37.麒麟の寝床

 天上の鸞が棲む楼閣は、下界の水晶宮と同じほどの土地があった。

 大きな庭を囲むように廊や各人の室が並び、奥にある幾重にもなる塔が、月樹ユエシウの棲み処である。

 とはいっても、彼女は最上の室にしかおらず、その下からは直近の弟子と息子、侍女や家人たちの詰め所や居住の為の間として提供しているので、門弟からそのまま彼女の配下となっている者たちも少なくはなく、楼閣はいつでも賑やかであった。


 そんな煌びやかさとは無縁な場所が、一つだけ存在する。

 カイチとハクタク、そして息子と一番近しい侍女しか知らない『間』が存在するのだ。

 

 ―ー『鎮魂の間』と、呼ばれていた。


 元々は、歴代の神々が眠る場所とされている間の一室に、月樹と尹馨イン・シンのみしか入れない場所がある。

 その扉の前までたどり着いた尹馨は、母の言いつけ通りに身を清め衣を新しく着替えて、一度だけ深呼吸をした。

 扉を開くだけの行為が、酷く重い。

 その向こうに居るはずの『父』を訪ねるだけであるのに、尹馨の貌は緊張したままだ。


「失礼いたします、父上」


 尹馨のその言葉に、返事はない。

 それを分かり切った上で、彼はゆっくりと扉を開いた。


「…………」


 ひたすらの静寂しか、その場には無かった。

 華美なものは何一つ置かれず、簡素な造りの寝台のみが置かれた、異質さを漂わせる空間だった。

 透けた大きな布が天蓋から垂れたその先に、尹馨の実父であり、かつてはこの楼閣での最上の存在でもあった『麒麟』が眠っている。

 死んでいるわけでは無いのだが、とある事件がきっかけで、彼はずっと眠り続けているのだ。


「ただいま戻りました……父上」


 音をたてぬようにして寝台に近づき、布を静かに押しのけながら尹馨はそう言った。

 修学の為に下界に降りてから、様々な理由を抱えた尹馨はこの天上には戻れずにいた。その間に、父は眠ってしまったのだ。

 ――覚める事のない眠りに。


「私の留守の間に……数々の不手際、申し訳ございません。……沈夜辰シェン・イエチェンも、今しばらくはこちらには戻れぬでしょう」


 答えのない言葉を、静かに報告する尹馨のその表情は、曇ったままであった。

 全ての瑞獣の長である父は、絶対的な加護があるはずであった。

 それなのに、父はたった一人の存在に、眠らされてしまったのだ。


 ――天狐に。正確には、沈夜辰の父である存在に、だ。


 月樹には、今は深入りするなと厳しく言われている。

 自分たちの事は自分で始末をつける。つまり彼女は、夫である麒麟を、自らで何とかしようと考えているのだ。

 この状況からは、あまり色よい未来は見えないがとも思いつつ、尹馨は母に従うしかない。

 勝手に連れてきてしまった黎華リー・ファの事もあるし、彼もまた自分のことで手いっぱいの状況だからだ。


「父上にご紹介したい者がいるのです。……だから必ず、目を覚ましてください」


 尹馨はそう言いながら、静かにその場で膝を折り、両腕を差し出して頭を下げた。

 父はいつでも厳しい人であった。

 それでも、尊敬に値する存在である事には変わりはない。

 天狐に関わるようになってから、この楼閣ではじわりじわりとかの存在に侵食されて行っている気がする。

 おそらく父はそれに早い段階から気が付いていて、行動を起こしただけなのだろう。

 日を置かずに調査すべきことだと尹馨は思っていた。


 今は、弟弟子たちも傍には居ない。

 彼らは下界で自らを罰すると言い、尹馨には付き添わなかった。

 黎華の件で、それぞれに責任を重く受け止めているのだろう。


「必ずお助けいたします、父上」


 まるで誓いを立てるかのように、尹馨はその場でしっかりと言葉を刻んだ。

 捨て置いていい問題ではない。

 出来ることから確実に、解決策を探っていくしかない。

 そう心に決めて彼は、再びゆっくりと立ち上がり、父が眠る寝台から離れて室を後にした。




 人気のない空間から暫く歩き、庭を挟んだ廊が少々騒がしくなっていることに気が付いた尹馨は、そちらへと視線を向けた。

 美しい見目の侍女たちが、忙しなく動いている。


「さぁさぁ、お急ぎなさい! 姫さまに最高のおもてなしをするのです」

「衣はこちらで良いかしら?」

「それは地味では無くて?」

「香は沈香で良かったわよね。ああ、そうだわ調度品も全て入れ替えよと月樹さまに言いつけられていたのだわ」


 侍女たちはそう言い合いながらも、その表情はとても明るかった。

 とても楽しそうに、行動しているのだ。


(姫、と言っていたな……黎華の支度をしているのか……?)


 尹馨は内心でそう言いながら、廊を歩いて侍女たちに近づいた。

「あっ、尹馨さま……!」

「まぁ尹公子、こんなところにいらしてはなりませんわ!」

 侍女らはとても目敏かった。

 尹馨が少し近づいただけで、まるで追い払うかのようにしてそんな事を言ってくるのだ。


「お清めは済ませられましたの? 髪はご自分で? あらまぁ、これではいけませんわ! ――誰か、尹馨様のお世話をなさい!」


「い、いや……俺は、自分で……」


「何を仰っているのです。もう少しで花嫁様がお目覚めになると言うのに、夫たる貴方様がそんな粗末な格好でいらしては困りますわ!」


「……え?」


 押しの強い侍女は、この楼閣では古参の者であった。美女だが、気の強さが前面に出てしまっているかのような貌をしている。

 その彼女から発せられた言葉に、尹馨は瞠目してしまった。


 ――これは妾の務めじゃ!


 先ほどの母の言葉を思い出し、尹馨は我に返ったように瞬きをした。

 ここにいる侍女たちは全て、月樹の配下である。彼女の命は絶対、として動く彼女たちが活き活きとしている理由が、解ってしまったのだ。


「待ってくれ……俺はこちらに戻ったばかりだぞ」


「分かっておりますわ。とりあえずお部屋にお戻りくださいませ! さぁさ、誰かお供なさい! 衣も新しいものをご用意して差し上げるのですよ!」


 若い侍女たちが、さらさら衣擦れの音を激しく立ててこちらへと近づいてくる。

 尹馨は彼女たちに僅かほども逆らうことが出来ずに、まるで運ばれるかの如く、自室へと戻されるのであった。

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