09.忘れえぬ口づけ
最初は、触れるだけだった。
こんなに優しい触れ合いなど、初めてではないかと
「……、……」
何も言えずに、されるがままにしている。
目の前の
そうしてまた、唇が重なる。
――愛しておるよ、黎華。
――黎華よ。あぁ、私だけのかわいい黎華。
「……っ、……」
瞳を伏せていると、過去の男たちの言葉が呼び起こされた。
自分の気持ちだけをどんどんぶつけてくる、かけらほども愛しいとは感じない相手からの言葉は、何の気持ちも動かない。
それを掻き消すようにして、黎華は薄く唇を開いた。
そしてそろりと腕を上げて、尹馨の衣服に触れる。さら、と指を滑らせた後、二の腕付近で彼の服を握りしめた。
「……尹馨、さ……」
彼の名を呼ぼうとした。
だが、あまりきれいな音にはならなかった。
「ん……」
黎華の状態を伺いつつ、それでも無理強いをしない口づけが、ゆっくりと深くなっていく。
――この人は何故、自分に触れているのだろう。
そんな事を考えた。
出会ったばかりの、どこの誰とも知らない相手だ。
向こうは『黎華』を知っていても、それは表面上の姫という器のみのはずだ。
(そう言えば……
――黎華。
「!」
ビクリ、と肩が震えた。
それに気づいた尹馨は、唇を離して黎華を見つめた。
「……嫌でしたか」
「ちが、違う……あの、……こんな事を、わたくしのことを、真実を知ったら……」
「俺は別に、構わない」
「……尹馨さま」
至近距離での会話だった。
元から尹馨に抱き込まれているのもあったが、いつの間にか彼の片膝すらも、背中に回っていたのだ。
そして彼は、己の『素』をあっさりと見せた。
黎華は改めて、彼を見やる。
整った顔立ちと、青竹の瞳。見たことのない、美しい色だった。
覗き込むようにしてそれを見てると、尹馨は困ったように微笑んだ。
その笑顔に、黎華の心が?き乱された。
そして、何故か涙腺が緩む。
「黎華?」
「……なんでも、……なんでもない……」
それだけを言うと、ぼろぼろと涙が溢れだす。
黎華はたまらず、自分から尹馨へと抱きつき、唇を奪った。
「…………」
尹馨はそれを受け止め、彼を抱きしめ直してやる。
そして、無意識だろうが必死に食んでくる小さな唇に、答えてやった。
「ん、……尹馨……っ」
尹馨との触れ合いは、気持ちが良かった。
口づけを交わしているだけだが、今まで感じた事のない感情がどんどん溢れてきて、黎華は心が騒ぐのを抑えられない。
貪って、貪れるだけ――。
この男が許してくれる限り。
――だが、目の前の男は、どうなのだろうか?
自分と同じことを思ってくれているのだろうか。
それとも、偶然出会った姫を言いくるめるための行動なのだろうか。
考えれば考えるほど、悪い事ばかりがよぎってしまう。
「ん、はぁ……尹馨、……どうして?」
「……さぁ……どうして、だろう……ただ、君を見た時から……」
黎華が途切れがちにそう問いかけると、尹馨は苦笑しつつも言葉を繋げてくれた。
そうして、何度目かの深い口づけの後、彼の手が黎華の腰へと滑り落ちる。
その感触に、黎華はビクリと震えて首を振った。
「っ、だめ……!」
「ここまできて……いけないと?」
「……だって、俺は、……その、それこそ今更だけど、男、だし、それに……」
――綺麗じゃない。
「…………」
小さく告げられた言葉に、尹馨は僅かに眉根を寄せた。
「尹馨……?」
「……そういうことは、言ってはいけない」
尹馨は怒っているようだった。
その理由が黎華には解らなくて、小首をかしげる。
黎華のそんな仕草を見て、尹馨はため息を吐きこぼした。
「君は自分の魅力はよく分かってる。だが、その使い方を間違っているんだ」
「……?」
「――綺麗だよ、
「え……」
尹馨の言葉に、黎華は大きく瞠目した。嬉しい気持ちと驚きが同時に訪れ、感情が歪む。
桃色に混じる青が、滲んでいく。
「な、なんで……その名前……」
「姫様!」
バタン、と扉が思い切り開かれた。
息を切らしながら飛び込んできたのは黎華を探している侍女の一人だった。
「時間切れ……ですね」
尹馨は苦笑しながらそう呟いた。
そして黎華を抱きかかえて、立ち上がる。
「――ご無礼申し訳ない。こちらの姫君が倒れられていたので、介抱させて頂きました」
侍女が何かを言い出す前にと、尹馨はしっかりした口調でそう申し出てきた。
その勢いに押され、侍女は何も言い返せずに、一歩後ろへと下がる。
「姫の室までお送りしたいのだが、いいだろうか?」
「は、はい……ご案内します」
尹馨に抱きかかえられたままで空き部屋を出た黎華は、静かに彼を見上げた。
自分をしっかりと抱えてくれる大きな手。
胸に耳を充てると心臓の音が聞こえてくる。
「……尹馨さま」
その心音を何度か聞いてから、黎華は小さく唇を開いて、彼の名を呼んだ。人目があるので、姫としての言葉だった。
「はい」
「また、会えますか」
「……あなたが望んでくれるなら」
尹馨は優しく微笑みながら返事をくれた。
その笑顔が、心に染み渡るようだった。
聞きたいこと、知りたいこと――優先したいものがあるのに、彼の笑顔に飲まれてしまう。
そうこうしているうちに、尹馨は侍女に案内されて黎華の室へとたどり着いた。
その間にもずいぶん注目されてしまったが、繕うつもりもない。
「――それでは、私はこれで」
奥の間の寝台へと降ろされた黎華は、そう言って離れていく尹馨の袖を思わず掴んでしまう。
「黎華どの?」
「……あ、いえ……っ、尹馨さま、これを……」
黎華は慌てて自分の髪に手をやった。そして指先に当たった金の簪を引き抜き、尹馨へと差し出す。
華美ではないが繊細な造りの先には、黎華の瞳と同じ色の花飾りが付いていた。
「私が頂いても良いのですか?」
「はい。……だからお願い、また絶対ここにきて……待ってるから」
また目頭が熱くなった。
声も震えて、黎華は自分を装えなくなる。
尹馨はそんな姿を見て、僅かに目を細めた。
「では、約束のしるしに、私からはこれを」
彼はそう言いながら、束ねていた髪紐をほどき、黎華の手に握らせた。
長い髪がバサリ、と宙に浮いてその動きだけで侍女たちから溜息が零れる。
「……黎華。次は君をもっと教えてくれ」
「ん……」
尹馨が寝台の上に膝を乗せて、身を屈めた。
皆が見てる前だったが、それすら構わずに黎華に口づけたのだ。
そして黎華も、拒みもせずにそれを受け入れていた。
「――またお会いしましょう」
尹馨はそう言い残して、黎華の室を出て行く。
黎華は彼の青い髪紐を握りしめながら、去っていく背を見つめていた。
その日、体調を崩したと表に知らせた姫は、誰の面会にも応じずに室内に籠っていた。
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