29.結い髪に込める想い

 黎華リー・ファの髪を静かに結い上げる存在が居た。

 侍女ではなく、沈英雪シェン・インシュエである。

 彼は実に器用に櫛と油を使い、手早く『姫』らしい髪型へと仕上げていく。


「……姫。尹馨イン・シンの髪紐は、今もお持ちになられているのですか」

「え、あ、はい……」

「では今日は一緒に編み込みましょう。貸して頂けますか?」

「うん……」


 黎華は沈英雪の言葉に、少々押され気味になりながらも、尹馨から受け取った髪紐を彼に手渡した。瑠璃色の、細くて長いそれは、こちらでは一般的な髪飾りとして知られている。

 しゅる、と布が擦れる音がした。

 沈英雪はまたもや器用に、その髪紐を黎華の髪に編み込んでいく。


「沈英雪……あの、怒ってる?」


「何に対して、そう仰るのですか」


 黎華がおずおずと問いかけると、沈英雪は迷いなくそう言葉を返してきた。

 冷たいような響きだが、彼は元々こういう話し方をする。

 だからこそ、意図は読みにくい。


「その……色々。沈梓昊シェン・ズーハオのこととか、あなたに仕掛けたことも……」

「それでしたら、姫が気に病むことはございません。我々の意志の弱さ故の事ですから」


 黎華の言葉の意味を、沈英雪はやはりきちんと理解して、そう返事をしていた。

 彼も、黒の従者である沈梓昊も、『黎華姫』の誘惑に勝てなかった。弱っていると余計に扇情的に振舞うため、男としてはどうしようもないとさえ思えてしまう。

 それでも二人は、黎華と一線を越えたわけではない。

 唇が触れただけ。

 花丹を分ける行為であり、薬や水を飲ませるための行為の、あくまでも延長上での行いだ。


 ――そう言い聞かせてしまっている自分がいる事に、沈英雪は自嘲するしかなかった。


 実際のところは、半分以上、目の前の姫に絆されているという自覚がある。

 己を律することは容易であると思っていた為に、余計にこの現実は受け入れがたい。

 それでも、黎華自身を否定する気持ちは微塵もなく、彼に向いている感情も、出会った頃と何も変わってはいない。


「熱は下がったと言えども、お一人でどこかに行ってはなりませんよ」

「うん」

「……出来ました。後ろもご覧になりますか?」

「見たい」


 黎華の目の前には、豪奢な造りの鏡台があった。ワン家からの贈り物らしい。鏡の後ろに垂れ下がる布には王家の家紋が刺繍で入っている。

 彼はその鏡面を見たままで、沈英雪は別の丸い形の鏡を取り出し、黎華の後ろでそれを掲げた。

 合わせ鏡となったその場で、黎華は結ってもらったばかりの自分の髪を首を僅かに回しながら見ている。


「……綺麗。長くて面倒なだけなのに、いつもありがとう」

「お気に召して頂けたのなら、私も嬉しいです」


 自分の髪に、尹馨の髪紐が編み込まれている。それだけでも嬉しくなるのに、とても綺麗に結い上げられている髪型に、素直に感心した。


「花と簪、どちらを飾りますか?」

「沈英雪に任せるよ。今日は髪紐に合わせて青い着物にするから」

「では、こちらの金の簪にしましょう」


 黎華の髪箱には、様々な装飾品が所狭しと並んでいる。

 無駄に豪奢な作りのものは大抵は男たちからの贈り物で、それらは別の箱に入れられていた。やはり、進んで飾りたいとは思えないらしい。


「そのうち、尹馨の贈り物だけで溢れかえるでしょうね」


「……そうかな。そうだったら、とても素敵だけど……」


 鏡を通して見える黎華の姿は、とても儚く映っていた。

 沈英雪はその光景を務めて冷静に受け止めつつ、内心でやはり寂しいのだろうと感じて、情を傾ける。

 尹馨からは、もう少しでそちらに戻れると便りがあった。

 ただそれは、黎華には伝えないで欲しいと言われているので、守るしかない。


「では、私は一旦外します。お着替えが終わりましたら、お呼びください」

「うん、ありがとう。今日は奥の洞窟へ行きます」


 金の簪が結った髪に飾られた後、後ろに垂れる部分を梳いてくれた櫛が、ことりと傍に置かれた。

 そうして、沈英雪は静かに立ち上がって黎華から離れていく。

 入れ替わるようにして二人の侍女が黎華の着物が入った箱を手に、入っていった。

 彼女たちはすれ違う沈英雪に対して小さな色を含ませていたが、沈英雪本人にはそれは届いてはいないようだった。

「…………」

 室の扉を潜り、廊へと出た彼は、少しだけ離れた場所で静かに立つ。

 軒下の角に設置されている灯篭を見上げると、りりん、と鈴の音が響いた。美しい装飾のそれは、黎華の心を映しているかのような音色を響かせ、風に溶けていく。

 形のないそれを目で追っていると、天高く上ったところで、僅かな闇色が握りつぶしたような光景が目に移った。


「!」


(なんだ、今のは……)


 思わず、心で問いかける。

 おそらく、この場でそれを見たのは沈英雪だけであろう。侍女たちには、気配にすらならなかったはずだ。

 ほんの小さな、塵のような――闇の色。

 妙な胸騒ぎを得た沈英雪は、言葉なく自分の髪の毛を一本抜き、それを宙に放った後に息を吹きかけた。

 すると髪はふわっと一度舞ったあと、二つに分かれてそれぞれ別の方向へと飛んでいった。

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