20.花丹の泉
『
彼はとても不満気であるようだった。
「……蛇王、すまない」
尹馨が素直にそう謝ると、大蛇はつまらなさそうにして『ふん』と鼻を鳴らす。するとその風圧で尹馨の前髪が揺れて、それだけでその場が和んだ。
『俺様に結界など、百万年早いぞ』
そう言いながら、大蛇はその大きな体躯をくねらせて尹馨を取り囲む。
その様子を苦笑しながら見ていた尹馨は、焦る様子も見せずにため息を吐いた。
「あなたが来てくれなければ、俺は今度こそダメだったかもしれないな」
『縁起でもないことを言うな。俺様はお前の
「……あぁ、うん」
大蛇はいつでもこうして、尹馨の前へと立ってくれる。
和ませるような言葉運びも、尹馨の返事を見越して選んでくれているものだ。
『さて、お前はそろそろ堂宇へと行け。そしてさっさと用を済ませて此処を去れ。さっきのあいつの残した言葉、少し気がかりだ』
「そうだな……俺もそこは引っかかっていた。あなたの言う通りにしよう」
尹馨はそう言うと、軽々と立っていた地面を蹴って大蛇の体を飛び越した。
そうして、砕けた簪の元へと降り立ち、黙ったままで欠片を拾い上げる。
『……綺麗な簪だったのにな。俺様がもう少し機敏に動けたらな』
「いいんだ。壊れてしまっても……こうして欠片も残っている」
懐から出した布に拾い集めた欠片を仕舞いつつ、尹馨はそう言った。
一歩が遅れてしまった事は、何より自分が迷ってしまったせいだ。大蛇は残念そうにしていたが、彼は十分良くしてくれた。
「……では、行ってくる。あなたには世話になった。いずれまた何かの形で恩を返す」
『うん、次は結婚話しか聞かんぞ!』
大蛇はその名の通り、『蛇王』だ。
この山の主であり、そしてこの場の生ける全ての者の王であり、尹馨の字である『
虞淵という言葉には『太陽が沈む谷』という意味がある。
尹馨の字がこの地に因んでいるのには、こうした理由があってのことであった。
そんな彼が砕けた事を言ってくれる限りは、余計な心配は皆無なのだろう。
そう判断して、尹馨は大蛇に一礼してから一気に山頂を目指すことにした。
山頂は、その一帯が聖なる気を帯びた地である。
頂きを進むと奥まった箇所があり、その場にかの堂宇があった。岩場と一体化しているのは堂宇自体が結界として使われている為だ。
沈夜辰が言っていた通り、堂宇には花丹に似た霊力を生み出す泉が存在する。
尹馨がここを訪れた理由は、もちろんその花丹の泉を確認するためだが、もう一つの明確な理由があった。
「――尹馨?」
堂宇の門をくぐり歩を進めると、尹馨を呼ぶ声がした。
その声に視線を向けると、見知った顔が視界に入ってくる。
「やはりここにいたんだな、
尹馨は迷いなくその名を告げた。
そして黎静と呼ばれた少年も、迷いなく尹馨を見つめてくる。桃色と青の混じったあの――簪の花の色と同じ瞳で。
「黎華に会ったのね?」
「ああ」
黎静は泉の手前の平たい石の上で座禅を組んでいた。
口調からすると少女のようだが、装いは少年そのものだ。
「さっき、『狐』が来ていたでしょう」
「……やはり気づいていたのか」
「こちらの様子も窺いに来てたわ。結界で入れなかったんでしょうけど」
「…………」
少年はきっぱりとそう告げてから、自身の座禅を解いて立ち上がった。
長い髪は高い位置で括られ、尹馨のような剣士の衣服を身に着け、傍には弓矢が置かれている。
「黎華、どうだった?」
「あぁ……まぁ、君の言う通りだったよ」
「――惚れたのね!?」
「……いや、そっちではなくてだな……」
思わぬ方向へと話題が言った。
この展開は先ほどの大蛇といるような感覚に陥ってしまう。それだけこの少年が、大蛇に感化されているのだろうと尹馨は感じていた。
――黎静は、黎華の双子の片割れだ。
つまりはこの少年こそが本当の『黎華』で、水晶宮の姫君本人なのだ。
幼い頃に入れ替わって以来、彼女は水晶宮には近づいてはいない。
近づけない理由があり、『男装』をしていなくてはならない理由がある。
「可愛いでしょう。悔しいけれど、私より美しいはずよ」
「黎静、そちらの方面の話は後だ」
「……兄さまの状態は、私が良く解ってるわ。だからここに来たんだし、尹馨が来るのも分かってた」
「…………」
黎静はそう言いながら、泉のほうへと視線を移した。
岩を掘られたような穴に湧き出る、清らかな水。手水ほどの大きさしかないが、それは不思議な力を秘めていた。
尹馨が黙っているのを良いことに、黎静はその泉に手のひらを差し込み、水を掬った。
「飲んで」
尹馨に向かい、彼女は手を差し出した。手のひらには掬ったばかりの水がある。
否とは言わせぬ視線で、黎静は尹馨にその水を飲めと強要した。
そして尹馨もやはりそれを否定できずに、彼女に近寄り身を屈めて、手のひらに唇を落とす。
間近にある美しい顔に、黎静が震えた。
「……尹馨はいつ見ても美男子ね。あまりに整い過ぎてて何だか腹が立つわ」
その言葉に尹馨は苦笑した。そうして彼女の手のひらの中の水を舐めとると、その手を引いて自分へと抱き寄せる。
「ちょっと、尹馨。何のつもり?」
「誰も居ないのだから、女性らしい反応をしてほしいものだな」
「……私の柄じゃないわ。それに、この姿でもう何年経つと思ってるの? 私だって可愛い女の子を騙せるだけの技量もあるのよ」
黎静は狼狽えることなく、そう言い切った。
それでも尹馨の腕の中にいること自体は嫌では無いのか、頬を預けている。
本来の姿であれば、こうした光景は何ら違和感もなく互いに深い情も交わせたかもしれない。そんなことを、尹馨も黎静も心の奥で考えていた。
「美男美女が抱き合ってるっていうのに、どうしてこれ以上が起きないのかしらね」
「……君は身代わりは嫌だろう」
「あら」
尹馨の言葉を耳にして、黎静が腕に力を込めて彼の胸から離れた。
そうして、彼の顔をよくよく覗き込んでから、ふふっと笑う。
「やっぱり兄さまに惚れたのね? 私があまりに似ているから、間違いを起こしそうになった?」
「……黎静」
「否定しないのね。……じゃあ、ここまで頑張ってきてくれたご褒美をあげるわ。長くは持たないけど、我慢してね」
黎静はそう言って自分の纏めていた髪を解いてから、二本の指を額に当てて、何かを呟いた。指先にともる淡い光を、そのまま目の前の尹馨の額へと持っていく。
「っ!」
ビクリ、と尹馨の体が震えた。
「
強い眩暈を感じた。
それを掃うようにして瞬きをすると、視界に飛び込んできたのは黎静ではなく、『水晶宮の黎華』だった。
「黎、華……」
「うん、尹馨。……俺だよ」
幻かと思った。
だがそれは紛れもなく、黎華の姿だったのだ。
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