31.絶たれる望み
その男は、突然現れて――目の前にやってきた。
躊躇いもなく高い位置から泉に落ち、そうして全身を濡らして、それでも笑みを絶やさずに
(なんだ、こいつ……?)
異常な気がした。
行動の何もかもが、常軌を逸している。
そう、思えてしまうのだ。
「ち、近寄らないでください」
「……男は穢れる、とか言うのかな? お姫さま」
「来ないで……!」
バシャ、と水が跳ね除けられる音がする。
男が歩みを進めると、水面がやけに大きく動くような気がした。
そうして黎華はそれに恐れを感じて、泉から上がれなくなってしまう。
「姫様!!」
「おっと、君たちは動かないほうがいい。大事な姫さまを失うよ?」
男はそう言いながら、侍女たちが待つ方向へと右腕を差し出した。すると、手のひらから何かを放って、彼女たちを拘束してしまう。
「彼女たちに何を……!?」
「……もっと自分の心配をしたら?」
「……っ」
威圧される空気だった。
男がどんどん近づいてくる。それに一歩ずつ後ずさっていた黎華であったが、泉の端まで来てしまい、腰に縁がぶつかる感触がした。
「小さくて、細いね。どの歴代の巫覡より、弱々しく感じるな。……もっと良く顔を見せてよ」
「や、やめて……触らないでくださ……っ」
黎華はとうとう追い詰められてしまった。
そうして男が手を伸ばして、乱暴に顎を掴んでくる。
痛みすら感じるそれに、表情が歪む。
「……あぁ、目の色は同じだね。
「尹馨を、知って……?」
「知ってるも何も。彼は僕の義兄で、誰よりも敬愛してるんだ。……あれ、君……なんか、変だね」
「!!」
男の目の色は血のように赤かった。
そんな赤が目の前に近づいてくる。彼は黎華をまじまじと見てから、僅かな違和感に気づき、体をなぞり始めた。
首筋から肩、腕に脇腹と徐々に撫でられ、その感触に黎華は背中を震わせる。
「やめてください!」
「あー……。そうなんだ、君、男なんだね……ふぅん……」
ある程度を触り終えた男は、そう言いながらくつくつと嗤い始めた。
「あの尹馨が『男』をねぇ。……ふふ、これは、傑作だね」
尹馨を敬愛していると言った割には、微塵もそんな感じはしない。
むしろ憎んでいるかのような、そう言った感情のほうが強い気がする。
そう考えていると、男が再び黎華へと顔を近づけてきた。そうして腕を掴んで、手首を泉の縁へと押し付ける。
「やめてください、離して……!」
「うん……いいね。女を演じているだけあって、とても良い絵だ。綺麗だし、可愛いし、
「!」
「――あのねぇ、黎華姫。実はすぐそこまで尹馨が来てるんだ。今はここに入れないだろうけど、どうだろう? もう少し我慢したら彼はここの結界なんて突破してくるだろうね。……その時に、別の男に抱かれていたりしたら、どう思うかな?」
「……ッ!」
バシャン、と水が跳ねる。
黎華が咄嗟に水の中で男の足を蹴ったのだが、やはりそれは僅かな抵抗にしかならずに、当の男は嘲笑うだけだった。
「さっさと泉から出てしまえば良かったのに。……君、もう少し力を入れただけで、死んじゃいそうだね。なんてか弱い姫様なんだろうね」
「……うるさい、黙れ……ッ」
「ふふ、やっと本性が漏れたか。今代の姫様はちっとも清楚じゃないって耳にしてたけど、その理由も何もかも……わかったよ。男のくせに男を食うなんて、妓女より質が悪い――卑しい姫だ」
男は黎華の耳元で罵るようにそう言ってから、耳に舌を這わせた。
「いや……っ!」
その感触に、悪寒がした。
黎華は声を上げて抵抗するが、男は微塵も動じない。
貌は美しい男だとは思った。だが、それ以前に恐ろしさを湛える『何か』がある。
そう感じ続けているからこそ、彼を否定したかった。
(いやだ……尹馨!!)
心で思わず尹馨を呼ぶ。
すると、目の端に滲んだのは涙だった。
必死になって足をばたつかせて男の足を蹴り続けるが、目の前の男は笑うのみだ。
「……水の中というのは、何かと大変だよね。あまり体力無いんでしょう、姫さま。暴れないほうが身のためですよ」
「だったら、やめてよ! 俺のこと、好きでも何でもないくせに……ッ!」
「――うん、だけど……興味はあるよ」
男は黎華の言葉を受け止め、一瞬だけ表情を揺らがせた。
だが直後にまた笑みを作り、黎華の裳と呼ばれる下衣の腰ひもをあっさりと解いてしまう。
水色のそれが、水面へと浮いて流れていった。
「やだ、やめて……ッ!!」
抵抗をするたびに、
尹馨の髪紐が編み込まれた、美しい形状が崩れていく。
――それが、とても悲しかった。
「尹馨……っ」
涙が後から後から溢れてくる。
会いたい人の名を音にすると、苦しさも一層募っていった。
――心が、死んでいく。
先に体が力尽きて、何もかもが終わってしまえばいいのに、と黎華は遠くで思った。
「……殺してくれれば、良かったのに……」
「それじゃ面白くないからね。……さぁ、もっと鳴いて見せて?」
「っ、あっ、……いや、っあ、……なん、で……!!」
意識を手放そうとすると、それを読まれているのか男が阻止してくる。
おそらくは何らかの術を使っているのだろう。黎華の体力をわざと補ってくるのだ。
花丹を補充されていくかのように。
「やめ、……っ、んぁっ、やだ、やだぁ……!!」
「……姫さま……っ」
「っ、うう……」
黎華の悲痛な声を、洞窟内の端で捕らわれたままの侍女二人が表情を歪めたままで耳にしていた。
動けず、助けに行くことも出来ず――ただ、主が見知らぬ男に犯される姿を、視界に入れ続けなくてはならない。
それはまるで、拷問のような状況だ。
「――黎華ッ!!」
ドン、と何かが吹き飛ぶような音がした。
それに笑うのは、男だ。
計ったかのように結界を破り、洞窟内へ踏み込んでくる存在を、彼は嘲笑う。
「尹馨、遅いじゃないですか」
「……
尹馨がその場に立っていた。
剣を男に向け、怒りを露わにしている。
その瞳が、綺麗な青竹色のそれが、そして見事な黒髪が。
じわりじわりと怒りの感情に飲まれ紅く変わっていく様を、黎華は涙をこぼしながら見ていた。
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