17.苦い記憶・一
接してみてわかったのだが、小動物などを殺してしまったのは、命の行方を目にしてみたいという好奇心からだと彼は告白した。
それはとても危険な思考だったが、完全には否定しきれない部分もあると尹馨は感じる。
だからこそ、殺生はしてはいけないと、彼なりの言葉で教えた。
「……小さきものは、私たちよりずっと命の長さが短い。行方を知りたいのであればなおの事、その短い時間を奪い取ってはダメだ」
「でも、命は……廻るでしょう?」
「それは自然の死から導かれるものだよ、
「……案外、脆いものなんだね」
沈夜辰は、尹馨の言葉だけは顔を上げてきちんと受け入れてくれていた。
楼閣に来る前の彼にはやはり、心に寄り添える存在がいなかったようなのだ。
「儚いものだからこそ、愛しく思えるものだとは思えないかい?」
「うん、それは……なんとなくわかるよ」
出会って一年、何度か繰り返して交わした言葉だった。
受け止めても理解するまでに時間がかかるらしく、それでも尹馨は根気強く沈夜辰に付き合った。
その努力は結果として現れ、沈夜辰にも新たな感情が芽生え始める。
――ある人物が、彼の心に留まったのだ。
それは、尹馨が紹介した彼の妹だった。
友となって三年ほどが過ぎた頃、尹馨は秘密だよと前置きして沈夜辰を妹の元へと連れて行ったのだ。
そこは天上の楼閣がある場所から少しだけ離れた場に建てられた小さな社だった。強い結界に囲まれたその社は、一人の『公主』を守るために存在している。
尹馨の妹は生まれも存在も特殊で、一切の邪気に触れてはならないとされていた。
無垢であり聖の気しか知らない彼女には、その他の『気』は毒になってしまうのだ。
「まぁ、兄上」
「やぁ、
兄である尹馨ですら年に数回しか会う事の叶わない、秘められた存在の名は
尹馨に似ている、と隣に立つ沈夜辰は心で思っていた。
尹馨を女性にするとこんな感じだろう、と思えるほど二人はよく似ていたのだ。
尹沙鈴とは、格子戸を挟んでの対面となった。体質の問題もあり、誰であっても直接は会えないらしい。
「あなたが、
「……僕を、ご存じで?」
「兄上から聞いておりました。とても聡明な友が出来たと……楽しそうにお話して下さるものですから」
格子戸の向こうの妹君は、朗らかに笑みを浮かべていた。髪に飾られた大輪の花がとても印象深く、そして感情が動かされた。
少しの偽りもない美しい笑みだと、素直に思ったのだ。
「何か、お話してくださいませんか、沈夜辰さま」
「え……しかし、僕はあなたを喜ばせるような話題は……あれ、尹馨?」
尹沙鈴の要望に戸惑った沈夜辰は、隣にいるはずの友の様子を伺った。だが、尹馨はその場には居なかった。
慌てて辺りを見渡すと、彼は奥の間の戸棚へと足を運んで、何かの書を手にしている。
そして尹馨は、ちらりと一度だけ沈夜辰を見て、小さく笑って見せたのだ。
「……え、ええと……では、花の話などいかがですか?」
「まぁ、お花! わたくし、どんなお花も大好きです。ぜひ聞かせて下さいませ、沈夜辰さま」
「外では今、牡丹が咲いています。あなたの髪飾りのような、真っ白で綺麗な……」
「もうそんな季節ですのね。ふふ……白牡丹はわたくしの一等大好きなお花なのですよ……」
嬉しそうに手を合わせながら微笑む尹沙鈴は、とても可愛らしかった。
沈夜辰はそう思いつつも花の話題を続ける。
二人の談笑は暫くその場で続けられた。
「…………」
そんな二人が話す様子を書を見るふりをして窺っていた尹馨は、やはり笑みを絶やさずにいた。
おかしな話であったが、妹と沈夜辰は気が合うだろうと確信していたのだ。
勝手な願いであったが、沈夜辰が自分以外の誰かに興味を持ってほしいと思っていた。
それが異性であれば、愛情を知ることが出来る。育んでいける感情は、多いほど良いと判断した故の行動であった。
「――尹馨。どうして彼女は、あそこに幽閉されているの?」
幾日か経ってから、沈夜辰がそう問いかけてきた。
妹は確かにその社から出られない。一度だけ連れ出したことがあったが、この天上においても僅かな邪気が存在し、彼女は倒れてしまった。
それ以来、清められたあの社でしか生活出来ないでいる。
一歩を引いてみれば、それは幽閉と変わりないのだろう。
「
「……邪気がダメなんだっけ。いつか連れ出せたらいいのに……沙鈴に見せたい場所がたくさんあるよ」
「君がそう言ってくれるのは、心強いね。『いつか』も実現するかもしれない。これからも通ってあげてくれ」
「まぁ、僕で務まるなら……いくらでも」
――兄上、わたくし……あの方が好きです。
妹が小さくそう告白してきたのは、それから間もない事であった。
頬を僅かに染め、沈夜辰が贈った髪飾りをその結髪に飾り、視線を落としながらの言葉だった。
「浅ましくも、あの方に触れてみたいと思ってしまうのです。これは……いけないことでしょうか?」
「……いや、それは大きな進歩だ」
(夜辰は天狐だ……もしかしたら……)
尹馨は心でそう呟いていた。
沈夜辰と尹沙鈴はすでに両想いであった。格子ごしでの逢瀬はもう幾度となく重ね、その度に互いに想いを募らせてきた。触れることの出来ない相手だからこそ、心で欲する感情は熱くなっていく。
「君は、妹を幸せに出来る覚悟はあるか」
「許されるのであれば、どんなことに変えても」
尹馨と沈夜辰が向き合いながらそんな言葉を交わした。
友のしっかりとした言葉を受け止め、頷き返してやる。
そうして、まずは格子越しだが、沈夜辰と尹沙鈴の距離を縮めさせてみる。隙間から指を覗かせると、それにゆっくりと触れたのは沙鈴であった。
「……っ」
妹はやはりその指先に僅かな痛みを感じたようであった。
だが彼女はそれでも、沈夜辰へと触れることをやめなかった。
「無理はいけない、沙鈴……」
「いいえ、いいえ……大丈夫です。見て、兄上……わたくし、夜辰に触れてる……爛れてません。痛みももう……ありません……!」
「沙鈴……ッ」
大粒の涙をこぼしながら、尹沙鈴はそう訴えてきた。
喜びと切なさの両方が混じった感情は、沈夜辰にも伝わり彼はたまらず格子に額をこすりつける。
そして尹沙鈴も、同じようにして格子に顔を近づけて表情を崩した。
「愛してる」
「わたくしもです」
傍でそんなやりとりを見ていた尹馨は、静かに格子の鍵を外した。
人差し指を口に当て、他の誰にも気づかれぬように、沈夜辰を格子の向こうへと入れてやったのだ。
「沈夜辰。
「……わかってる。ありがとう、尹馨」
尹馨は尹沙鈴の傍に寄った沈夜辰へと、声を低くしてそう言った。
妹の状態を見ても、大丈夫そうだと判断した。天狐であるからなのか、沈夜辰自身の想いの強さからなのかは今は判断が出来なかった。
尹馨は室を照らす蝋燭の火を静かに吹き消し、その場を後にした。
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