49.生まれた意味

 水蛇みずちは彼女の言葉をすぐには理解できずにいた。

 自身の出生が明らかになったというのに、信じがたい。


黎静リー・ジン……きみが嘘を言うひとには見えない……』


「……そうね、そうとらえてもらえるのは嬉しいわ。でも、やっぱり混乱させてしまったわね」


『ぼくがこの地……水晶宮に近しいのは、何となくわかってた……だけど、尹沙鈴イン・シァリンがぼくの母……? 彼女はぼくを産める状況なんかじゃなかったよね?』


「私も、隣の『彼』も、最近まで知らなかったのよ。沙鈴さまは……ずっと隠していたみたいなの」


『……それで、ぼくの記憶や意識が霞がかかったままなんだね。ぼくはずっと、あの水源の泉に隠されていた……だけど、黎華が巫覡ふげきとなったあの時、ぼくには声が聞こえたんだ』


 ――あなたは彼と行きなさい。どうか、彼を守ってあげて……。


「沙鈴らしい……一番安全で、霊力を持つものしか見えない存在であれば、黎華姫のそばが適していると判断したんだろうね」

『ずいぶん他人事みたいに、言うね……』

「……僕に父親面をしろって? 君も望まないし、僕も知らなかったんだからどうしようもないだろう?」


 黎静の隣に立つ男――沈夜辰シェン・イエチェンが苦笑を浮かべつつそう言った。

 赤い瞳が放つ異常さは、今も変わらない。

 それ以前になぜこの男が、この場にいるのだろう。


『お前……血の匂いがする。怪我をしているの?』

「僕はもともと他人の血で穢れた存在だけど? ……まぁ、この黎静がとにかくお節介でね。それで死なずに済んだんだけど」

『……ふぅん』


 水蛇は複雑な心境であった。

 そしてまた、沈夜辰もそうなのだろう。

 以前はもっと邪悪さを前面に出した空気感を持っていたが、やはりそれが薄くなったかのような気がするのだ。


 ――水晶宮、そして霊亀。

 人界にて最も神聖で、清らかな泉を湛える霊峰。

 霊峰こそが霊亀であり、彼女――尹沙鈴イン・シァリンそのものが、母なる大地とも言える。

 リー家が主となり巫覡を輩出し、霊峰を守り水を清め、神の声を聴く。

 黎明期はその通りであったはずだ。

 尹沙鈴が血で穢れる前は、前代の霊亀までは霊峰を守り水を生み、そして人々を育んだ。神に属する霊獣は本来そのような役割でそれぞれの地に居座り、過ぎる年月をじっくりと過ごしてきたはずなのだ。


『黎静』

「……なに?」

『霊亀は清らかな環境じゃなければ生きてはいけない。浄化の役目を持った黎華が居ないということは、きみがそれを担えるの? きみは黎華と同じように……花丹をその身では生み出せないんでしょ?』

「痛いところを突いてくるわね……。こういうところは夜辰に似ているのかしら」

「……まぁ、真実なんだから仕方ないんじゃないの」


 水蛇は誰よりも黎華の近くにいた。

 だからこそ彼の体のことは知っていたし、その片割れである、今目の前にいる黎静のことも知っているつもりであった。


 ――巫覡は禁を犯してはならぬ。


 それはかの昔から、この水晶宮に伝え継がれてきた言葉だ。

 巫覡が巫覡という役割である限りは、この宮から出ることもその役目を辞することも出来ない。

 過去に禁を犯した巫覡がいたからこそ、今代の巫覡は死ぬことさえも許されない。

 こんな負の連鎖は断ち切ってしまうのが一番いいと誰もが思うが、それは霊亀を見捨てることと同じでもあった。


『……まさか、沙鈴を救う方法でも見つけた……?』


 水蛇がぽそりとそう言うと、黎静は僅かに肩を震わせた。

 それを視界に入れていたのは隣に立ったままでいる沈夜辰で、彼はそれに対して興味はなさげにしている。


「見つけた……というよりは、私はこの方法を前から知っていたの。そしてそれは、私が『巫覡』の座に戻らなければ出来ないことよ」

『黎静……ぼくはそれが、とても嫌なものの気がするよ……』

「……ふふ。でも私は、最初からいずれは実行すると心に誓ってた。だから西の斜陽山に籠ってたし、外の世界も十分すぎるくらい堪能してきたわ」

『……黎華も知らないんでしょう?』

「だってこれは、兄さまと沙鈴さまへの償いなんだもの」


 黎静は笑顔であった。

 それを不満気に受け止めているのは、水蛇と沈夜辰だ。


「ねぇ、水蛇。あなた名前があるんでしょう。兄さまがつけたそれを聞かせてくれる?」


 水蛇の不満――不安をかき消すようにして、黎静は話題を変えた。

 そして水蛇は、それに逆らうことができずに一度はためらい、口を閉ざす。


『……、響淮シャンファイ


 少しの間の後、水蛇は小さくそう告げた。

 それが『彼』の名前であるようだ。

 『淮』は霊峰の下流へと流れる大河の名であり、水にちなんだものを選んだのだろう。


「いい名前ね」

『ぼくも、気に入ってる。……ねぇ、黎華はいつ戻ってくるの? どこにいったの?』

「……兄さまは、天界の花嫁となったのよ」

「ハ。……結局、尹馨が娶ったのか」


 二人の静かな会話に、沈夜辰は嘲笑いながらそう言った。

 それを見て、黎静が眉根を寄せる。


「……まさか、心残りでもあるっていうの?」

「何言ってるの。……僕が、誰に? 黎華姫も確かに綺麗で可愛らしかったけど、あんな骨と皮みたいな体なんか……っと」


 沈夜辰は癖ともいわんばかりに他人を卑下するような言葉を並べた。

 だが、全てを言い終える前にその唇を閉じて、視線を逸らす。

 水蛇――響淮と黎静の視線が鋭くなったためだ。


「いや、まぁ……悪かったよ。別に何の引っ掛かりがあるとか、心残りとかがあるわけじゃないから」


 少し前、皆に恐怖を植え付けていたはずの存在が、今ではすっかりその片鱗すらない。

 言葉選びには問題はありすぎるが、それでも沈夜辰は確かに変わりつつあるようだ。

 ちなみに沈梓昊シェン・ズーハオに斬られた傷のほうは、完治には至ってないらしい。


響淮シャンファイ。……私に協力してくれるわね?」


『気は乗らないよ。……でも、それしか方法は無いんでしょう』


「今すぐにじゃないから、安心して。私も兄さまにはもう一度会いたいし、沙鈴さまとも話したいから」


『……うん』


 黎静の思惑には、頷きを返すしか無かった。

 沙鈴を、巫覡の負の連鎖を、すべてに救いを――。

 彼女の決意を察した響淮には、異論を告げることが出来なかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る