18.苦い記憶・ニ
「
そう言ってきたのは、
彼女は『霊亀』だ。それゆえに生まれ落ちてからずっと、邪気を受け入れることが出来なかった。
そして人界へと降りて一つの霊峰におさまることは、歴代がそうであったように彼女にとっては逃れられない定めなのだ。
今はもう形としては残ってはいない門派があった。霊亀を神と崇める一族だった。
詳細は歴史に埋もれて見る事は叶わないが、何らかの理由で人界で一つの地にその身を捧げて『霊峰』となった霊亀がいた。そして、その霊峰を守るために、天には上らぬ地仙が棲みつき子孫を残してきた。
それらが現在の水晶宮の一族『黎家』であり、巫覡もその理由から生まれた存在だ。
尹沙鈴はその『霊亀』としての霊力を継いで生まれた、麒麟と鸞の子であった。
「結局は、逃れることが出来ないのですね」
「だからこそ、お前を呼んだのだ」
沈夜辰が僅かな皮肉を混ぜてそう言えば、尹馨の父親は静かにそう返してきた。
その言葉を理解できずに、沈夜辰は首を傾げた。
「それは……どういう意味ですか?」
「護衛として阿鈴と共に人界へ降りるのだ」
「!」
衝撃的な響きであった。
遠回しに、そして予想もせずに尹沙鈴との仲を認められてしまった形となる。
いずれは許しを請わねばならぬ、と破門すらを覚悟していた彼にとっては、意外過ぎる言葉だったのだ。
「すでに父君の了承も得ている。心してかかれ」
「……何故、ですか。兄君の尹公子でもよかったのでは……」
「わからぬのか。阿鈴がお前と共にではないと嫌だと言ってきたのだぞ」
「尹老師……」
厳しいだけの人だと思ってきた。
尹馨の父親はそう告げてきた後、顔を上げた沈夜辰に対して少し困ったような表情を向けてきたのだ。
「……何も望めぬ阿鈴が選んだお前だ。私は何も言わぬ。……だが、お前の父君が婚姻だけは認めぬと釘を刺してきた」
「え……?」
「お前がゆくゆくは望むだろうと、遠回しに窺いを立ててみた。だがあの崇高なお方は、未だに他種族の血が混じることは厭っておられた」
(僕のことを厄介者扱いしてこの楼閣に預けたくせに、今更……?)
父の姿は、あまりよく憶えてはいない。
ただ、義理の母がよく激怒してぶってくるので、自分は生まれてはならない子だったのだろうと察しはついていた。
義母の金切り声と暴力と、父の完全なる無視が沈夜辰の何よりの『汚点』であった。
楼閣に預けられ、尹馨と出会い友となり、愛する人と結ばれてからはすっかりその事を忘れていた。
自分はずっとこの楼閣でこれから生を過ごすつもりであったし、そうだと思っていた矢先に、厄介な実父の影がチラつき始めた。
――煩わしい、と思った。
「夜辰よ」
尹馨の父が再び言葉を繋げてきたので、沈夜辰もそちらに意識を持っていく。
最初はこの男も父のように自分を冷遇するものだと思っていた。
「お前が沈姓である限りは、この楼閣の一員だ。私も愛弟子だと思っているし、我が妻
「ありがたきお言葉……尹老師のお心遣い、痛み入ります」
「阿鈴を頼むぞ。霊峰での穢れだけにはくれぐれも気を付けてくれ」
「はい。この身に変えても尹沙鈴を守り抜いて見せます」
尹馨はこの時すでに、修学の為にと人界に降りており、別れの挨拶は出来なかった。
彼だけが味方だと思っていた。
その彼が自分の知らぬところでずっと、根回しをしてくれていたのだろうと思う。立場や尹沙鈴との関係と、その行く末すらも。
尹馨のため、愛する尹沙鈴のため、自分を許してくれた尹老師や夫人のためにも――。
それから数年後。
人界では小さな諍いが各所で起こり始めていた。
様々な理由が重なり、それはじわりじわりと肥大化していった。
そんな現実に憂いていると、今度は水晶宮自体でも一つの問題が起こった。
尹沙鈴を守り、その声を頂くはずの巫覡が、他所の地仙の男と共に役目を捨てて逃げたのだ。
――自由を手にして、愛に生きる。
尤もらしい逃げ文句を掲げて、理由も告げずに水晶宮を空にした巫覡は、完全に自分の事しか考えていなかった。
そもそも、巫覡も哀れな立場にあるという事は知っていた。
「姫もわたくしと同じね……だから彼女とは、不思議な縁で結ばれていると思っているのです」
そう言ったのは、
彼女は巫覡の女性を慈しみ、何度か言葉を交わすこともあり、互いに友情のようなものを築いてきた。それを傍で見守っていた沈夜辰も知っていたし、人界との関わりも悪くはないと思っていた矢先でもあった。
「怨んでは駄目です」
それを言ったのは、やはり尹沙鈴だった。
僅かに時間が流れた後、巫覡は権力者たちの追捕の手を逃れることが出来ずに水晶宮へと連れ戻された。その時、駆け落ち相手の地仙の男は巫覡をあっさりと捨ててさらに逃げてしまっていた。
「かわいそうな姫様。でも、怨んではいけないわ。きっとあの方だって、理由があって逃げたはず……信じていれば、必ずまた会え――……」
何が起こったのか、沈夜辰にはわからなかった。
連れ戻され、罰を受けた巫覡の姫は毎日泣き暮らしていた。日に日に弱っていく彼女を哀れだと思った尹沙鈴がずっと彼女の傍についてやり、献身的に慰めていた。
――そこまでは、良かったのだ。
「尹沙鈴ッ!!」
沈夜辰は叫んでいた。
目の前には鮮血が広がっている。
尹沙鈴の血、水晶宮の巫覡の血。巫覡の姫が「あなたさえいなければよかったのに」、と言っていたのを憶えている。
そして沈夜辰は、
「――お前と言う存在が最初から居なければ、尹沙鈴がここに降りてくることも無かったのに」
そう言って、巫覡の姫の両眼をくり抜き、胸を突き、清らかな泉を真っ赤に染めたのだ。
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