42.白銀の古樹

 二人は手を繋いで、大きな庭を散歩していた。

 上階からは賑やかな声が漏れ聞こえている。宴はあと数刻は続き、皆がそれぞれに楽しむのだろう。


「ねぇ、尹馨イン・シン。本当に抜け出してきて良かったの?」

「……黎静リー・ジンはあの場に、あと何時間も座ったままでいられるのか?」

「それは……」


 宴の主役は尹馨と黎華だ。

 花嫁と花婿が二人そろって退場してしまうのは、本来であれば許されないのかもしれない。

 だが、尹馨の言うようにあのままでずっと『姫らしさ』を演じているのは、さすがの黎華も少しだけ疲れてしまうと思い、言葉を濁らせる。


「その為に、わざと俺にお酒を飲ませたの?」

「うん、まぁ……それは否定しないよ。でもね、実は見せたいものがあったんだ」

「見せたいもの……?」

「……おいで」


 尹馨はそう言いながら、黎華の体を抱き上げる。

 黎華はまだ酔いがさめておらず、こうして会話は出来るものの、足元はふらついていたためだ。


「あのお酒、かなり強いんだけど……」

「そうだね。あれくらい強くないと、ここじゃ誰も酔えないんだ」

「意外と酒豪なんだね、天上の人たちって……」


 黎華の言葉に、尹馨は困ったようにして笑っていた。

 彼は先ほどの言葉通りで、少しも酔ってはいないらしい。

 酒は香りと味と、そして酔いを楽しむののはずだ。それなのに彼は、酔わない体質だと言う。


「尹馨は……酔えないお酒は、つまらなくはないの?」

「味は分かるから、大丈夫だよ。それに今の俺には、酔えるものがある」

「?」

「君だよ、黎静」


 とんでもない事を、さらりと告げられた。

 黎華はそれを耳にして、見上げていた彼を見ることが出来ずに、尹馨の首元に顔をうずめてしまう。

(なんでこの人、……こういうことを、恥ずかしげもなく言うんだろ……)

 心でそう呟きつつ、頭上で小さく笑っている気配がして、黎華は頬を膨らませた。

 自分だけが彼の言動に照れて、いちいち恥ずかしがったり喜んでしまったりと言う現実が、少々不公平だとも思えた。


 それからしばらく尹馨は歩き、黎華は彼に横抱きにされたままでゆったりと流れていく周りの風景へと視線を向けた。

 蓮の花が咲き乱れる池の先はには長い渡殿があり、その向こうに見えるのは桃色の樹木だ。はらはら、と桃色の葉か花が常に舞い散り、幻想的な光景を目にした黎華は感嘆のため息を漏らす。


「きれいだね……」

「あそこは恋の咲く場所なんだよ。女性がよく願掛けに来る」

「へぇ……」


 恋を願う乙女が祈る場所。

 そんな光景を思い浮かべて、黎華は目を細めた。

 清らかで美しい願いはやがて、誰かにたどり着くのだろう。


「――おや、尹公子」

「あなたは祝宴には参加されなかったのか」

「いらっしゃると思っておりましたからね」


 庭を抜けたかと思った先は、うっすらと靄のかかった空間へと出た。

 その靄の先から黎華の知らない声が聴こえてくる。

 そちらに目をやれば、背中の曲がった老人がにっこりと微笑んで立っていた。長い白髭を湛え、手には長い棒を持っている。

 どうやら、船頭であるらしい。

 老人の背後にうっすらと見えるのは水面であり、そして小舟が浮かんでいたのだ。


「尹公子、黎華さま。この度はおめでとうございます」


 その老人は、黎華が尹馨の腕からきちんと降りて二人が並ぶのを待ってから、そう言って深々と頭を下げてきた。

 どこにいても自分は知られているのだなと思いつつ、黎華は慌てて彼に礼をする。


「いやはや、尹公子も嫁を娶る年になりましたか。良い美人さんだ」

「……ありがとうございます」


 尹馨とは昔馴染みなのだろう。

 まるで孫に会った祖父のような目線で、こちらに語り掛けてくる。

 そしてその老人は、尹馨と黎華を後ろの船へと招いてくれた。


「この先は霧が濃くなる。嫁さまは尹公子にしっかり掴まっておいでなさい」

「は、はい……」

「大丈夫、怖くは無いよ」


 ――では、参ります。


 老人がそう言えば、船がゆっくりと動き出す気配があった。

 ここまでの道筋が桃源郷のような風景であったために、少しの不安がよぎる。

 だがそれでも尹馨は優しい声音で黎華に寄り添い肩を抱いてくれているので、それ以上のことは考えないようにと黎華も務めた。


 先の見えない水面は、どうやら湖らしいと悟った。

 川であれば流れがあるのに対し、穏やかで静かであったからだ。

 霧がかかっているのは、隠すためなのかと思い、船が進む方向へと視線をやった。

 見えない光景にはやはり怖さもあるが、空気としては重苦しい気配などは一切ない。この先には、尹馨が見せたいと言っていた目的地があるのだろう。


 そうして、数十分ほど進んだだろうかと感じた時には、ゆっくりと視界が晴れていった。


「……あれ、あそこ……光ってる……?」

「うん。俺が見せたかった場所にある古樹だよ」


 黎華が思わず身を乗り出してしまう光景が、視線の先にはあった。

 霧を抜けた空間にあったのは、銀色に光る一本の木があったのだ。

 先ほどの桃色の木もそうであったが、人界では到底見ることの出来ない、奇跡のような場所であった。

 黎華はその木に見惚れている間に、船は桟橋にたどり着く。

 白銀の木を存在させるためだけにあるような、小さな島がそこには存在していた。

 尹馨に導かれるようにして手を引かれた黎華は、言葉なくその島へと足を付ける。


「――尹公子、私はこれにて。お戻りになる時にまた呼んで下され」

「ああ、いつもありがとう」


 船頭であった老人は、そう告げた後、一瞬の迷いもなく桟橋から湖へと飛び込んでいった。

 黎華はそれに驚いたが、尹馨は苦笑するのみだ。


「彼の本当の姿は、この湖の主である蛙なんだよ。とても永い時を生きていて……自然と天仙になった方なんだ」

「そう、なんだ……」

「そしてこの小島は、俺と両親しか立ち入ることが出来ない。何より神聖で、妙なる場所……いつからあるのかは、母も知らないそうだ」

「そ、そんな大事な場所に、俺を連れてきても良かったの……?」


 だからだよ、と言いながら、尹馨は黎華の手を引いた。

 そうしてゆっくりと歩みだした彼は、やはり古樹へと黎華を連れて行くらしい。


 ――それは見上げるほどの大樹であった。幹から枝葉まで、全て白銀であり、やはり輝きを放っている。


「すごい……地面も、落ちた葉で銀色になってるんだね……」

「この葉は枯れずに降り積もる。たまに湖に流れ出て、それが装飾品として使われることもあるらしい」


 二人は横並びになりながら、大樹の根元までたどり着いた。

 そうして自然に膝を折り、尹馨も黎華もその場で両腕を差し出し、礼をする。


 すると、風も吹いてはいないのに枝が揺れて、葉と葉が微かにぶつかり合う音が聞こえてきた。

 かさ、かさ、と繰り返し。


「…………」


 それを黙ったままで聞いていると、一瞬だけ意識が揺れて、黎華は閉じていた瞳を開き顔を上げた。


「尹馨……、あれ?」


 隣に居るはずの尹馨が、居なかった。

 立ち去る気配は無かった。


 ――そうではなく、黎華は別空間へと移動させられたのだ。

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