36.鸞の棲み処
水晶宮の真上に存在する天上の楼閣で、リン、と鈴が鳴り響いた。
それを耳にした
水鏡への連絡ではなく、来訪を告げる音色だった。
そして、来訪者が誰であるのかは、すでに解っている。
「……戻ったか、
小さな少女の姿をしている鸞の月樹は、こちらへと歩いてくる影を見ながらそう言った。
香霧――
彼はずぶ濡れの姿のまま天上へと昇り、その腕には水晶宮の巫覡である
「久しいの。ここに戻れたという事は、姫が呪いを打ち破ってくれた証じゃな」
「…………」
尹馨は黙ったままで前に進んだ。
大きな間の一番奥に座する頂きを冠する者――月樹に向かって、迷いなく。
楼閣内には多くの家人たちがいるが、侍女たちは尹馨の姿に何も言えずに、俯いている。
「――母上」
鸞の君まであと少しという距離になり、尹馨はようやく口を開いた。
その声はとてつもなく冷たい響きで、短いながらもその場にいた誰もが表情を歪めるほどであった。
「黎華を助けてください。死なせるわけにはいかない」
「うむ……」
尹馨の言葉に、月樹は静かに唸るだけであった。
その後、僅かに沈黙した後、片手を掃うようにしてこの場に控えていた者たちを全て下がらせる。
さらさらさら、と衣擦れの音がしばらく続いた。
尹馨の腕の中に収まっている黎華は、瞳を閉じたままだった。
微塵も動かず、息もしていない。
――つまりは、死の淵にいる。
最後の侍女が頭を下げてから扉をゆっくりと閉めるのを待ち、そこでようやく月樹は腰かけていた豪奢な椅子から立ち上がった。
「近う。
「…………」
尹馨は彼女の言葉に黙ったままで従った。
二歩ほど進んだ後、小さな母へと視線を合わせる為に静かに膝を折る。
月樹はそこでようやく、自分の息子の思い人を間近で見た。
「……美しいの。どこからどう見ても
「母上」
「わかっておる。……だが、すでにこやつの花丹は尽きておる。丸きりのヒトではないとは言えども、黎華は元々体に負担をかけ過ぎじゃ。……再生できるかどうか……」
月樹は黎華の体の上に手をかざしつつ、難しい顔をした。
花丹が尽きた。
それだけあれば、まだいいのだ。
だが黎華は、月樹の指摘通りに日々減っていく己の花丹を補う為に、じわりじわりと命そのものを削ってきた。
誤魔化して、誤魔化して、見て見ぬふりしてきたものが、今現在の黎華の状態へと繋がっている。
そして最後の僅かな命の欠片を、彼は惜しげもなく尹馨へと与えてくれたのだ。
「……頼む、母上」
尹馨は思わず、そんな言葉を漏らしていた。
間近でそんな息子の切なる言葉と表情を見た月樹は、僅かに苦笑した後に尹馨の頬へと手のひらを差し込む。
「そんなに好いておるのか」
「…………」
「答えんか。そなたの返答次第じゃぞ」
こんな状況でも、母は相変わらずの調子であった。
だが彼女がそうであるという事は、黎華は助かるのだと思っても間違いではない。
「……はい」
「うむ。ではしばしの間、妾に任せよ。……そなたの鱗を一枚貰うぞ」
「それはどうぞ、ご内意どおりに」
尹馨はそう言いながら、少しだけ上体を動かし、頭を下げた。
そうして目を閉じて、月樹に己の鱗を一枚剥がさせる。
月樹が剥ぎ取った場所は、耳たぶの下あたりだった。
ピリ、とした痛みが尹馨を襲う。
一瞬だけではあったが、あまり気持ちの良いものではない。
「……応竜の加護が付くのじゃ。目覚めた暁には驚くほどに元気になっておるであろう」
「必ずお助け下さい、母上」
「分かっておる。妾とて、ここで巫覡の姫を死なせてしまっては、下界に面目が立たぬ」
どれ、と月樹はおもむろに体を動かした。
そうして彼女は、己の姿を変容させて、大人の女性へと変わって見せた。
尹馨から黎華を受け取り、まるで我が子を抱くかのようにして瞳を閉じたままの巫覡を愛おしく腕に包み込む。
「そうじゃな……半時ほど後にそなたの室に、いや……姫の室を新たに用意させよう」
「それでしたら、私が」
「いいや、これは妾の務めじゃ! そなたこそ、きちんと身を清めてから我が背の君へと挨拶しに行くがよい!」
「……はい」
月樹は何故かとても活気に満ちた表情をしていた。
息子である尹馨は、そんな母の圧に押され気味になりつつ、一礼をしてその間を出て行く。
彼を見送った後、腕に抱いたままの黎華へと視線を下ろし、その表情を僅かににじませる。
「苦労を掛けたな黎華よ。……こんなに軽く、小さな体で……よくぞ頑張ってくれた。妾の名にかけても、必ずそなたを蘇らせてみせようぞ」
慈愛の篭った声音であった。
そうして彼女は、その場で再び体を変容させ本来の姿である鸞の形となり、青く美しい羽根を一度大きく羽ばたかせた後、その場から消えた。
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