19.焦燥と嘲笑

 沈夜辰シェン・イエチェンが手にしたままの簪は、まだ彼の手の中でシャラシャラと音を立てていた。

 金属と金属がぶつかり合う音と、揺らされるたびに震える桃色に青が混じる花の細工。

 腕を上げてその行動を見せびらかすかのように、沈夜辰はそれを揺らし続けている。


「……取り返さなくていいんですか。大事な物なんでしょ?」

「…………」


 尹馨イン・シンはそう言う彼に、やはり一歩を踏み出せないでいた。躊躇いが生じているのだ。

 ちらり、と彼の様子を赤い目で流し見た沈夜辰が、僅かに眉根を寄せる。


「尹馨。あなたは昔も今も、甘すぎる――」


 彼はそう言いながら、空に掲げていたほうの手のひらを開いた。その指先に握られていた簪は、当然としてゆっくりと地に落ちていく。


「……っ、沈夜辰シェン・イエチェン!」


 数秒遅れて尹馨が駆け出した。大きく腕を伸ばして、簪が落ちていく方向へと体を傾ける。

 だが、あと少しで人差し指が届くという所で、沈夜辰が動いた。

 彼が足を出して、簪を軽く蹴ったのだ。

 一尺ほど先に飛んで行ってしまったその簪は、尹馨の願い虚しく地へと落ちた。


「……っ」


 土の上に膝をつく形となってしまった尹馨は、その光景に悔しさを露わにする。

 それを傍で見ていた沈夜辰は、楽しそうに笑みを作り上げながら、次の行動に移っていた。


「馬鹿だねぇ、尹公子」


 グシャリ、と音がする。

 尹馨イン・シンの目の前で、黎華リー・ファの簪が踏み砕かれた。美しかった花の細工は、砕けて宙に浮いた後、無残にも散らばってしまう。


「……、……」


 瞠目するしかなかった尹馨は、信じられないといった表情で、沈夜辰を見た。直後に視線は睨みと変わったが、それでも当の沈夜辰は、何も恐れてはいないようだった。


「怒ればいいじゃないですか」

「……沈夜辰」

「自分が今どんな顔してるか解ってます? 見たことのないような表情してますよ。――ああ、いや。昔に一回だけ見たかな」


 尹馨の周りを囲むようにして歩きながら、彼は楽しそうに言葉を続ける。


「……ねぇ、尹馨。やっぱり水晶宮の巫覡と仲良しなんだ? 今代の子ってどどれくらい美人なんです? どんな美しい姫でも全然靡かなかった尹馨が興味を抱くなんて、僕も気になるなぁ」


 対する尹馨は、言葉を作ることが出来ないままだった。

 目の前の彼を下手に刺激したくない――そんな思いと、己の感情でやはり、戸惑っているようだ。


「あなたがそうやって黙っちゃう時は、困ってるんだよね。すごく焦ってる……なんでそんなに、僕を恐れるようになっちゃったんです?」


 地に膝をつきながら立ち上がれないでいる尹馨に、沈夜辰は身を屈めて彼の耳元に囁くようにしてそう言った。


「尹馨。ここには堂宇に用があったんでしょう。あそこには小さな泉があって、花丹に似た霊力が自然に湧き出ている。それが欲しくて来たんですか? 巫覡の為ですか? そうだったら、おかしいですねぇ。水晶宮の巫覡は自分での花丹の精製が出来るはずでしょう?」


