40.天花祝言
黎華に至ってはそれすら聞かされていなかったので、これからの展開にはさらに混乱することとなる。
「馬鹿者が」
「………」
「………」
尹馨と黎華は、二人そろって
待機していた侍女を何時間も待たせ、それ以外の者たちにも影響を及ぼしたゆえのことであった。
「まったく、そなたがそんなにも色狂いだとは思わなんだ。我が息子ながら、恥ずかしい」
「……返す言葉もありません」
尹馨が隣で頭を下げながらそう言っていた。母に怒られて気落ちしているのかと思えば、苦笑しているだけであった。
結局二人は、巳の刻が終わりを告げる頃になりようやく侍女を室へと招き、事態を把握していた古参の侍女から沢山の嫌味と叱咤を受けたうえで、あえて引き離されての湯あみをさせられた。
「湯場で再び情を交わされると困りますからね!」
古参の侍女は大声でそう言いながら、尹馨を別の湯場へと連れて行ってしまった。
黎華はと言うと、静かな侍女三人ほどに付き添われて、禊場のほうへと案内された。
そこで体の隅から隅を彼女たちに洗われてしまい、羞恥などを感じる暇もなくどんどん身支度を整えられていく。
「あ、あの……そんなことまで、しなくても、……」
「姫さまは黙っていて良いのです」
「いや、そうじゃなくて……あのっ、ちょっと……!」
危なくおかしな声を上げてしまう所だった。
色んな所を三人の見目麗しい侍女に洗われる事となってしまった黎華は、
そうして全てを諦め、彼女たちの好きなようにさせていると、次第に体から疲労感が抜けていくように思えた。
「なんと美しい……良き御髪をお持ちですね、姫さま」
「……ありがとう。髪だけは……自分の自慢できるところなのです」
「姫さま、あなたさまはもっとご自分を労わって差し上げて。ここにいらっしゃる限りでは、わたくしどもがたくさんそれを示してごらんに入れます」
髪を洗ってくれている侍女は、とても自慢げにそう言ってくれた。
他の侍女もそうであったが、月樹の配下であるためなのか、侍女たちは黎華をとても大切に扱ってくれていた。
それは、水晶宮での侍女たちを彷彿とさせて、それでいて彼女たちとは距離を感じていたのもあり、少々複雑な気持ちにもなった。
水晶宮の侍女たちが悪いのではない。
彼女たちは彼女たちで、ずっと自分に尽くしてくれていた。
各々で抱く後悔とやるせなさをどこにも吐き出せずに、それゆえに距離が生じてしまっていただけなのだ。
彼女たちは今どうしているのだろう。そこまでを考えて、何もしてやれなかった自分を恥じた黎華は、目頭を熱くさせた。
「……姫さま」
「ごめんなさい……すぐに、止めます」
「いいえ、良いのです。あなたさまの境遇は、ここの誰もが存じております。だからこそ、自由でいて頂きたいのです」
「うん……ありがとう……」
黎華は涙を零していた。
最初は慌ててそれを拭っていたが、どんどん溢れてくる涙は止めることが出来なかった。
侍女たちの言葉に甘えるようにして涙を抑えることはやめて、自然に任せることにした。
この禊場は水晶宮とは違い、血の色をしていない。
『神泉』と呼ばれているらしく、常に月樹が清らかにしてくれているらしい。
それこそが、真の禊場――本来は当たり前の光景なのだ。
(月樹さまに健康体にしてもらったんだから、あっちに戻ったらちゃんと出来ることしていかないとな……)
内心でそんな考えを巡らせていると、いつの間にか自分の体は泉から上がっている状態となっていた。
そうして、柔らかな衣で水滴を丁寧に取られ、一枚の薄衣を差し出される。
「これを着ればよいのですか?」
「はい。本日のお召し物をご用意してありますので、そちらに移動して頂きます」
「あの……室に置いてある衣でも十分なのですが……」
「何を仰いますか。姫さまは花嫁さまでいらっしゃいますのよ?」
「……え?」
侍女から聞き慣れない言葉を聞いたと思った。
