39.求婚
ぱちん、と目の前で指を弾かれたかと思えば、次の瞬間には
「……月樹、さま……」
かろうじてそう告げた後、彼はゆっくりとその場で体を横たえて眠らされてしまった。
「
月樹はそう言いながら、黎華の体をいともたやすく浮かせて、力を出しているだろう手のひらをきゅ、と握りしめると、彼を別空間へと送り届けた。
それは、愛する息子へのささやかで特別な贈り物だ。
「うむ……さすがにちと疲れたのぅ。尹馨たちを覗き見てやるつもりだったが、妾も少し寝るか……」
月樹はそんな独り言を言いながら、ころりと寝転がってあっという間に眠りへと身を任せてしまうのだった。
黎華が次に感じたものは、敷布の感触であった。
上等でありながら真新しく、皴もない。
「……あれ?」
頬でその感触をじっくりと確かめつつ、黎華ははっきりとしていく自分の意識を自覚して、瞬きを数回する。
知らない室内であった。
整えられた室の、寝台の上に移動させられたのだと自覚してから、うつぶせであった自分の体を起こして、辺りを見回した。
美しい調度品が置かれ、輝くばかりの生花が添えられ、自分の使っていた香が焚かれている。
――そうして、枕元へと視線を戻せば、そこには見覚えのある簪が置かれていた。
あの日、尹馨に手渡したあの簪であった。
黎華の知らないところで一度は割れてしまったその簪は、今は綺麗に元通りとなっている。
「……ええと……俺のために誂えてもらえた客間、なのかな……」
簪を手にしつつ、黎華はぼそりとそんな独り言を漏らした。
そうして、そろりと片足を寝台の上から下ろしたところで、扉が開く気配がして顔を上げる。
「黎華」
「っ! イン、……」
「しっ……」
姿を見せたのは、紛れもない
黎華は彼の名を呼ぼうとしたが、直後にそれを人差し指で制され、慌てて口を噤む。
尹馨は慌てているようであった。そうして音がしないようにこの室の扉を閉めて、結界用の札を貼り付ける。
「…………」
「…………」
尹馨は外の気配を読んでいるようだった。
だから黎華も、口を閉じたまま大人しく待っている。
やがてしばらく経ってから、尹馨の肩がかくりと落ち、長いため息を吐きこぼす姿を目に留めた後、裸足のままで歩みを進めた。
「尹馨……?」
小声でそう言いながら、黎華は彼の背に触れた。
すると彼はすぐに黎華へと向き直り、笑顔をくれる。
「……もう大丈夫。母上の侍女たちが、君の世話を我先にとしようとしてて……それを少し抑えたんだ」
「じゃあ、やっぱりここって……その、月樹さまの館なんだ……?」
「そう。……すまない、君を勝手に連れてきてしまった」
尹馨はそう言いながら、黎華を自然に腕の中へと招いた。
そうして、僅かな謝罪の言葉とともに、黎華の髪に唇を落として、確かめるようにして匂いを吸い込む。
尹馨の息遣いを額の上くらいで感じた黎華は、そこでようやく、自分の姿を気にした。
倒れる直前まで、泉の中にいた。
だとすれば、まとまりもなく、香油の匂いすら消えて、みすぼらしい姿なのではないかと考えてしまったのだ。
「あ、あの……尹馨、俺……あの、身支度も、なにも……」
「――大丈夫。母の元にいたのなら、全てが浄化されている。それに君は、何もしていなくとも元々、綺麗だ」
「……っ」
黎華の頬が一気に桃色に染まった。
尹馨の声が、その言葉がとてもつもなく心地よくて、それでいてとても気恥ずかしくも思える。
「……尹馨、あの、あのね……あなたがくれた髪紐、……あの時、
――いやだ、やめて……!
「……っ!」
黎華は照れ隠しと共に、髪紐の存在が知れないこと思い出して、話をし始めたのだろう。
そして彼は、嫌な記憶まで呼び起こしてしまい、口を噤んでしまう。
尹馨が綺麗だと言ってくれるこの体は、やはりどこにも褒められる部分など無い。数知れぬ男を招き、意に染まぬ男すらに乱暴もされ、汚れている――。
そう思うとやはり、黎華は自分を恥じた。
尹馨の隣に立つことすら価値のない、名ばかりの『巫覡の姫』。
どんなに繕っても、それは変わりのない事実だと、思い知らされる。
「――黎華」
尹馨が静かに名を呼んだ。
それにゆっくりと顔を上げると、彼の表情はやはり少しだけ歪んでいた。
だが――。
「愛してる」
「……!」
尹馨はそれ以上を言わずに、黎華へと口づけをしてきた。
黎華は混乱しつつもその口づけを受け入れ、思わず瞳を閉じてしまう。
それから、その場で静かな口づけがしばらく続いた。
「……本当なら、君の住まいである水晶宮で告げるつもりだった。でも今は……もう、我慢できない」
「尹馨、……でも、……っ」
「君は暫くここから出られないだろう。俺も出すつもりはない。だから、俺は君を貰う」
黎華が何かを告げようとすると、尹馨はそれを遮るようにして彼を抱きかかえて、奥の寝台へと運んだ。
先ほど、黎華が意識を取り戻した場所だ。
その場に下ろされた後、そのまま体を押し倒される。
「……尹、馨、……あの……」
「いいから、俺に従って。今この瞬間から、君は俺の妻となる。いいね?」
「……、そんな、だって、俺は……」
「頷いて、
黎華の瞳が、大きく揺れた。
尹馨の口から、二度目の本名を呼ばれた。たったそれだけのことが嬉しくて、次の瞬間には涙が溢れてくる。
「ようやく、『君』に会えた。ずっと……探し求めていた。俺には黎静だけが運命で、それ以外には……考えられない」
「うん……」
「だから、教えてほしい」
――次は君をもっと教えてくれ。
初めて会ったあの時の、別れ際の言葉が蘇る。
尹馨が触れてくる。その現実がとてつもなく幸福で、それでいて少しだけくすぐったくて、だからこそ黎華は僅かに笑みを浮かべつつ、涙をこぼしながら唇を開く。
「俺でいいなら、いくらでも……」
黎華が小さくそう告げると、尹馨は満足そうに笑って、寝台の布を下ろす。
それは眠る時に下ろされる透けた布で、幾重にも重なったものが、さらさらと音を立てて降りてくる。
――空はまだ、明るい。
それでも二人は、それすら気に留める時間を惜しむようにして、ようやく影を重ねたのだ。
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