32.もう一つの呪い

 元々、尹馨イン・シンの体には、呪いが掛けられていた。

 数年前、大蛇のいる斜陽山で生死の境を彷徨ったその時、傷口から呪いを受けていたのだ。

 『呪い』は『穢れ』である。それ故に彼は『本来の姿』へと戻れず、『故郷』にすら帰ることが出来ない。

 じわじわと侵食を続けていくその呪いは、感情にも左右し一度高ぶりを感じると暴走傾向に陥ってしまう。

 こうなると誰にも手が付けられなくなってしまう為に、出来る限り確実に取り除いてしまいたかった。


 だが、誰がどんな術を駆使しようとも、その呪いは己で解くことは出来ず、最終的に頼ったのが水晶宮の巫覡であったのだ。

 巫覡に会い、呪いを解いてもらうだけ。たったそれだけのために、尹馨はこの霊峰を目指していた。

 黎華リー・ファと出会うまでは、それこそが彼の本来の目的であったはずなのだ。


 ――黎華、黎華。


 心で何度も、彼の名を呼んだ。

 所用に思いのほか時間を取られたために、ここに戻る予定が大幅に狂ってしまった。

 弟弟子たちに全て任せてしまえば良かったものをとも思えたが、それも今更な話だ。


 自分の選んだ行動のせいで、黎華を傷つけた。

 そう考えると余計に、腸が煮えくり返りそうだ。


「……尹、馨?」

「!」


 黎華の声に、ビクリと体が震える。

 混濁し始めている意識の中でも、彼の声はきちんと尹馨に届いていた。


「――沈夜辰シェン・イエチェン。お前は……よくも、この場で……!」


「この場だから、ですよ。尹公子。……残念でしたねぇ、あなたの大切な黎華姫まであと一歩だったのに。姫はなんとも可愛らしく、愛おしかったですよ」

「やめてよっ!!」


 沈夜辰は尹馨を煽るための言葉を惜しむことなく口にした。

 そうして、未だに腕の中にいる黎華の頬をわざとらしく撫でて、にたりと笑う。

 黎華は嫌そうな表情を浮かべた後、彼の脇腹辺りを思い切り蹴った。

 すると思いのほかあっさりと沈夜辰は黎華を解放して、数歩後ろに下がる。


「……っ、あ、アァ……ッ!!」

 尹馨の体内の中心で、何かが激しく脈打つ。

 一度大きく体を震わせた後、彼はその場でうずくまり、地に膝をついた。


「はぁ、……っ、あ……」


「尹馨……?」

「……黎華。すま、ない……俺を、見ないでくれ……。梓昊ズーハオ……英雪インシュエ……姫のそばに……」


 尹馨はそう言いながら、手にしていた剣の先を地面に立てて、なんとか立ち上がった。

 彼からの命を受けた黒と白の弟弟子たちは、一つの頷きのみで駆け出し、黎華の元へと向かう。


「……はぁ、ハァ……」


 眩暈がした。

 胸の内から湧き上がってくるものを、止めることが出来ない。

 昏い感情に、飲み込まれてしまいそうだった。


 ――憎い。

 苦しい。

 煩わしい。

 熱くて――憎い。


 憎い、憎い、憎イ。


 あの男が――沈夜辰が。


 脳内で浮かび上がる言葉に、血がどくんと波打った。

 怒りと憎しみの感情がどんどん溢れてくる。


『……沈夜辰。死んでくレ』


 絞り出されるかのように口から漏れた声色が、明らかに変わっていた。

 それを耳にした沈夜辰が、楽しそうに笑いながら両腕を広げる。


「いいよ。殺しにおいでよ」


『アァ……ッ!!』


 沈夜辰の態度に煽られた尹馨が、地を蹴った。

 そのまま彼に飛び掛かろうとしていたのだが、途中で動きが止まる。


「……呪いはつらいね、尹公子。この間会った時に平気そうだったから、もうとっくに解いたものかと思っていたよ」

『沈夜辰……ッ、お前の、せイだ……!!』


 いつの間にか泉の中から上がっていた沈夜辰は、肩を竦めつつそう言った。

 尹馨の呪いの根源は、彼にある。

 過去、致命傷を負わせたのも、呪いを埋め込んだのもこの沈夜辰がやったことなのだ。


「そうやって素直に憎めばいい。僕はそういうあなたのほうが好きですよ」


 沈夜辰は楽しそうに微笑みながらそう言った。

 その笑みを目にした尹馨が、血のように目の色を真っ赤しながら、瞠目する。


『お前が、いるから……っ、アァ……!!』

「あははっ! 良いざまだね尹公子!!」


 尹馨は叫ぶようにそう言って、体を折った。

 沈夜辰はそんな彼を目にして、声を上げて笑っていた。


 ――こんな将来を望んでいたわけではないのに。

 遠くなっていく意識の中、尹馨はそう思っていた。


『……っ、アァ……ッ』


 ずるり、と右手に収まっていた剣も地に落ちる。そうして、彼は己の体を抱きしめるかのようにして苦しみだした。

 そんな彼の風貌が、また変わった。

 髪色が完全に赤くなり、見えている肌の部分に鱗のようなものが浮かび上がる。そうして、全身が一回り大きくなったかと思えば、額から生えてきたのは鹿のような角であった。


「……あの角自体は、尹馨が元から持っているものです」


 尹馨の変わり果てていく姿を沈英雪に抱きかかえられながら見ていたのは、黎華だ。

 泉から引き揚げられ、何も纏っていない細い体に真っ白な衣が掛けられた。沈英雪が着ていた上衣だ。


「姫……傍にいながら直ぐに向かえず、申し訳ございません」

「……謝らないで。だいじょうぶ、だから……」


「まずい、体が冷えてる。ここから離れたほうがいい」

 黎華の体は小さく震えていた。

 それを見て眉根を寄せるのは、傍にいた沈梓昊だ。彼は黙ったまま黎華の額に手のひらを滑らせ、状態を探る。

 その手のひらを避けさせたのは、黎華本人であった。


「姫さん」

「ごめん……俺のことより、尹馨のほうが……」


『グ、アァァ……ッ!!』


 尹馨は苦しんでいた。

 見る影もない姿の背中を見て、黎華は身を乗り出す。

「姫、いけません」

 沈英雪が止めるも、彼は腕から逃れようとした。


「尹馨は……呪いを受けてるんだよね……?」

「はい」

「……だったら、俺を下ろして、沈英雪……」

「姫……」


 黎華が必死にそう訴えてくる。

 沈英雪はその眼差しを、無視することは出来なかった。

 だが、黎華は今は自力で立つことが出来ないほど、衰弱しているのも確かだ。


「あのね……多分、俺……尹馨の呪いは、解くことが出来るよ……そういうの、得意だから」

 黎華は今まで、霊亀がじわじわと生み出す呪いを浄化してきた。

 おそらくは水晶宮の『巫覡』でしか出来ない事だ。

 だがそれは、命を削る行為とも言える。


「……姫さん、解ってるんだろうな。あんたの花丹はほとんど使えないんだぜ」

「うん」


 沈梓昊がそう言いながら、厳しい表情をしてくる。

 その言葉の意味を、黎華はよく理解しているつもりだ。


「わたくしを下ろしてください、沈英雪」


 彼はそう言いながら、ゆるく微笑んだ。

 相変わらず、儚くも美しい笑顔であった。


(……どうせ死ぬなら、尹馨のために)


 心でそんな事を呟く。

 そうして黎華は、ゆっくりと沈英雪に地の上に下ろしてもらった直後、尹馨の元へ這うようにして体を進めた。

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