差し出された衣を手に取り袖を腕に通したところで、その動きが止まってしまう。
――今この瞬間から、君は俺の妻になる。
昨日の尹馨の言葉を思い出して、あれ、と首を傾げた。
その彼には明日の衣がどうの、と言われていたような気がする。
それが今に繋がるのだとしたら、思いつくことは一つしかない。
「え、あの……つまり……?」
「そうです。本日は尹馨さまと黎華さまの、祝言なのですよ」
「……えぇっ!?」
思わず、そんな声を上げてしまった。
――それが、半時ほど前の話であった。
あれよと言う間に黎華は侍女たちに別の室へと連れていかれ、婚礼用の衣を着せられたかと思えば、月樹の目の前でこうして膝を折り、彼女に叱られるという流れとなってしまったのだ。
「黎華に怒っているのではないぞ?」
「いえ……その、……すみません……」
「顔を上げよ黎華。せっかくの牡丹紅の衣が台無しじゃ」
「はい……」
美しい紅色の衣であった。
金の刺繍は百花の王である牡丹があしらわれ、なんとも華美だ。
黎華はやはり女物の衣が用意されていたのだが、それについては何の不満も生まれなかった。
もう何年も女として過ごしてきたためなのか、どちらかと言えばいきなり尹馨のような衣を身につけよと言われるとそちらのほうが困っただろうと思ってしまうのだ。
「綺麗だ、
「……あ、ありがとう……尹馨も、素敵だよ……」
尹馨も黎華と同じ色の衣を着ていた。
いつもは青系の衣が多かったせいか、意外性もあり思わず目が行ってしまう。
どこから見ても美丈夫なのは変わりはない。
この男が自分の夫となるのか、と心で呟くと、黎華は頬を熱くして俯いた。
「黎静」
「うん……その、なんか、恥ずかしくて……」
「これ、盛り上がるのはまた後にせんか」
尹馨が黎華の頬へと手を伸ばし声をかけると、黎華は躊躇いつつもゆっくり顔を上げた。
そこから彼らは見つめ合い、僅かに微笑み合っていると、目の前の月樹が咳ばらいをしてきたので、慌てて姿勢を正す。
「……すまんのう、黎華よ。だまし討ちのように祝言を準備してしもうて」
「いいえ、こんなにもして頂いて……とても嬉しいです」
「うむ、そなたは笑っているのが一番かわいい。これからは
「はい……月樹さま」
月樹は黎華を愛おし気に見つめていた。
その眼差しがとても温かく、親の情をほとんど知らずに過ごしてきた黎華にとっては、とても嬉しい瞬間でもあった。
「さて、本来ならば両家そろっての色々な儀式も必要ではあるが、そなたらの場合は例外としよう。妾の前で三礼するだけで良い。あとは侍女たちが鳥となり花となり、天上および下界に至るまで、事を知らせてくれるであろう」
月樹がそう言うと、尹馨も黎華も同じく頷いて、彼女の前で膝を折ったまま礼をした。
本来であれば三拝三礼をしなくてはならないが、尹馨はヒトではなく、そして黎華の立場も複雑であることから、省略されるようだ。
目の前の鸞が婚姻を認めるとあらば、それに異を唱える者はいないだろう。
(……まぁ、俺は男だし、子供の約束は出来ないんだけど……)
「ああ、そうだ。尹馨よ。妾はしばらく黎華を慈しみたいゆえ、子を成すのは後回しにせよ」
「――え?」
「わかりました、母上。ですが、黎静は私の妻です。そこはお忘れなきように」
「ええい、わかっておるわ。だが、閨に篭りきりは禁ずるぞ!」
信じられない言葉を聞いた、と黎華は思っていた。
だがしかし、その後の言葉のやり取りを頭上で聞いて、さらに目を回す。
何を言われたのだろう――と、反芻する間もなく、その後は天上の者たちに盛大に祝われ、花が舞う宴が開かれてしまった。
その勢いに飲まれた黎華は、一旦は言葉の意味を考えるのはやめておこう。――そう、思うのであった。
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