27.乱す者・一

「ねぇ、なんでここの姫さまって、『男』なの?」


 厨房で働く女の一人が、大根を切りながらそんなことを言った。

 若い女性であったが、春頃に入ってきたばかりの新顔であるらしい。

 その言葉を耳にしたもう一人の女が、血相を変えて彼女の口元を片手で塞ぐ。それから辺りを見回し、他に人がいないことを確認してから、かくりと肩を落とした。


「何よ、皆知ってるんでしょ?」

「ええ、そうよ。だけど、それは言葉にしちゃ駄目なの。侍女長に最初に言われたでしょ?」


 女は不満そうだった。

 だがそれでも、もう一人の女の口ぶりから、場を察して「わかったわよ」と小さく告げる。


「……でも、普通におかしいって思うじゃない」

「私たちのような下っ端には、知らなくていい事情があるのよ。おまえも良くして頂いているでしょ」

「まぁねぇ……思っていた以上に稼げるし、お休みもちゃんともらえるし……」


 塞がれていた手が遠ざかっていくのを見て、女は大根を切る作業を再開させつつそう言った。

 気になってしまったことは、どうしようもないようだ。


「別に、ここに不満があって言ったわけじゃないんだよ。……なんていうか、その……姫さまが、お可哀想だなって」

「あんた……もしかして、見たの?」

「前に、ちょっとだけ……夜のお膳を下げに伺ったらさ……なんか目の端が垂れたじじぃが、姫さまと話してるの見えちゃって」

「……ああ、ワンさまね」


 女たちはそれぞれの作業をしつつ、そんな会話を始めた。

 黎華リー・ファを哀れに思う気持ちは同じなのか、最初に止めに入った女もため息を吐きながら頷いて見せる。


「姫さま、それでなくても食が細いじゃない? 精のつくお肉はあまり召し上がらないし、今日だって大根の汁物だけでいいってさ……。私より細いんだよ、あの方」

「よくお熱も出されてるし、そういう時はお粥しかお口にされないものね……」


 はぁ、と二人同時にため息が零れる。

 どこの家でも同じことだが、主の事情を深く知ることは禁忌だ。

 もし知ってしまっても固く口を閉じ、何も言わず何も見ず、忘れてしまう他ない。

 それでも、こうして話題に上がってしまう事も少なくはないのだ。


「私だったら、耐えられないよ……」


「そうね……私も姫さまの立場だったら、無理だと思う」


 そう言うのは、やはり黎華の事情を二人とも良く知ってしまっているからなのだろう。

 王家や張家がここに『何』をしに来るのか。

 侍女はもちろんのこと、下働きの者たちにも、露見はしているのだ。


「私たちは何も出来ないかもしれないけれど……せめて美味しいと言ってもらえるもの、作っていかないとね」


 一人の決意にも似た言葉に、もう一人が深く頷いた。

 そうして二人は、黎華のための食事を用意するために腕を振るう。


「……なるほど。こういう場所にも味方あり、か」


 そんな彼女たちの会話を、厨房の出入り口で堂々と聴いている者がいた。

 沈梓昊シェン・ズーハオであったが、彼は誰にもその姿を見られることもなく、ゆっくりとした歩みで場を離れていく。

 黎華の側近となり、実際の日常を共に過ごしてみて痛感したのは、皆がそれぞれに一歩を引いて黎華に接しているという事だった。

 権力者の二家に逆らえないという事が一番大きいのだが、やはり主である黎華の深い事情を知る者のほうが逆に表立ったことが出来ないということだ。


「まぁ……仕方ねぇよな」


 厨房で新しい何かを探れるかと思い足を運んだのだが、それぞれの思いなどはどこでも同じであった。

 それ以前に大きな問題もあった。黎華が普段からあまり食べないという事だ。

 夕餉を共にすることが多いのだが、やはり黎華は食が細かった。花丹の影響からくるものだとは思うが、彼は体が細すぎるのだ。

 固形物は殆ど食べられないうえに、菓子なども柔らかいものしか口にはせず、それすらも一口か、二口程度しか食べきれない。

 厨房の女たちが言っていたように肉は殆ど食べられず、その理由を本人からも聞いたのだが、口に含むと吐いてしまうというのだ。


「……思い出してしまうのです。感触・・を」


 黎華は俯きがちに、小さくそう言っていたのを思い出す。

 つまりは、今までの性の体験のおかげで、彼は食が細くなってしまったのだ。


「クソが」


 沈梓昊が思わず、そんな言葉を吐いた。

 小さい響きであったが、声色は黒く、闇のような音であった。

 沈英雪シェン・インシュエがこの場に居れば、彼の持つ剣の柄で小突かれてしまったかもしれない。だがそれでも、吐かずにはいられなかった。

 黎華という存在は、尹馨イン・シンが接触する前から見知ってはいた。独自に調査もしていたので、遠くからではあるがその姿も行動も、微かに把握していた。

 だからこそ、なのか。

 沈梓昊にとっての黎華は、少々感情がそちらに傾きがちになる。

 傍にいると触れたくなってしまうし、甘えさせてやりたくもなるし、とにかく尽くしてしまいたいと思ってしまうのだ。

 『黎華姫』としてのなせる業なのか、それとも同情や哀れみからくるものなのかは、判断が出来ない。


 ――ちょっとぐらつきそうになるくらい、あんたは綺麗だぜ?


 数日前、黎華に向かって言ったあの言葉はもちろんからかい半分ではあったが、やはり本心からくるものだった。


「はぁ……俺もまだまだ、だなぁ」

 しばらく廊を歩いてから、項垂れるようにして朱色の丸柱にもたれ掛かり、そんな独り言を漏らした。

 自分の感情などどうでもいいのだ。

 今は黎華と尹馨のための行動を取らなくてはならないのだから。


「……沈梓昊?」

「!」


 廊の先で、声が聞こえた。

 それに慌てて顔を上げると、黎華本人がその場に立っている。侍女を伴っていないところを見ると、単独でその場にいるのだろうと思った。

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