奪われた子⑷



 國久は昨日と同じように、マーキュリーの後について古文書店の中に入った。

 そしてこれも同じく、マーキュリーは妻に店番を頼んだ。昨日と違うのは、妻の雰囲気で昨日よりも少しすっきりとした顔をしていた。妻は國久に「よろしくお願いします」と、昨日には無かった笑みも携えて言った。


 それから、國久達は店舗から居住スペースへ通りぬけて、そこからまた2階に上がった。

 昨日はここでクロエと遭遇し、事件が一つあったが、今回は何事もなく、マーキュリーは『クロエ』と書かれたネームプレートが取り付けられている扉の前で立ち止まり、一度國久がついてきていることを確認してから扉を開けて、中に入った。


 その部屋は、ベッドと大きな勉強机、本棚がおいてある部屋であった。が、整理整頓が行き届きすぎており、クロエ──活発な5歳の子供の部屋にしては不相応という印象を受けた。


 しかしそれにしても、マーキュリーが子供部屋を案内する理由が國久にはわからなかった。昨日はクロエがこの部屋にいるからという理由で案内したのだろうが、今回は違う。

 大人が話し合いをするだけの場にしては不釣り合いに感じた。下階のリビングにはきちんとテーブルと椅子があったため、この部屋の他に相応しい場所がない、というわけではないはずだった。



「申し訳ありませんが少しだけこちらでお待ちください。用意するものが──ああ、お茶などは如何ですか?」


「いや、結構。喉は渇いていないからお構いなく」



 國久は嘘をついた。

 本当は先までの緊張で喉がカラカラに渇いていたが、ここまでのマーキュリーの行動を警戒した國久は、お茶を出されても毒物混入の危険があることを恐れて、出されたものは何も口にしないと決めたのだった。



「どうぞ、その椅子にでも腰掛けてお待ちください。すぐ戻りますので」



 マーキュリーはそう言って部屋を後にした。

 彼が一時部屋を出てから、國久は部屋を見渡した。

 相変わらず、歳不相応に思える。

 しかし、それはクロエが真に両親から大切にされている証なのだ、と國久は考えた。──それは悪く言えば過保護になるのだが、それにしては、クロエに昨日途中で帰ってしまった國久を探しに行かせていたこともあるし、少し違う。


 國久は部屋を見渡しながら、大きな本棚に注目する。

 本棚には百科事典や図鑑、絵本、児童文庫、その他背表紙のみの状態ではどのような本かわからないタイトルが書いていない本があった。どれも恐ろしいと感じるほど保存状態が良く、本の傷みが一切ない。

 これも古文書店のマーキュリーの手腕だと思ったが、それにしたって、"良すぎる"。こんなことができるのなら店の売り物である本も、恐ろしく美しいはずである。──が、売り物にはそんな様子は無かった。

 そして、そんな些細な違和感はさらに、國久の頭に一つの考えを浮かばせる


 ──この本の状態が良すぎるのではなく、ただ、読まれていない。


 その理由として考えられるのは、単にクロエが読まない、もしくは、読まれているが、本が傷む都度買い換えられている。


 前者はあまり考えにくい。当のクロエの言語能力がよく発達しているからということもあるが、これは単に、あのクロエが、海洋生物の図鑑を読まないわけがない。図鑑を読むからこそ、本来は形のない精霊にグロテスクなヒトデの形を取らせることが出来るのだ。


 そして後者が理由の場合、クロエが勤勉であるから本がすぐに傷む、だから買い換えると考えれば良いが、それにしても、これらの本が押し並べて新品状態であるなど、考えにくい。

 それこそ、"一回読んだら即買い換える"などしなければこのような状態にはならない。……果たしてそんなこと、"古文書を取り扱う両親"がするだろうか。



「お待たせしました」



 マーキュリーが部屋に戻ってきた。

 その声に驚き、國久はピクリと、右手の指だけを震えさせた。リアクションを最小限にするよう努めたため、國久が驚いたことはマーキュリーに伝わらなかった。

 國久は部屋の入り口の方へ振り返ると、マーキュリーは銀色のアタッシュケースを大切そうに持っていた。



「……それは?」



 直後、間を挟まずに國久は不躾に問うた。

 それはマーキュリーが見慣れないもの──これもまた"不相応"なものを持っていると感じたが故である。

 アタッシュケースの使い道は人によりけりではあるが、一般に"何か重要なもの"や"危険なもの武器"を入れる、もしくはケースそのものが危険物という固定概念があり、國久の認識もその通りであった。

 だから、1番にケースが何かを問うた。

 これには流石にマーキュリーも気がついたのか、誤解を晴らすようにへにゃりと笑った。



「い、いや、危険なものではありませんよ!そこは、安心してください」


「なら、ここに案内した理由は?下で話をしてもよかっただろうに」



 國久が問うとマーキュリーは、「あーやっぱり……」と呟いて、また笑う。

 そして持っていたアタッシュケースを両足で挟んで、降参の意を示すように両手を挙げた。



「……何かおかしいか」


「いえ、いえ。とんでもない!その……やっぱり、変に思われてしまいますよね。ありのままを見ていただきたくて、あえてここに案内したのですが、余計な心配をさせてしまったようで、申し訳ありません」


「ありのまま?」


「ええ、ササノ様はあの子──クロエの部屋をどのように思いましたか?」


「……どのようにとは」


「どうぞ忌憚なく、お話しください」


「なら、率直に。"変"だ。この状況は、あの子がおかしいのか、貴方達、親がおかしいのかどちらだ」


「……あの子は、手のかからない良い子です。本当に、本当に、手がかからない。"手をかけたことがない"んです」



 國久は、思わず「え?」と聞き返す。

 マーキュリーはその返答により、國久の誤解が僅かに解けたのだと思い、再びアタッシュケースを両手に抱え、部屋の中に入った。そして、國久の隣に立ち、共に本棚を眺めた。



「子供はとても手がかかります。乳児の頃はミルクやオムツ替え、大きくなってからは遊び相手、字の練習、本を読み聞かせる。そして、お金を使うことだって必要でしょう。壊れたものを買い換えたりとか、新しいものを買い与えたりとか……それは、ササノ様も、きっとご理解していただけると思います」