 沈夜辰は実に多弁だった。

 よほど楽しいのか、笑みを絶やさずにいる。

 だからこそ、こんな彼には警戒しなくてはならないのだ。


「――もしかして、精製できないとか? そう言えば、今代の姫は『穢れてる』とかなんとか……そんな噂を耳にした事もありまし――」


 沈夜辰の言葉が途中で止まった。

 切っ先が顔に向けられたこともあり、尹馨から僅かに距離を取ったのだ。


「そうそう、素直に怒ればいいんですよ」

「言葉には気をつけろ、沈夜辰」


 尹馨は確かに怒っていた。

 鋭い眼光と迷いのない剣の向きが何よりの証だった。

 それでも沈夜辰は、口元に笑みを湛えたままだ。尹馨がその甘さから自分を斬れないことを知っているのだ。


「……尹馨。あなたは誰よりも強い。それは僕が知っています。ですが、殺すか殺されるかの立場に置いて情を向ける相手を間違えてしまうのは……一番の弱点だ」

「…………」

「前にも言ったでしょう。僕は彼女以外は誰でも殺せると。それは、例えあなたであっても同様なんですよ。……こんな風にね」


 沈夜辰シェン・イエチェンの赤い目が光った。それと同時に右手に剣が浮かび、瞬時に握った柄が完全なる形となる頃には、刃が尹馨の体を貫こうとしていた。


『――調子に乗るな、若造が!』


「!」


 ズン、と地面が揺れた。

 聞き慣れた声が頭上で響き、二人の間に大きな影が出来る。

 その直後、尹馨の目の前に成人男性ほどの高さの岩が落ちてきた。それは、石化された一本の木だ。


「蛇王……」

『俺様を出し抜けると思うなよ、尹虞淵イン・ユーユァン。その名を授けた名付け親を誰だと思ってる?』


 そう言うのは、あの大蛇であった。

 彼は尹馨の貼った結界内にいるはずであったが、どうやら行動を見抜かれていたらしい。

 そして石化は、蛇の得意技の一つである。

 彼は事前に木を石化し、それを尹馨と沈夜辰の間に落としたのだ。


「……また、お前ですか。大蛇」


 沈夜辰はひらりと後ろに飛び退いていて、嫌そうに表情を歪めてそう言った。

 大蛇はその言葉に過剰反応して、彼のほうを見る。そうしてまた、眼光を放ち周囲のものを石化させた。


「ああ、もう……うるさいな」


 草木がどんどん石へと変わっていく。それでも沈夜辰は少しも慌てることなく、ひらりひらりと身をかわして毒づいた。


「少しは別の手を見せたらどうですか、蛇王。同じことを繰り返されると、こちらとしても興ざめですよ」

『やかましい。忌々しい小僧め。我が恨みは例えこの地が滅びようとも尽きんぞ!』

「……蛇王、どうか落ち着いてくれ」


 沈夜辰の言葉に煽られ、彼に飛び掛かろうとしたところで、それを止めたのは尹馨であった。危険だと判断したからだ。


『何を止める、虞淵ユーユァン

「あなたの気持ちは十分すぎるほど分かっている。だが……今は・・駄目だ」

『虞淵……だからお前は甘いと言われるんだ。あいつに何度手負いにされたか解ってるのか。その度にお前は死にかけたんだぞ』

「わかってる」


 大蛇の体に触れながら、尹馨は静かな言葉で頷いた。

 彼のそんな返事を受けて、大蛇は仕方なく自分の気を静める努力をする。


「……相変わらず、仲がいいんですねぇ。昔は僕にもそれくらいの信頼があったのに」

「――沈夜辰。ここに来たのは偶然だったのか? 堂宇が目的ではないのなら……何故ここに来た?」

「蛇王が相手をしてくれていた妖魔含めて、単なる気まぐれです。そのおかげで尹公子にも会えましたし、良い情報も得られました」


 石化を避けていた事もあり、三丈ほど離れた位置に立つ沈夜辰は、そのまま尹馨たちには近づいてくることなく、地を蹴った。


「尹馨。あなたがまだ水晶宮に心を寄せるなら、やはり僕とあなたは敵だ。いつか必ず殺しますよ。あぁ……でも、なるべく苦しんでから死んでくださいね?」


「…………」


 沈夜辰はそう言い残して、尹馨の返事は特に待たずに姿を消した。

 風に乗って彼の笑い声だけが響き、尹馨はやはり何も言えずに、視線を落とすのみであった。

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