02.噂話

 水晶宮から東へ、五、六里ほど(※約20㎞)離れた場所に位置する街の酒場で、一人の青年が盃を片手に窓辺から外を眺めていた。

 夕暮れを背景に遠くに揺らめく水面を見ながら、目を細めてほぅ、と息を吐きこぼす。

 その光景が絵になるのか、遠巻きに女性給仕たちがため息を零していた。

 腰辺りまである見事な黒髪を後ろの低い位置で束ねていたその青年は、大層な美男子であったのだ。

 女性たちはどうしてもその青年が気になるのか、その場にいるすべての者が一度は彼をちらりちらり、と見ている。


「お客さん、こちらは初めてで?」


 茹でた豆を小皿に入れて運んできた給仕の男がそう言った。

 青年はその男が卓の上に皿を置くのを見届けてから、静かに「ああ」とだけ答える。

 そして手にしていた盃を口へと運び、喉を鳴らした後再び口を開いた。


「……ここから見る夕暮れは、美しい」

「そうでしょうそうでしょう。名物の一つなんですよ」

「遠くに見える、あの島のような影は?」

「ああ、あれは『水晶宮』ですよ。仙人様がお住いだとかいう霊峰です」


 給仕の男の言葉に、青年は僅かに肩を揺らした。

 微細な動揺であったが、給仕には感じ取れないほどのものだ。


「……お客さん、あまりこちらにはお詳しくないので?」

「数日前に到着したばかりでな。流れの剣士をやっている」

「おお、剣士様でしたか」


 青年の言葉に釣られるようにして、給仕の男は彼のひざ元に置かれている剣へと視線をやった。

 その視線に気づいた青年が、自嘲気味に笑いながら鞘部分を掴んで彼の前に差し出して見せる。


「無銘の剣だ。あまり価値はない」

「いやはや……凡人の私にはよくわかりませんが……それでも、使いこなせているのはわかります」

「そうか」


 青年は小さく笑って、盃にまた酒を注ぐ。

 剣はまた傍に降ろして、外の景色へと視線も移動させた。


「……ああ、そうだお客さん。もし水晶宮のほうへと向かうのでしたら、お気を付けて」

「なぜだ?」

「いえね……あそこにはかの有名な巫の姫さんがいらっしゃるでしょう。最近は周りの権力者が騒がしくてね。見受け志願者が増えているんだとか」


 男の話を遠くで聞きながら、青年は「ほぅ」と答えて続きを促す。


「噂通りの美しい姫さんですから……一度見た者はその美しさに囚われて、忘れられないそうです。まぁそれで、少々小競り合いなども起こってるらしいのです」

「……誰が先に見受けするか、という事か」

「最初はまぁ言い争いだけだったんですがね、最近は物騒になりまして」

「まさか、殺しか?」


 青年がそう言ったところで、給仕が詰め寄ってきた。あまり大きな声で話す内容では無いからだろう。そして手のひらを添えて「それです」と囁いてきたのだ。


「どこぞ名家の息子さんが、夜に斬られましてねぇ」

「それは確かに物騒だ」

「今代の姫さんはまさに『傾城傾国』ですよ。毎日変な噂ばかりここにも流れてくるくらいですからねぇ」


 男はそれを告げた後、他の客に呼ばれて離れていった。

 青年は時たま運ばれてきた豆を摘まみつつ、変わらず盃を傾けている。

 耳にした巫の姫の話を、脳内で反芻しているのだ。

 存在そのものは知っている。

 姫がその場に縛られていることも、その理由も、権力者たちがこぞって通う理由すらも。


 ――そして、少年であることも。


「水晶宮……。霊亀レイキのご機嫌はまだ晴れぬという事か……」


 ぼそり、と盃に零すようにして独り言が漏れる。

 夕餉の時間帯でもあって、周囲は喧騒に紛れている。この中では彼の呟きを拾えるものは居ないだろう。


「どんなに金と権力を振りかざそうとも……あれは誰の手にも入らないのにな」


 続けてそんな独り言を漏らすと、口の端が上がった。

 そもそも、巫覡は娼妓とは違う。今代が頻繁に男を通わせている為に勘違いを起こさせているのだろうが、その男たちが最終的には泣きを見るという事は明らかでもあった。


「……愚かだな」


 笑っているのか、と自分で心に問いかける。

 水晶宮の巫覡を、それとも自身を――。そこまで考えて、思考を止めた。


『余力があるのなら、雨桐ユートンを――いいえ、ジンを助けて。いっそのこと、攫ってしまって』


 ――あなたはきっと、あの子を好きになるから。


 過去にぶつけられた言葉を、鮮明に思い出す。

 言葉の主は美しい少女だった。訳があり男装をしながら術士として今もどこかを放浪している。

 彼女との邂逅は僅かな時間であった。そんな少女との『約束』を、青年はいよいよ果たさねばならないようだ。


「…………」


 少女は泣いていた。

 その姿が、記憶の片隅でずっとこびり付いている。

 自身も辛い境遇であるはずなのに、ずっとかの『姫』たる存在を気にかけていた。


「……いい加減、その美姫とやらを拝みに行くか」


 どのみち、この青年の最終的な目的地は水晶宮なのだ。

 自分の呪いを解くため――巫覡に会わねばならない。

 だが、そう簡単には対面できないだろう。権力者たちが表立って争いを始めている以上、雇われの暗殺者などもいるかもしれない。

 行くのは容易い。

 自分の力量であれば、どんなに堅牢であっても突破は簡単にできる。それは過信などではなく、青年にとってはやはり『容易い事』でしかないのだ。

 だがそれでも、少し遠回りをしてみたいと思ってしまう。

 姫に会う手段を、回りくどく人間臭い行動で実行してみたいと考えてしまうのだ。


「やれやれ……すっかり毒されたか」


 そう言いながら、苦笑する。

 青年は片手に収め続けていた盃を卓の上に置くと、その隣に金子きんすを静かに置いて立ち上がった。

 ――その、直後だ。


「……そういえば、翠泉楼の酒蔵が夜盗にやられたって?」

「あそこの酒は、水晶宮のお偉いさんへと献上してる上等モンだろ。警備もすごいって聞いてたが」

「最近、どこから湧いたのかならず者が増えたじゃないか。あっちのお偉いさんたちが、手練れであれば身分も厭わないなんて御触れを出しちまったもんだから、妙な輩が出てきてるのかもな」


「…………」


 物騒な話題が耳にとまった。

 この場より一町先に行った高級宿が、確かそんな名前であったかと青年は考える。


 ――毎日変な噂ばかり。


 先ほどの給仕もそう言っていた。

 巫覡の姫を中心に、小さなよくない事が頻繁に起こっているのだろう。


「すまない、ここの主人と話がしたいんだが」


 青年は片手をあげて先ほどの給仕を呼びつけた。

 その数分後、裏手へと回った彼はより詳細な情報を得るために、宿の主人からの話を聞いた。

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