35.陥落

 ――沈夜辰シェン・イエチェンは、『世を傾ける者』では無い。


 カイチである沈梓昊シェン・ズーハオは、彼をそう判断した。割と早い段階から、その事には気づいていた。

 脅威であることには変わりはない。

 だがそれでも、彼は『天狐』でしかないのだ。


「そうは言っても、納得しないんだろうな。……師兄、あんたはとても脆くて、淋しくて、それを誤魔化す為に尹馨イン・シンに執着してただけなんだ」


 尹沙鈴イン・シァリンの実兄だから――それ以前に、初めての友であり、それ以上の存在であったから。


 まるで独り言のように、宙に言葉を乗せていた沈梓昊の動きを、沈夜辰は読むことが出来なかった。

 ほんの数秒前までは視界に捉えていたはずのものが、空気のようにして消えたのだ。

 そうして、瞬き一つほどの刻のあと。


「ぐ、はっ……」


 口から血を吐いたのは、沈夜辰だった。

 胸の下あたり、それでも急所は避けた脇腹に攻撃を受けていた。

 剣が刺さり、そしてあっという間に引き抜かれる。

 目の前にいる剣の持ち主は、驚くほどに冷静に金の瞳を揺らがせることもなく、その行動をやってみせたのだ。

 沈夜辰はその場でがくり、と膝をついた。


「……殺せと……言ったはずだ」


 脇腹を左手で押さえつつ、彼はそう言った。

 見上げた沈梓昊の手には、既に剣は無かった。そうして彼は、冷めた視線をこちらに投げかけてくる。

「大師兄にはそこまでは頼まれてないんで。まぁ、うっかり刺しちまったんで、そのまま放っておいたら死ぬかもな?」

「沈梓昊、貴様……ッ」

「殺しませんよ、あんただけは。我らが姫を穢したんだ。……だから、『なるべく苦しんでから死んでください』」

「っ!!」


 沈梓昊がわざわざ沈夜辰へと歩み寄り、彼の流す血を踏みにじるようにしながら、膝を折ってきた。

 そうして告げた言葉が、沈夜辰にとっては何よりも屈辱的な響きであった。

 少し前に、彼自身が尹馨に向けた言葉が、そのままぶつけられたのだ。

 沈梓昊は笑顔であった。その笑みが、恐ろしくも見えた。

 彼は笑みを湛えたまま腕を伸ばし、沈夜辰の肩を掴んでそのまま後ろへと彼を倒してくる。

「……っ」

 沈夜辰はそれに抗うことが出来ずに、背中に土の感触を得て、思わず表情を歪めた。それと同時に傷の痛みも増して、荒い息を吐く。


「しばらくはそこで沈んでてください。運が良ければ助かるでしょう。では、俺はこれで」

「…………」


 沈梓昊はそう言いながら立ち上がり、踵を返した。

 身についている身体能力を生かしてそのまま近くの岩へと飛び移り、こちらを振り返ることもなく姿を消してしまう。

 ――追う気にもなれなかった。

 それ以前に、身を起こせない。

 手を添えている部分から血がどんどん溢れてきて、沈夜辰は自嘲気味に笑った。


「――いいさ、こんな死に方でも」


 小さくそう呟いた。


 今まで、酷いことを沢山してきた。

 天上の楼閣で鯉を殺したあの時から、ずっとだ。


 誰かの気を引きたくて、それが何故か尹馨で。

 ずっと、ずっと、追いかけた。

 自分を友と言ってくれた、何よりの存在。共に色んなことを学び、多くの時間を過ごしてきた。

 そんな中で出会った沙鈴の存在も、随分と自分の救いであった。

 先ほど言葉にした通り、彼女を愛したことは偽りも無いし、今でもその気持ちは変わらない。


「……っ」


 沙鈴を刺した水晶宮の巫覡の存在が、脳裏によみがえってくる。

 彼女を許す気持ちは未だに湧いてはこない。手に掛けたのは自分だが、それでも僅かほども晴れた感情にはならなかった。

 ならば全て殺してしまえばいい。


 そう思って、当時の水晶宮の家人たちも、何人か手に掛けた。

 飛び散る血が美しいと思えて、その一瞬だけが幸福だった。


 ――沈夜辰、それはダメだ。


 そう言って、自分の腕を取ったのはやはり尹馨だった。

 楼閣で別れてから、一度も会う事の無かった何よりの親友。

 どこから現れたのか、それはわからないままだ。

 

 ――命を、そんな風に扱ってはいけない。


「尹馨……だって、沙鈴は……? 守らなくちゃいけない存在に裏切られた沙鈴は……そして僕の虚しさは、どこで晴らせばよかったんですか……?」


 視界も虚ろになりつつ、沈夜辰はそんな問いかけをした。

 当然、望んだ答えなどは帰ってはこない。

 ――だが。


「あなた、本当に馬鹿で愚かね。でも、とてつもなく愛おしいわ」


 そんな声が頭上から聞こえた。

 沈夜辰は閉じかけていた瞼を押し上げ、その声の主を確かめる。

 視界に飛び込んできた存在は、黎華リー・ファと同じ顔をしていた。


「……黎華姫……?」

「そうね……かつては、そう呼ばれていたわ」


 その答えは、曖昧であった。

 沈夜辰はその後ゆっくりと意識を手放し、体を地へと放り出す。

 そんな彼に寄り添うようにして手を伸ばしたのは、黎静リー・ジンであった。

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