16.遠い記憶
その昔、かの天上の楼閣には様々な種の弟子たちがいた。
霊獣、神獣、獣たち。
それから、地仙や天仙などの子息子女も教養のために遣わされ、数年をここで過ごし、感銘を深く受けたものはこのまま残り、門弟となる。
中には身寄りのない子供たちもいたが、己が望めば楼閣の主の苗字である『
『彼』がまだ幼かった頃、天狐の子と言われる一人の少年が楼閣に預けられた。
勉学のためではなく、親に疎まれて――という、少々複雑な理由からだ。
「あの子、ちょっと怖いのよね……」
「公子と同い年だったかしら……子供なのに全然笑わないから、不気味よ」
誰かがそう言っていた。
実際、その少年には少々の問題があった。
笑わず多くを語らず、一人を好む。そして、残虐さを兼ね備えていた。
「キャアァァーーッ!!」
女性の悲鳴が聞こえた。
その声に駆け付けると、中庭の池の色が血に染まっていたのだ。そして、中心に浮いていたのはこの池で優美な姿を見せていた鯉数十匹であった。無残に引き裂かれ、見る影もない。
「――
厳しい声が飛んでくる。
『彼』の父のものだった。
名を呼ばれた当人は、池の上に作られた欄干付きの橋の上で、浮いた鯉を見つめたままでいる。
心ここにあらず――それ以上に、空虚を抱えた光の無い目だった。
「なぜ殺した! 殺生はならぬとあれほど教えたはずだ!」
足早に寄ってきた父が怒号を飛ばした。
それでも、少年は顔すら上げずに鯉の死骸ばかりを見ていた。
「聞こえておらぬのか」
「――……殺したら、どうなるのかと思って」
少年はぼそりとそう言うだけだった。
その言葉の恐ろしさに、この場に居た誰もが畏怖する。
そして父も、眉尻を震わせてつつ何も返せずにいた。
「まったく、困ったもんじゃのぅ」
そう言いながら『彼』の背後に立った存在がいた。彼の『母』であった。
「……母上」
「さて、
母は『彼』の隣に立ち、困り顔でそんな問いかけをしてきた。
香霧と呼ばれた『彼』は僅かに母を見上げつつ、少々考える。
「……彼は、天狐なのでしょう。天狐は珍しい種族です。父君も崇高でいらっしゃって、滅多に他種の前には姿を見せないとか」
「うむ。妾でさえ数回しか会うたことがない」
「では、彼は……寂しいのではないでしょうか?」
「……あやつは母御がご正室では無くてな。それゆえに少々哀れな境遇にあったそうじゃ」
母の言葉に、香霧は心が痛むような気がした。
視線はあの少年に向いたままだ。その場にいる皆が恐れているが、自分にはその恐れが何故だか無かったからだ。
「のぅ、香霧よ。あやつと友になってくれぬか?」
「彼は……私を嫌がらないでしょうか」
「それはそなた次第じゃ。ほれほれ、我が背の君が怒髪天を衝いておる。近う寄って場を和ませよ」
「は、はい……」
母は香霧を追い払うようにして庭へと背を押した。
香霧は前のめりになりつつ駆け出し、橋へと足を向ける。
例の少年と父は、未だに向き合うことのないまま、その場に立っていた。
「……っ、夜辰――」
「父上」
父が再び何かを怒鳴ろうとしたところに、香霧が割り込んだ。少年の前に立ち、腕を前に出して礼をする。
その光景に驚いたのは、父だけではなく、少年もだった。
「……公子」
少年が小さくそう言う。
それを背で受け止めた香霧は、ちらりと彼を見やって目配せでこの場を去れと合図をする。
すると少年は戸惑いつつも頷き、数歩後ずさった後に走り去っていった。
「香霧。どういう了見か?」
「申し訳ございません。お怒りはわかりますが、池をこのまま放置はできません。浄化させませんと、下界の水晶宮にも影響が出てしまいます」
「……なるほど」
利発な息子を前に、父は落ち着きを取り戻したようであった。
「今日は見逃そう。ただ私からその立場を奪った責は、お前がとらねばなるまいぞ」
「承知しております。沈夜辰とは同い年ゆえ、私のほうが適任かと判断しました」
「それでは、しばしお前に任せよう」
「ありがとうございます」
親子と思えぬような会話であった。
二人は実の親子だが、それでもこのような会話が当たり前でもある。
父は息子を一瞥した後、配下の者を呼びつけ池の浄化を進めさせた。その間に香霧は下がり、沈夜辰を探す。
「――白木蓮の木の下じゃ」
離れた渡殿からそう言ってきたのは、母であった。
彼女に一礼をしたあと、香霧は一番古い白木蓮の木へと足を向ける。
暫く駆けると、木の根元に隠れるようにして座り込む小さな影が見えて、安堵の息を零した。
「
そっと歩み寄り、驚かないように声を抑えて彼の名を呼んだ。
すると少々時間をかけて、少年は顔を上げる。
「……公子」
少年の表情は、悲しげだった。
無口で無表情で不気味な子ども、と言われてきたがそんな彼でも感情はきちんと生きている。
「隣、いいですか?」
「…………」
香霧はそう言いながら、沈夜辰の隣に腰を下ろした。
頭上の白木蓮は今が盛りで、大きな白い花びらがそれぞれに咲き誇っている。
「……なぜ、ぼくを助けたんです」
ぼそり、と小さく告げたのは、沈夜辰だった。彼は自分の足元に落ちた木蓮の花びらへと視線を落としたままだ。しばしの間の後、さらに続ける。
「哀れだと思ったのですか」
「……それは、違います」
香霧は当たり前のように否定した。
哀れだ、と思っていた部分も確かにある。だが、それ以上の感情が香霧にはあった。
「私はあなたを最初にお見掛けした時に、とても心を奪われました」
足を組んで自分の靴先を見ながら、香霧は自分の思ったことを素直に告げ始めた。
すると隣の沈夜辰は、ひどく驚いた様子でゆっくりと顔を上げる。まるで信じられないと言った表情だった。
「……おかしいと思うでしょう。でも私はあなたのような神秘さが、天狐の性なのだろうと直感で思ってしまったんです」
子供らしくない言葉並びだった。
それでも何を言われているのかは沈夜辰にも良く解った。
彼は香霧のその言葉をゆっくりと受け止め、それから脳内で反芻して、そして静かに視線を泳がせた。
「……その、公子は変わっておられますね……。ぼくをそのように言ってくださる方は、初めてです」
そんな様子の沈夜辰を間近で見た香霧は、初めて子供の――同い年だと感じられる反応を感じられて、嬉しくて微笑む。
「尹公子……」
「公子ではなく、名で呼んで下さい。私はあなたと平等でいたいのです」
「『香霧どの』?」
「……あ、いえ、その名は母上から別に頂いた名で、少々女性らしくて……実は、くすぐったいのです。……ですので、
香霧――尹馨には、名が多くある。
立場上の問題もあり、父から賜った名のほかに、母からも『
それ故に楼閣では『香霧』で通っているが、実際の彼の心情は少々複雑なようであった。
「では……『尹馨』」
「うん」
その瞬間、二人はささやかながら『友』になった。
元々、同世代の友がいなかった尹馨にとっては、何よりの出来事であった。
そしてまた、沈夜辰にとっても尹馨はかけがえのない存在となっていく。彼の傍で共に学び、遊び、時間を共有するようになってからは、内に秘める残虐さはその影を薄めていった。
――それから数年の間は、幸福の時間だったのだ。
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