第五章

48.水蛇


 ――黎華リー・ファが、いない。


 池の中で目を覚ました時に、『彼』はすぐにそう思った。

 気配も、二胡の音色も、何も感じない。


『黎華?』


 呼びかけてみた。

 だがそれは、誰にも届かず空気に消えたかすらも解らない状態であった。


(いない。どうしよう。ぼくがあの子を支えなくちゃいけないのに)


 『彼』は焦りを憶えて、心でそんな呟きをする。


 黎華が『黎華』として巫覡ふげきの地位についた時、自分は生まれた。

 彼の弱々しい花丹に呼応して――『顕現』した。

 それまでは、禊の泉の中で静かに過ごしていた。霊亀レイキが常に出す呪いを全身に感じながらも、自分では何も出来なかった。


 ――苦しい、苦しい……。


 そう感じながらも、動くことすらも適わない存在だ。

 自分は『何』であるのか。

 どうして意識があるのか。

 何もわからない。


 霊峰の水と言う水を自由に行き来できる存在。巫覡と上位の術士にしか見ることの出来ない、『水蛇みずち』。

 ――それが、『彼』であった。


(黎華、黎華……。どうしちゃったの。ぼくがいるのに、どうして何も感じないの?)


 水蛇は静まり返っている水晶宮を、宙に浮きながら静かに巡っていた。

 侍女たちはみな疲れ果てている。

 華やかさはどこにも感じられず、それぞれに白いころもを身に纏い、まるで葬式のようであった。


(……黎華。まさか)


 水蛇はそんな考えを起こして、咄嗟に首を振った。

 そんなはずはない。

 黎華が仮に死んでしまったのなら、おそらく自分自身も消滅してしまう。

 何故だかは解らないが、黎華と水蛇はやはり一心同体であるらしいのだ。


『黎華っ!!』


 水蛇は大声で黎華を呼んだ。

 それに応えたのは、軒下に灯籠と一緒に飾られている、銅の鈴だけだ。

 風に乗りその身を揺らして、りりん、と鳴る。


 ――お前は、不思議だね。


『…………』


 いつかに、黎華から言われた言葉を思い出した。

 彼が言うには、自分のような存在が泉から生まれてくるのは稀だと言う。

 歴代の巫覡にもそのような存在はおらずに、黎華も最初はとても驚いていたのだ。


(ぼくは……どうして、『ぼく』なんだろう。自分が何者かもわからない……だけど、黎華が居てくれないと、すごく不安だ)


『……黎華……』


 水蛇は再び、黎華の名を呼んだ。

 それでもやはり、返事はない。

 静まり返った水晶宮は、廃れてしまったかのような空気だ。

 その中を漂いふわふわと宙を舞う水蛇の姿は、誰の目にも留まらない。

 黎華――巫覡でない限りは。


「……あなたが水蛇ね?」


『!』


 宮内をぐるりと空から巡り、眼下の状況を確認したところで、そんな声が飛んできた。

 黎華かとも思ったが、空気が――花丹の気配が違う。

 だがその姿は――。


『……黎華……?』


 口から思わず、黎華の名が漏れた。

 視線の先にいるのは、同じ姿の『別人』だ。


「戸惑っているのね。大丈夫……私はあなたの味方よ。あなたの『黎華』とは、魂を分けた存在なの」

『じゃあ、あなたが黎静リー・ジン……?』

「そうよ。……ねぇ、降りてきて。あなたに話さなくちゃいけないことが沢山あるの」


 そう言って片手を差し出してくる黎静だという少女は、見る限りでは黎華と同じかたちをしている。

 美しく誰もを魅了する姿。

 立っているだけで心を動かされるかのような美姫びき

 ――なのだが。


『……黎静。外にいる時間が長すぎたんだね。ぼくの黎華は、もっとしなやかな所作で相手を手招くんだ』

「ふふ……それを言われると、反論できないわね。……室内で密に話したいのよ」

『うん、わかったよ』


 水蛇はそこでようやく、宙に浮いていた自分の体を黎静の傍まで移動させた。

 間近で見る黎静は、やはり自分の知っている『黎華』ではない。

 それでも彼ら二人の事情は水蛇自体もよく知っているので、本来の姫――もとい巫覡は彼女であるべきでこれが収まるべき立ち位置なのだと理解もしている。

 

『あなたが戻ったということは……黎華は外に出られるようになったんだね』

「そうね……次に会うときはつがいを連れてくるわよ、きっと」

『番……!? 黎華になにが起こったの……?』

「私が知っていること全部……話すわ。それから、もっとあなたを驚かせてしまうかもしれないの」


 水蛇を手元に引き寄せつつ、黎静は苦笑しながらそう言った。

 彼女はやはり『男』として過ごしていた時期が長すぎたのか、乙女らしい仕草には欠けるものがある。


「……黎静?」

『!!』


 彼女に連れられながらかつての黎華が使っていた室内へと招かれた直後、異質な声がもう一つ存在することを知った水蛇が、全身を震わせた。

 奥からゆっくりと姿を見せた影に、水蛇は『拒絶』を示したのだ。


『……っ、黎静、きみは……、ぼくを騙したの……!?』

「違うの。どうか落ち着いて」

『何がちがうの。こいつは……この水晶宮を穢した本人じゃないか!!』


「…………」


 水蛇の言うことはもっともであった。

 だから黎静も、そして奥から姿を見せた影の存在も、何も言い返すことができない。


「……水蛇、あなたは『彼』を『敵』としてしか、認識できていないのね」

『それ以外のことを、ぼくは知らない。……お前は霊亀――沙鈴シァリンを……傷つけて、今だって苦しめてるじゃないか』


 ――黎華のことだって、辱めたくせに。


 と、水蛇は吐き捨てるようにしてそう続けた。

 その言葉をぶつけられた『彼』は、無表情で受け止めた後に、視線を下げて苦笑する。


「……黎静、これじゃ埒が明かない」

「そういうあなたは随分と冷静ね。子を成したことすら知らなかったくせに」

「だってそれは……沙鈴が僕に明かさなかったんだから……知らないままが良かったんでしょ」

「……あなたはいい加減、沙鈴様と向き合いなさい」


(……この二人……いったい何の話を、してるんだろう……)


 水蛇は二人を見比べつつ、不満げに心でそう呟いた。

 黎華の顔をした、黎華ではない者。

 そして誰よりも知っていて、誰よりも憎んでいる者。


 そんな二人が突然自分の目の前に現れ、何故か軽い口論を続けようとしている。


『きみたち、ぼくに何を伝えたかったの……?』


 思わずそんな言葉が漏れる。

 それを聞いた黎静が慌てて水蛇へと視線を向け、ごめんなさい、と言ってから言葉を改める。


「水蛇、あなたの真実を告げるわ。あなたは霊亀の子――ここにいる、沈夜辰シェン・イエチェンの子でもあるのよ」

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