30.陰気混入

 霊峰の麓にある街で情報収集をしていた沈梓昊シェン・ズーハオの元に、報せが届いた。

 それは、ひらり、と宙を舞い、彼の手のひらへと降りてくる。


「――英雪インシュエからか」


 無言でそれを受け止めると、彼の目の前にいた人物がそう聞いてくる。

 視線のみでその言葉に肯定をすると、沈梓昊はその人物と共に大路から小路のほうへと移動して、眉根を寄せた。


「水晶宮のほうで、異変があったそうです。俺は先に戻ります。――多分、そちらにも報せが行きます」

「わかった」


 小路の奥で、大きな木の影が出来ている。

 沈梓昊はその影に吸い込まれるかのようにして数歩下がり、姿を消した。『カイチ』としての備わった能力なのか、彼には移動方法がいくつかあるようだ。


「…………」


 その場に残された人物が黙ったままで立っていると、沈梓昊の言う通りに自分のところにも報せが降りてくる。

 右手を差し出すと、その上にひらりと乗ってきたそれは、小さく真っ白な獣の姿をしていた。

 小型の『ハクタク』であった。


『――水晶宮で僅かな陰の気配あり。姫はこれから奥の洞窟へと参る予定です。なるべく早くのお戻りを』


 手のひらの上のハクタクは一方的にそう告げた後、空気に溶けるようにして消えて行く。

 いつも冷静な沈英雪シェン・インシュエが、こうした火急の報せを寄こすのは珍しい。

 そう思いながら、広げていた手のひらを静かに閉じて、その人物――尹馨イン・シンは、踵を返した。



 身支度を整えた黎華リー・ファが、自分の室を出て二人の侍女と沈英雪を伴い、禊場がある奥の洞窟へと向かっていた。

 黎華の隣を歩くのは沈英雪で、彼は姫の状態を気にかけているようだ。


「……どうかしましたか?」


 そう聞いてくるのは、黎華本人だ。

 水色の綺麗な布で着飾った黎華姫は、美しかった。

 熱も体調も、傾いてはいないと感じる。

 だが、言い知れない不安が沈英雪の心を乱したままだ。

 何も、と短く答えたのみで彼を歩かせたが、このまま進んではならないような気がした。


「沈英雪は、入り口までだよ」

「……なぜですか」

「禊場の洞窟は、『男子禁制』なんだ」

「…………」


 侍女とは僅かに距離があるためか、黎華は普段の口調となって沈英雪に語り掛けてきた。

 洞窟の存在は以前から知ってはいたが、中の様子までは探れなかった。

 その理由を、黎華が告げてくれたようなものである。

 それでも、黎華も『男子』なのでは無いかとも思えたが、『姫』を演じている為に許されているのかと考えた。


「――姫。お体のほうは、本当に大丈夫ですか」

「うん、平気。朝餉の膳、あなたが作ってくれたんでしょ? 久しぶりに全部食べられたから、元気も出てきたよ」


 そう言って微笑んでくれる黎華を、愛おしいと思った。

 だからこそ守り切らねばとも感じて、沈英雪は気持ちを切り替える。


 それから数分後には、奥の洞窟へとたどり着いてしまう。

 長い弓状の廊を歩ききると、水晶宮の一部となっている峰が現れる。灯篭に沿って歩いていくと、出入り口が現れた。

「沈英雪さまはここでお待ちください」

 二人の侍女が前に進み出て、頭を下げてくる。

 それに頷きのみで答えた沈英雪は、静かにその入り口を潜っていく黎華の姿を見守る事しか出来なかった。


「――あなたたちも、その場で」


 中に入り数歩を歩いてから、黎華がそう言った。

 二人の侍女はそれ以上を進むことが出来ずに、その場で膝を折り主に頭を下げて従う。

 洞窟の中は、とても広い空間だった。

 だがそれでも整えられているわけではなく、元々自然に出来ていた空洞を、禊場として使っているのみだ。

 黎華の歩みの先には、禊に使われる泉が湧いている。

 水晶宮全体の水源ともなっているこの場は、『神聖』そのものだ。


「……俺には、いつでも赤い泉に見えるんだけど」


 ぼそり、と黎華が独り言を漏らす。

 そうして、いつもの通りに一枚だけ衣を脱ぎ、素足となって彼はその泉へと体を浸した。


「――へーぇ。なるほど、綺麗な子だね」


「!!」


 頭上にそんな声があった。

 明らかに、男のそれである。

 黎華は瞠目してから顔を上げると、切り立った岩場の上に腰かける一人の若い男の姿があった。


「……どなたですか? ここは男子禁制……定められた清らかな場ですよ」

「以外に冷静だねぇ。悲鳴とか上げるかと思ったよ」


 見知らぬ男は、不気味に笑みを浮かべていた。

 禁制だろうが何であろうが、『彼』にはそんなものは関係ないのだ。

 

 ――バシャン!!


 泉が派手な水音を立てた。

 そこでようやく離れた位置にいた侍女たちが気づき、「姫様!」と声を上げる。

 男が躊躇いもなく、泉へと飛び込んできたのだ。


「……!」


 表で控えていた沈英雪が、顔を上げた。

 そうして入口へと足を向けたところで、何かに弾かれる。


「結界……本当に、『男子』である我々は入れぬという事か。……侍女どの、何があったのか!?」

「……そ、それが、姫様の入られた泉に、男が……!」


 入口の向こうで、侍女の声がする。

 その言葉を聞いて、沈英雪は焦りの表情を浮かべた。


(男だと……!? 私ですら入れぬこの先に、誰が……)


「っ」

 そこまで考えて、沈英雪の思考が止まった。

 ――一人だけ、ここの結界を無視することが出来る者がいる。

 同門の師兄であり、尹老師の義息であり、尹沙鈴イン・シァリンの情?。


 沈夜辰シェン・イエチェンという、存在だ。


「――黎華姫!!」


 思わず、声が高ぶる。

 形のない結界の壁を拳で殴りつけ、沈英雪は心底動揺しているようだった。

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