38.目覚め

 冷たい地にいるような気がした。

 禊場の泉の中、尹馨イン・シンに口づけて、彼の温もりを感じた後、黎華リー・ファは意識を手放した。


(――尹馨。俺はちゃんと、彼を救えたのかな)


 そんな事を思った。

 思考が回るのなら、自分はまだ死んではいないのかと思うが、確かめようもない。

 それとも、すでに魂が体から抜け出していて、天に昇っているのだろうか。

 何も残せない人生だったが、最後に好きな人に何かを出来た事だけは、黎華にとっては何よりの救いだ。


 初めて、心を動かされた相手だった。

 出会いはあまりに突然で、理解する間もなく横抱きにされて客間に二人で隠れ、あろうことか口づけまでもした。

 その後は、簪と髪紐を交換したきり、ずっと会えない日々だった。

 だが、心のこもった文を貰い、彼の腹心二人と知り合い、それまで空虚であった時間を色のあるものへと変えるほどの時間を過ごした。


 おそらくは、黎華にとって、初めて好きになった人だ。


 彼はその好きな人を、最後まで気にかけた。

 自分がどんな目に遭おうとも、それでも尹馨を助けたいと思った。

 尹馨は助けなければならない存在だった。

 最期の時、彼に触れて気づいたのだが、やはり尹馨は人間では無かったからだ。


 ――天上におわす鸞の君の子は、応龍と霊亀である。


 それは、下界の者たちには物語の一つか伝説か、ほどの遠い存在の話であった。

 その点、黎華は花丹こそ少ないものの、真人であるために少なからずの事情と真実を把握していた。

 何より水晶宮に霊亀が実在する時点で、信じないという選択肢は存在しなかったのだ。


 ただ、応龍そのものが尹馨であると気づいた時にはさすがに驚いた。

 彼にかけられていた呪いを解くために必死でもあったので、驚きはすれどもそれ以上の感情を抱く時間も無かったのだが。

 呪いを打ち消した感触は確かにあった。

 だからきっと彼は、助かったのだろう。


(出来れば、抱いて欲しかったけど……)


 そんな欲が、思わず漏れる。

 心に抱いたところで、もう彼には触れられないと言うのに。

 ――そうであるならば、この意識すらも早く溶け切ってしまえばいいのにと、直後に思った。


(尹馨は、あの後どうしたんだろう。きっと元に戻れて、天に帰ったのかもしれないな……)


 幸せになってほしい、と願った。

 呪われていた時間がどれほどかは黎華には解らなかったが、その分を取り戻して自由な時間を謳歌し、誰かを愛し、そうして――。


 嫌だ、と直後に感じた。

 尹馨が他の誰かを愛してしまう事に、とてもつもない嫌悪感を抱いてしまう。

 彼の立場を考えれば、普通に女性を愛して娶り、子を残すのが当たり前だろう。

 だがそれでも、自分以外に触れてほしくはないと、浅ましくも思ってしまうのだ。


(なんでこんな風に思っちゃうんだろう。早く、こんな気持ちごと消えてなくなれ……)


 魂が無に帰ることを、黎華はその時ばかりは強く願った。

 意識が残る以上、未練がましい感情が次から次へと湧いてくる。


「……なんとも、愛おしいのぅ」


 ふいに、知らない声が耳に届いた。

 黎華はどうすることも出来ずに、狼狽える。


「黎華よ、そなたはまだ死んではおらぬ。それから、尹馨もまだ誰も娶ってはおらぬぞ」


 誰のものなのかは解らなかった。

 だが、自分の名を知って言って、尹馨の事を知っているのであれば、彼側の縁あるものの声なのだろうと考える。

 ――そう、例えば。


(母上のような……)