「……ああ」


「私たちも、それを覚悟して──というより楽しみにして、彼女が成長していく様子を見ていました。しかし、現実は少し違っていたんです──」


「クロエが夜泣きをしたと思って目を覚ましたら、私達が行くころには泣き止んでいました。転んで怪我をしたら手当をするところ、傷は考えられない早さで癒えていきました。部屋の片付けをしないことを叱ってから、仕方なく私たちがやろうとすると、部屋は綺麗に片付いていました」


「──それから、クロエが大好きな本は、どんなにビリビリになっていたって、本を買い直して、再びこの部屋の扉を開ける頃には、破れたはずの本が新品同然に変わっていました。それも、一冊や二冊ではありません。本棚にある全ての本が」


「そして、全ての不思議の場においては必ず、クロエがお友達と呼ぶ、光の塊があるのです。──ササノ様が、"精霊"と仰った存在のことです」


「それは、思った以上だな」



 思った以上に、あの異形のヒトデが介入している。

 クロエの能力によって引き寄せられた精霊が、これほどまでに悪さをしているとは──尤もアレらにとっては、良かれと思ってした行為である。



「……嗚呼。子を、奪われたのか」


「そ、そんなことは──いや、そう思っているのかもしれません。特に、妻は──下の子が生まれると思って、次こそはと思っていたのですが。それも、叶わなくて」


「……」


「ササノ様、勝手ながら、本題に入らせてください。これが今回、貴方様にお手紙を出した理由でございます。どうかあの子を、精霊に愛され、育てられたあの子を、"お願いしたい"のです」



 マーキュリーは國久に向かって深く頭を下げた。

 彼が出した答えについて、國久は想定していなかった。断れられることを覚悟していた。

 しかし、思わぬ答えを聞いたから、もう、すぐにでもクロエを連れて出ていこうという気持ちがあった。

 國久にとって、マーキュリー達がどうして子を手放そうとするかについては、最早どうでもよかった。

 だが、それを態度に出すほど國久も正直ではない。

 交渉が思わぬ好転を見せているから、次は何をするかを浅く考えつつも、マーキュリーには、一貫して"研究機関の長"を演じ続けることにした。



「……具体的に、何を私に願うと?残念ながら、御息女に取り憑いている精霊をどうにかしろ、奪われた子を取り戻せ、という願いには承諾しかねる。あれは"我々"の手に余る。いくら専門家といえど、神は倒せない」


「か、神?クロエについているのはそんなに凄いものなのですか」


「一度喧嘩を売られた。結果は惨敗。それでも私が無事でいられるのは、私の能力によるものだ。普通ならとっくに死んでいる」



 マーキュリーは、國久の言葉に対して淡白だった。

 どうやら、國久へのお願いとは、精霊から娘を取り返してほしいと言うものではないらしい。

 それから、マーキュリーは静かになって、國久の隣から勉強机の方へ移動した。そして、アタッシュケース開き、中に入っているものを國久に見せた。


 中には紙幣の束が入っていた。

 あまりの価値の眩しさに、國久は目が眩んだ。



「……こ、これは、どう言う意味、ですか」


「意味、ですか……。はい、切り良く"1000万"と言いたいところでしたが、こちら960万。どうかこのお金を使って、我が愛娘クロエに、あの子が生きる道を示してやって欲しいのです」


「私達は能力のことはわかりません、精霊のこともわかりません。なので、このまま私達の元にいても、私達はあの子に手をかけてやれることがないのです。ならばせめて、あの子がきちんと学べる場所に送り出し、研究を重ねてもらう方が、きっと、良いと思ったのです」



「……いや、しかし」



 國久は戸惑う振りをした。

 返事は出さないが、交渉が結ばれたことを踏まえ、次のステップへ思考を進める。箱馬車の御者へ仕事を頼み、そしてギルディアへ帰る。

 そうしてふと、クロエにどのように説明するかを考えていたが、マーキュリーの口から意外な話が出てきた。



「ササノ様、これは"クロエ自身の願望"でもあるのです」


「……クロエが?」


「目的は異なりますし、もちろん私達の目的はクロエには話していないのですが……。あの子は優しい子です。自分が"母親"の負担になると思っているのです。……昨晩、ササノ様から手紙を頂いた後、個別で手紙が来まして」


「嗚呼、そういうことか」



 ──パパ、よろしくお願いします。

 他人行儀にクロエが言っていたことについて合点がいく。そして、それからは非常にあっさりとしていた。



「……相分かった。では改めて、マーキュリーさん。ご息女のクロエさんは私──ギルディア特殊能力研究機構『アザレア』の長、笹野國久が承る」


「……あ、ありがとうございます!娘を、よろしくお願いします!」



 マーキュリーは、國久に対して深く頭を下げた。

 そして、何度も感謝の言葉を述べる。


 一方、國久は思いがけず交渉が上手くいったことに驚きながらも、昨晩、"聴力を回復させた"ことを少し後悔していた。マーキュリーの感謝の言葉を聞くたびに、ざらざらとしたヤスリで背中を撫でられるような心地がするし、さっさとこの場を離れたくなった。


 組織なんてない、これから作るのだ──

 そんなことを今マーキュリーに言ったらどうなるか、何度も考えた。

 しかし、きっと、そんなことであってもマーキュリーは、クロエを國久に預けただろう。

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