50.瑞獣、白澤。

 水晶宮内、水蛇である響淮シャンファイ黎静リー・ジンと話し合っている頃。

 かつての黎華が用意してくれた室内で、沈英雪シェン・インシュエが静かに座していた。

 美しいかたちは相変わらず、何かを思案しているのか双眸は伏せられ、何者も近づかせまいという気迫を常に放っている。


 ――沈英雪は、自らこの室に籠ることを選択した。


 己の心が己を許すまで。

 己の未熟さを恥じることがなくなるまで。

 それはいつまでの事なのか。

 彼が己に厳しい限りは、永遠さえも感じる時間だとも思える。


(姫は、お元気だろうか)


 静かな空間の中、それだけを考える。

 さほど他人に頓着を示さない彼にとっても、黎華リー・ファという存在は特別であった。

 師兄である尹馨イン・シンがあれほどにまで興味を示し、恋焦がれて心酔した。

 その経緯や感情を、不思議と理解できてしまうのだ。


 ――だからこそ。


 目の前にいたはずで、誰よりも先に救いの手を差し出せたはずのあの時、動けなかった自分を悔やみ許せずにいる。


『わたくしを下ろしてください、沈英雪シェン・インシュエ


 尹馨を救うためだけに、自分の命すら顧みなかった黎華。

 体力も気力もほぼ皆無のあの状況ですら、『巫覡』としての役目を忘れてはいなかった。

 細く、小さく震えていたあの体の感触を、沈英雪は忘れることができない。

 黎華に下ろせと言われて、僅かに戸惑った。

 己の腕の中にずっと納まっていてほしい。そんな浅はかな感情すら抱いていたようにも思う。


 沈英雪は天上では『ハクタク』である。

 知識の王とも称される瑞獣は、人界でもその存在を広く知られている。

 だが彼は、人においては高貴かつ有徳な者にしか心を許さなかった。

 天上での親代わりが鸞の月樹ユエシゥであったこともあり、正しきものと美しきものが当然好きだ。

 師兄の為に潜入したワン家では、主の卑しさに人の底辺を垣間見たような気がした。


 ――姫に対する欲深さ。

 それにより得られる自身の地位への固執と、身勝手さ。

 名ばかりの高貴さに疲弊し、沈梓昊シェン・ズーハオの策――怪異事件を実行すると共に、早々に離れるほどであった。


「……姫」


 思わず、言葉にしてしまうほど。

 それに驚いて沈英雪は、右手を口元に持っていき、声音をかき消すようにしてから首を振った。

 心酔していたわけではない。

 だがしかし、黎華という存在は、彼の心の大半を占めるほどの存在であった。


 美しく高貴で、有徳で――。


 本来の背景など無ければ、『瑞獣・ハクタク』として、仕えるべきは黎家でしか無かっただろう。


 あの時なぜ、彼の言葉に従ってしまったのだろう。

 従わなくてはならなかった。

 黎華は己の命を差し出す覚悟で、尹馨を助けるための行動を取った。

 ずるずると地を這いながら、息も絶え絶えに、それでも自力で辿り着きたいからと沈英雪の助力は一切借りずに。


 あの姿こそが、尊いと感じた。

 美しきものとは外見のことだけではなく、行いや心の向き方でもある。


(嗚呼――やはり、私は……)


「……やっぱりここか」

梓昊ズーハオ


 戸口から現れた姿に、沈英雪は表情を揺らがせた。

 そうして自ら腕を伸ばし、歩み寄ってきた沈梓昊へと縋る。


「どうした?」

「……私は、永遠に己を許せないかもしれません」

「ああ」

「それでも貴方は私と共にいると、言ってくれるんですか」

「……なんだよ、今日は随分かわいいなぁ、俺の英雪。……どんなことがあっても、俺はお前と運命を共にする」


 不安と苛立ちをかき消すようにして、耳元に降ってくるのは沈梓昊の声だった。

 彼は沈英雪と同じく自らを罰していて、それでいて自由に見回りや周囲の動向調査などを密に行っている。

 そんな彼は、今日も先ほどまでこの室から出て何かの用を済ませてきたのだろう。

 いずれ戻る黎華の立ち回りやその周りの地固めなど、おそらくは完ぺきに。


 少し前までは、夜にしかこんな姿を晒さなかった。

 それほどまでに、沈英雪は心を乱しているのだろう。


 自身を責めて、責め続けて。

 だからこそ沈梓昊は、彼の傍に居ると誓っている。


「謹慎もいいけどな。ここにいる姫さん・・・・・・・・の力にもなってやらねぇと」

「それは……わかっています。彼女がを連れてきたのは、かなり驚きましたが」

「奇縁だなぁ。師兄――ヤツは今のところ、俺達には会いたくないだろうけどな」

「……あの黎静・・どのが決めたことです。我々はそれを受け入れるしかありません」


 会話を交わすうちに、沈英雪はいつも通りの落ち着きを取り戻していた。

 『今』は、様々なことを共有しあい、受け止めるしかない。天上のほうは今のところは何の問題もないだろうが、やはり全ての状況は把握しておくべきなのだ。


「こっちの姫さんが、後で師姐に会いに行くってよ。俺は付き添うが、お前は?」

「……それでしたら、参ります。私はそのための存在ですから」

「わかった。そう伝えておく」


 黒と白の従者は、いつだって忠実だ。

 水晶宮で起こっていること、それを含めた外部の動きさえも、この二人に左右されるほどに信頼を置かれているのは確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る