まぁ……それもまた、姫様らしいとは存じますが……」
「兄さまが私以上に姫らしいのに対して、私もすっかり男装が身についちゃったわ。今もこの服がスースーしてて落ち着かないんだもの」
かつて『黎華』が袖を通していた衣の一つを、『黎静』が着ている。
元をたどれば自分のものであるはずのものだが、それもまた成長と共にすり合わなくなっていったのだろう。
入れ替わりの代償は、様々なところで未だに影響を残してしまっているのだと思い知る。
二胡を手に取り、微かな力で弦を弾いてみた。
そこから生まれた音は、音色には程遠い気の抜けたようなものであり、黎静は苦笑するしかなかった。
「……この二胡も、兄さまじゃないと嫌だって」
「姫様」
「あのね、あなただけは憶えておいて? 私がここにいて――……」
黎静は静かに自分を語った。それは傍にいた侍女のみが耳にすることの出来た、本当の『黎華姫』の切なる願いの響きであった。
「……嫌な気配がする」
黎静と侍女のやり取りをわずかに離れた位置から見守っていたのは、
傷が癒えていないからというのは表向きな理由で、もっと大きな事情が絡んでいるらしい。
『それは、あなただけの勘?』
「君が感じ取れないのなら、そうなんだろうね。……天狐としての悪寒みたいなものさ」
沈夜辰の傍には
最初こそ嫌悪感を見せてはいたが、黎静が許しているということを感じ取り、傍でふわふわと浮いている。
水蛇――
(……なんだろう、彼の言い方だと、天狐にしかわからない気配がするっていうこと? それって、よくない兆し?)
響淮は黙ったままで思案をした。
今更であるが、隣に立つ男は天狐だ。『瑞獣』の枠からは出てしまってはいるが、何よりも多種族との関わりを持ちたがらない孤高の種だ。
純血こそ至高。
そう謳われてきたことは、響淮ですら知っている。
だとすれば、沈夜辰はどうだったのだろう。幼い頃に鸞の楼閣に預けられたまま門下に収まったということは、半分の血は別にあるのだろうか。
(ぼくは、どちらかというと母の……
真実を知ってからは、それまでぼんやりとしていただけの響淮の脳内は、いつだって澄み渡るように広がっていた。
考えること、見えなかったこと。この先にやるべきことなどが、どんどん見えてくるのだ。
(黎華は、いつ帰ってくるんだろう……話したいことがいっぱいあるのにな)
響淮はそんなことを思いながらくるりと宙を舞った。
天上にいるはずの黎華は、もうすぐこの水晶宮へと帰ってくる。
そう信じて、待つしかないのだ。
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