「ふふ、そうじゃのぅ。わらわはそなたの義理の母になるのかのぅ」

「――誰? って、……あれ?」


 優しい声音の主がくすくすと笑う。

 心で思ったことに対して返事をされた黎華は、いよいよ思い余って口を開いた。

 その直後、急激に自分の体が重くなっていくような感覚を得て、混乱する。

 やわらかい感触が頬にあった。声の主が、撫でてくれたのだろうと思った。

 その感触に釣られて、黎華はようやく瞼を持ち上げる。


「ようこそ、黎華。妾のかいなへ」

「……あなた、は……」


 黎華はやはり、見知らぬ人物の腕の中にいた。

 鮮やか青の――鮮藍の髪色が強い印象を与える、極上の美しさを持つ女性だ。

 その女性は一糸まとわぬ姿でその場に存在し、黎華を抱いている。

 豊満な胸が嫌でも黎華の視界に入ってきて、彼はとても気まずそうとしながら視線を逸らした。


初心うぶよのぅ。……そうか、そなたは……母御の記憶も殆ど無いのじゃったな。子はみなこうして、母の愛を一身に受けるものじゃ」

「あ、あの、……それはわかるのですが……何か、纏って頂けませんか……俺も一応、男なので……」

「ふふふ、ははは……っ、そうか、そうか。良いぞ黎華。そなたは良い子じゃ」

「…………」


 自分の裸体を見て照れる姿を見た声の主は、実に楽しそうに声高らかに笑った。

 美しいのに、それを鼻にもかけずにとても豪胆だと感じた。

 相変わらず腕に抱かれたままなので、黎華はそれを問う為に再び口を開く。


「あなたは、誰なんですか? もしかしてここは、死後の世界ですか?」

「不吉な事を申すでない。そなたは死んではおらぬと先ほども伝えたじゃろうが。――妾は、らんじゃよ。名は月樹ユエシウと申す」

「っ!?」


 鸞、と言えば神獣の王である。

 そうとなれば、彼女は尹馨の母でもある。

 そんな彼女に自分は抱きしめられているのかと、瞬きを数回した。


「ふふ、まだもう少しは混乱するであろうな。……とにかく、そなたは死んではおらぬ。尹馨がどうしても、と妾に頼んできよったのでな」

「で、では……あなたが、俺を……?」

「ついでに、健康体に戻してやったぞ。ほれ、重いであろう」

「あ……」


 そこまで言われて、先ほど感じた重さを再び自覚した黎華は、彼女の腕から逃れるようにして自分の力で起き上がった。

 ――と、思ったのだが、身を起こす事が出来なかった。

 今までの感覚とは明らかに違ったからだ。

「まぁ、細いのは変わらんのぅ。あとは自分でゆっくり時間をかけて、力をつけたりするのじゃな」

 月樹はそう言いながら、傍で崩れた黎華の背を支えてやり、彼を起こしてやった。

 座り込んだままではあったが、上半身を起こせた黎華は、そこで改めて月樹の姿を見る。


「ほれ、乳が恋しければいくらでもくれてやろうぞ」

「や、やめてください……」


 月樹は笑顔で、己の乳を両手で揺らして黎華をからかってくる。

 だがそれでも、彼女には神々しさがまさっていた。

 ――これが、天上の主――すなわちの神なのか。

 そう思わずにはいられない。

 悩まし気な女体の背には、彼女の髪と同じ色の羽根が大きく存在を示している。ばさり、とそれを羽ばたかせれば、宙を舞うのは光の洪水だ。


「――黎華よ。そなたは我が息子に愛されるべき子じゃ。不肖の息子じゃが、よろしく頼むぞ」

「月樹さま……あの、……」

「性別を気にしておるのであれば、何も問題はない。妾とて今は女体ではあるが、実はどちらでもないのじゃ」


 月樹はそう言いながら、すらりと珠のような肌を持つ腕を伸ばしてきた。

 そうして、黎華の頬に手を滑らせて、身を寄せてくる。


「そなたは何も考えず、幸せになれ。……それが、妾が出来るせめてもの償いじゃ」

「……はい……」


 涙が溢れてきた。

 月樹の言葉のせいなのか、彼女の触れた温もりのせいなのかは解らない。

 今は素直に受け入れようと、小さな返事をした後、黎華はゆっくりと瞼を閉じた。

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