33.打ち消す力と失うもの
――ねぇ、
今のところ、死を選ぶことは考えてはいない。だがそれでも、身に巣食う呪いに飲み込まれてしまったその先では、もしかしたら命は尽きてしまうのかもしれない。
(何もできずに、か……。野心があったわけじゃないが、出来る事なら
やけに穏やかな気持ちで、そんな事を思った。
様々な感情が混ざっていたはずだが、思い出せない。
自分は直前まで、何をしていただろう。
とても言葉では言い表せない、激しい感情に心が動いていたはずだ。
欲していた者が目の前で奪われ、自分を保てなかった。
(ああ、そうだ……黎華……)
――黎華。
繰り返して、名を呼んだ。
それに返事は当然なく、
呪われたあの姿で、誰かを傷つけてしまうのなら。
黎華を抱きしめられないのなら。
――もう、死んでしまってもいいのかもしれない。
「尹馨、わたしとの約束を破るのね?」
「!」
黎静の声が聞こえたような気がして、尹馨はそこで意識を保たせた。
実際はどのようになっているのかは、自身にも解らない。
だが声は――あの双子たちの声だけは、すでに体に染みついているような気がする。
「……兄上」
「
「はい、わたくしです。……わたくしはずっと、この泉にいます。だから、生きて……今代の巫覡のために……」
良く知る声が、突然に妹のものになった。
黎静が演じているのかとも思えたが、聞き間違えの無い響きだった。
霊亀――
尹馨の実妹で、霊亀としてこの霊峰で眠る存在だ。
数代前の巫覡の過ちに巻き込まれ、
血は穢れだ。
そうして後代の巫覡が、黎華が、その命を削ってこの泉を――霊峰の水源そのものを浄化し続けている。いわば、黎華がこの霊峰全てを、その小さな体で守っているようなものだ。
麓の民を、港で働く漁師たちを、すべての
「沙鈴、教えてくれ。俺は……黎華と共にいられるのか。……いていいのか?」
「……それは、あなたが生きると決めた覚悟の上に」
尹馨の問いに、沙鈴は静かに言葉を並べた。
霊亀としてなのか、妹としてなのかは尹馨には判断できなかった。
「もう一つ。……霊亀よ、お前は人界の者が憎いか?」
「…………」
更なる問いには、沙鈴はすぐに答えをくれなかった。
そして尹馨も、強く答えを求めはしなかった。
だが。
「――いいえ。いいえ、兄上。わたくしは今も昔も……人はみな愛おしく思っております」
数秒遅れて、それでも妹は、しっかりとした口調でそう伝えてきてくれた。
それを耳にした尹馨は、若干の驚きを感じつつも言い知れない喜びの感情に包まれ、満足する。
(ならば生きよう。お前のために……そして黎華のために)
心でそう呟くと、尹馨の体が温かくなっていくような気がした。
そうして、自分の意識がゆっくりと浮上していく感じを得て、身を任せる。
「……!」
次の瞬間には、何故か水の感触が生まれた。
思わずその水を飲み込んでしまいそうになり、慌てて瞳を開く。
やはりその場は、水の中であった。
いつの間にと驚いたが、目の前にいる存在とその温もりに、ある程度の理解をする。
(――黎華)
思わず、心で名を呼んだ。
すると目の前の存在――黎華は綺麗に微笑んで、唇を寄せてくる。
(尹馨……あなたは、竜だったんだね。火の色をしていたから火竜かと最初は思ったんだけど、そうじゃなかった……)
黎華の心の声が、直接尹馨に届いてきた。
語り掛けてくれているのだろうと思った。
(黎華……君は、俺が見ている幻じゃないのか……?)
(大丈夫、ちゃんといるよ。……麒麟と鸞に愛されし応龍……俺は、あなたを救います)
――こぽり、と水が動く気配がした。
自分の体は禊場の泉――霊峰の源流の中にあり、そして黎華も共にいてくれている。
彼は尹馨に触れて、口づけを繰り返してくる。
水と共に口の中に紛れ込んでくるのは、黎華の吐息と唾液だった。
そこまでを頭で整理してから、尹馨はようやく自身の両腕を黎華へと差し出した。そうしてそのまま彼の体を抱き込んで、口づけに答えてやる。
何度か触れあっていると、体が軽くなっていくような感覚を得た。
自分の中に長い時間をかけて巣食っていた病のような呪いが、削ぎ落されていくかのような気がする。
(いや、実際これは……黎華が俺を浄化してくれてるのか)
「……黎華」
「尹馨、大好きだよ……。だから、怒らないでね……」
「!?」
水中での会話が不思議と出来た。
だがその内容は、不穏な響きとして耳に届き、尹馨は改めて黎華の姿を見た。
黎華は相変わらず美しかった。出会った時と変わらない、尹馨の心根に響く貌と、小さな体から溢れる命の輝き。
――その輝きが、急速に失われていく。
そして黎華は、ゆっくりと目を閉じて尹馨の体から離れていった。
力が抜け、水圧に耐え切れずに浮き始めたのだ。
「黎華!」
尹馨は水を蹴って黎華の元へと泳いだ。
そうして彼の体を受け止め、そのまま水面へと上がる。
「……黎華っ!」
バシャ、と水面が跳ねる音がした。
水しぶきが自分の目の前に舞う。それを見ながら、尹馨は黎華を片腕で抱き留めて泉の端へと泳いでいった。
名を呼んでも、黎華からの返事はない。
「――大師兄」
端の傍には、弟弟子である
そんな彼の表情は、見たこともないほど苦渋に満ちている。
「……
「この場から去りましたが、
黎華を沈英雪に預けつつ、会話を続けて尹馨は素早く泉から上がった。
水を十分に吸った己の髪と衣がずっしりと重く感じて、尹馨は顔を歪める。
「姫は、尹馨の呪いを解くと言って、ご自身の力のみであなたと共に泉の中へと入っていきました」
「……そうだったか……」
静かな会話だった。
沈英雪から再び黎華の体を受け取り、己の腕の中に収める。
長い髪が彼の頬に張り付いていたので、それを黙ったままで取りさってやった。
――あまり、体力はなかったはずだ。
沈夜辰に酷い事をされ、心身ともに、僅かほどの余力も無かったかもしれない。
――怒らないでね。
黎華の言葉が蘇る。
今、この状況下では、彼の最期の言葉となった響きだ。
「黎華……君は、随分と厳しい事を、言うんだな……」
震えた声でそう言うと、当たり前のように視界が歪んだ。
涙が溢れて、とめどなく零れ落ちていく。
傍にいた沈英雪も、そんな彼の姿を見ていることが出来ずに静かに俯き、瞳を伏せる。
水晶宮の巫覡『黎華』は、尹馨の腕の中で静かに、命の輝きを失っていた。
三章・了
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