28.乱す者・ニ
「姫さん、何してるんですか」
「散歩です。二胡も弾き飽きちゃったし、今日はいつもより調子も良いから、歩こうかと思って」
「……一番近しい者を伴えって、
散歩だとは言うが、ふらついていて心許ない。確かに午前中は二胡を弾いていたが、言葉通り飽きてしまったので、ふらふらとしていたのだろう。
「……侍女たちは、俺に気を遣いすぎるから」
ぽつり、と独り言のようにして黎華がそう言った。
姫としてではない言葉に、心が揺さぶられる。
黎華に対する扱いは、みな丁寧であった。それが過剰となり、まるで腫れ物を触るような扱いになることが多い。気の知れた侍女はいるはずなのだが、やはり皆がそろって『そう』なのだ。
「姫さんが、壊れそうに見えるんだよ」
沈梓昊は僅かな間の後、静かにそう言った。
皆の気持ちを代弁するかのような言葉に、黎華も興味を傾ける。
「……それぞれ、みんな気にしてるんですよ。姫さんが日に日に弱っていくのを助けることも出来ずに、守るだけっていう立場は、実際は物凄くもどかしいし……辛いはずだ」
「うん、だから……俺が来なくていいって言うと皆来ないし、特に命を出さない限りは何も言ってこないんだ。あんなに人数がいるのに、見えない壁が出来ちゃってる」
「それだけ、後悔している者が多いんですよ、ここは」
自嘲気味に笑う黎華を、沈梓昊は複雑な心境で受け止めた。
そうして、彼は黎華をあっさりと横抱きにして「戻りますよ」と言いながら廊を歩き出す。
「……沈梓昊も沈英雪も、力持ちだね」
「姫さんが軽すぎるんです」
「でも、二人とも……俺に壁を作らない。それが、今は……すごく心地よくて、嬉しいです」
沈梓昊の腕の中に納まる黎華は、彼の胸に手のひらを添えて、小さく笑った。
――姫のあの言葉尻と表情の見せ方には、困りますね。
ふと、
二人だけでの会話をしていた時の事、やはり彼も黎華を深くに気かけているので、そう言った感情の揺れ方が起こるらしい。
――おそらく、彼にとっては自然な事なのでしょう。過酷な時間の中で、身に着けてしまったがゆえの技……あなたほどではないですけど、私も時折、姫の仕草に心を奪われてしまう。
あの沈英雪ですら、そう言うのだ。
黎華という存在は、それだけ強い印象を落とし込んでくる。どれだけ強固な意志をもってしてでも、この彼の前ではあっさりと崩れてしまうのだろうと改めて思った。
「ねぇ、沈梓昊」
「ん、なんですか、姫さん」
「俺に何か、感じてる事あるでしょ?」
「……解ってるなら、言わないでくれよ」
黎華の手のひらが、沈梓昊の胸をゆっくりと滑った。
それはとても扇情的で、沈梓昊も思わず表情を歪める。
おそらくこの行動と言葉を、同じようにして沈英雪にも言ったのだろう。彼の顔を見れば、楽しそうにくすくすと笑っている。
「英雪は怒ったんですか」
「……難しい表情はしてたよ。すごく困った顔をして……それから、花丹のためだと前置きして、口づけをしてくれた」
「あー……」
沈梓昊は、思いきり眉根を寄せてそう言った。
想像は容易く出来るが、あの沈英雪にそこまでさせたのか、と逆に関心してしまうほどだ。
浮ついた思考など一切持たずのはずである『ハクタク』が、『黎華姫』の手腕にあっさりと負けた。
尹馨がこれを知れば、怒るより先にやはり呆れるだろう。
「姫さんさぁ……ダメだって、そう言うの」
「ジジィやオヤジなんかより、ずっと救われるから。……俺だって、綺麗な人を選びたい」
「だから、そう言うのは尹馨だけに言ってやってください」
「……尹馨は、特別なの。だから、尹馨だけにしか、もう体は任せない……」
黎華はそう言いながら、言葉が弱くなっていった。
それまで浮かせていた頭もかくりと垂れ下がり、沈梓昊の胸に寄りかかっている。
「……姫さん?」
沈梓昊がそこで、立ち止まった。
そうして視線を彼に落として、状態を探る。――体が、熱かった。
熱を出してしまったらしい。
「そうか、薬……飲んでませんね?」
「……だって、もう少しで、無くなっちゃう……」
か細い声を聞きながら、沈梓昊は歩みを再開させた。
そうして足早に黎華の室まで戻り、素早く奥の間の寝台へと彼を運んだ。
薬とは、以前に尹馨が文と一緒に届けたものだ。
自分が戻るまでの足しにと、それだけの量で残していったが、そろそろ切れるという事か。
沈梓昊は黎華を寝台の上に寝かせてから、無言のままで薬が入っているだろう巾着をつかみ取った。そうして、自身の膝の上でそれをひっくり返して、中身を確認する。
膝の上に落ちてきたのは、一つの包みだけであった。その後に、粉だけがパラパラと落ちてくる。
「…………」
それを指で確かめ、表情を難しいものにする。
黎華は誰にも言わず、この薬を隠し持っていた。そうして、きちんと飲んでいたのだろう。
――だが。
「……これが最後の一包……ってことは、最近は、分けて飲んでたな?」
「大丈夫……半分だけでも、良く効いてたよ……」
「はいはい、解ったから姫さんは黙っとけ」
独り言に近い言葉に、力なく微笑みながらそう言う黎華。
それを傍で見ながら、沈梓昊は僅かな苛立ちを感じていた。
尹馨が授けたこの薬は、花丹を安定させるものであり、失っていく花丹を取り戻す効果は無い。
夜明珠の効能も手伝い、安定しているものだと思い込んでいた。
尹馨と出会ってからずっと、黎華は他の男を近づけさせていなかった。それがどういうことに繋がるかは、沈梓昊には解っていたはずだ。
自分たちが傍にいながら、気づけなかった。
――気づいて、やれなかった。
「……ほんっとに、あんたは……良く出来た姫さんだよ、黎華」
彼はそう言いながら、自分の懐に手をやった。素早く何かを取り出した後、手のひらの上でそれを割り、自分の口へと含む。直後に傍にあった水を含んでから、黎華へと上体を傾けた。
熱で上気した頬が、色気を誘う。
白粉の匂いと、黎華の吐息。それを確かめてから、沈梓昊は黎華の唇を指で割り、口移しで水を飲ませた。
一筋、唇から水の雫が零れ落ちる。
それは気には留めずに、黎華も彼の口づけを受け入れて、喉をこくりと動かした。
「ん、ん……」
「……ああ、くそ……」
――薬を飲ませるだけだ。
そう、心で何度も言い聞かせた。
だがそれでも、目の前の黎華が崩しにかかってくる。
なけなしの理性が、触れ合いだけで形を無くしていく。
(恨まないで下さいよ、尹馨……)
沈梓昊は心でそう呟きながら、黎華の頬に手を触れて、彼の唇を貪っていた。
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