第3話
奪われた子⑴
國久は、突然、思い出したように身体を起こした。
赤き園の中であるが、時間は文字として確認ができる──早朝5時。時間を見て國久は額に手を当てた。
「……嗚呼、ずいぶん寝てしまった」
眠る前、クロエには3時間くらいで起きると話していた。その時間は國久が起きられると想定したものではなく、"銀の夜泣きに起こされる"と言うことを想定したためであった。
しかし、起きられなかったとなると、夜泣きは無かったし、身体の疲れが溜まっていたと理解した。
結局この時間までクロエを一人にしてしまったことを不安に思い、またそれについてどのように謝るかを考えながら、ひとまずは結界を解いた。
景色が白色から鮮やかに色付き、どこからか人の声も聞こえる。それにより、國久は視力と聴力の回復を確認する。そして次に、人の声の出どころ、またクロエの様子を確認した。
ベッドに腰掛けたまま、人の声の出どころを辿ると、そこには布団に包まって寝ているクロエの姿があった。
どうやら國久が寝ている間人恋しくなったらしく、ラジオを聞いていたようだった。
「……ひとまず、シャワー」
國久はそうつぶやいて立ち上がった。
ざらりとした感触が足裏にあり、思わず足元を見ると、草履も足袋も履いていない自分の素足が目に飛び込んできた。さらに目についたのは。だらりと伸びた腰帯で、腹側の結び目が全部解かれていた。背中側の結び目は解けていないから袴が落ちることはなかったものの──複雑な袴の結びを國久が寝ぼけながら解いたとは考えにくい。
それに、こういう悪戯──基いお節介をする人物は一人しかいないと思って、クロエを見やった。
クロエは、すやすやとよく眠っている。
「いやいや、待て。園にはどうやって入ったんだ?そもそも、結界の中は見えないはずで、そんな力は彼女には……あ」
クロエには無くとも、出来そうなやつ──異形のヒトデが側に居る。
國久は、結界を破るという強大な力に畏怖しつつ、しかし文句を一つ言ってやろうとクロエの髪飾りを探すも、ヒトデの姿も、他の精霊たちの姿さえもなかった。
銀のそばにも居らず、特有の存在感も感じられないことから、異形のモノ達は本当にこの場にいないらしい。
「……なんて奴だ」
明らかな悪態を吐いてしまっては、無礼を働いたと言われるため曖昧な表現に留めたが、正直なところ、クロエや銀がいなければ、國久はすぐに逃げ出しているところであった。
できれば今後は殺されない程度に良好な関係を築きたいと思っているところ、國久がクロエを"連れていく気"であることを知ったら、ヒトデがどういう反応するのかは不安の一つとなった。
しかし一先ずは、昨晩やらなかったこと──シャワーを浴びるために軽く腰帯を結び直して浴室に向かった。
途中、案の定着物に皺がついていたため、ルームサービスに電話をかけ、アイロンのレンタルを依頼した。
烏の行水と言われてしまいそうなくらいの短時間でシャワーを浴び、身体をタオルで拭いてからバスローブのみを着て浴室を出る。
すると、既に玄関にアイロンが置かれているのを確認した。
しかし、シャワー後の火照った身体ではすぐにアイロンをかける気にはならず、また、銀の身体も軽く洗うため、バスローブのままベビーベッドまで移動し、銀を抱いて浴室に戻った。
1時間ほど、國久自身の入浴の倍以上の時間をかけてかけて、銀の入浴と着替え、食事を済ませると、次は自分の食事を取ることにした。
國久の食事といっても、國久が自分のために買ったのは携帯食料であり、クロエに言わせてみれば"お菓子"であるのだが、とにかくテーブルの上の袋を漁った。
ところが、袋の中には飲みかけの水ボトル一本しか入っておらず、携帯食料ともう一本の水ボトルがなかった。これもクロエのお節介だと思い、彼女ならどこに水をしまうと考えると、備え付けの冷蔵庫の中だ。
冷蔵庫を開けてみると、思った通り。水と携帯食料、そして、牛肉ステーキが2切れだけ残っていた。
牛肉ステーキには、「お菓子だけじゃだめよ!」というメモが容器の下に挟んであった。
國久は、それを見て固まる。
クロエが國久を思って大好きな牛肉ステーキを残したことは理解したが、当の本人は──肉が嫌いであった。
暫し悩んだが、結局牛肉ステーキは冷蔵庫の中に残し、携帯食料と水ボトルだけを取り出した。
朝日をぼんやり眺めながら、つまらなさそうに携帯食料をかじった。そうして食事を至極簡単に済ませ、一服するために煙管ケースを持って、銀に一声かけてからベランダへ出た。
外は未だ日が昇りきっていないのか、薄ぼんやりとした青色の空が続いていた。
昨夕、ここで同じように煙を燻らせてから、いろいろなことが起こった。
交渉に失敗して少し落ち込み、その延長かはわからないが"飛び降りても良い"という気持ちになって──思いもしない再会があった。
失敗したと考えていたことが、全く自分の杞憂に過ぎないのかもしれなくて──、どういう気持ちでいたら良いのか、よく分からなかった。
ともあれ、取り急ぎクロエのことは両親の元へ帰さなければならない。あまり、彼女と一緒にいると自分がダメになるような気がしていた。何となくだが、クロエを"許す"ということが最初と比べて多くなったようで、それがもし彼女の能力によるものだとするなら、一緒に居続けるのは危険だと思った。
……尤も、國久が恐ろしいと感じるのは、このままクロエがいるこの地に落ち着いて、『アザレア』の結成を諦めてしまうことであった。
昨夕、"飛んでも良い"という気持ちになったのは、交渉失敗という失意の中にあったことが大きな原因であるが、それが"少なくとも自分の死に繋がる"から良かった。
しかし、クロエの能力の影響はというと、"死に繋がらない"可能性がある。
──使命と呪いのために今まで積み上げたものを捨てて、"この子の為にこの地で生きていきたい"。
そういう気持ちになることを、國久は心のどこかで恐れていた。
ただ、決してクロエの能力が結成の為にならないというわけではなく、むしろ必要な存在だとは思っている。
要は、クロエをギルディアに連れていき、『アザレア』という組織の一員として共に過ごすことは悪くない、むしろ良い。
それができれば、周囲をふわふわと漂う煙のように、悶々としなくて済むのに。
「……はあ」
煙を吐き出す。
クロエ曰く、両親は、國久に対して怒っていないとは言うが、子供の言うことを信じて交渉するのは良くはない。
昨日のことは素直に謝って、相手から交渉の話が出なければ、すぐにこの地を去る。そして、また次の行動を考える。次は、5年か10年後か──なににせよ、今の方法では効率が悪いからもっと別の方法を考える必要がある。
最後の手段として、ゼムノート王家の末妹を頼ることであったが、本当にそれは、最後の手段。
國久は一服を終える。
もう一服するかとは考えたが、着物のアイロンを掛けなければと思い、部屋に戻ろうとした。
その時、煙管の煙とは異なる、芳ばしい香りが國久の鼻を抜ける。匂いのもとを辿ってみると、下階──正確な位置はわからないが、どこかでパンを焼いているらしい。
「嗚呼、お嬢さんの朝食が必要かな……」
そう口走った瞬間、もはや"手遅れ"なのではないかと不安になるも、昨晩の間、起きると約束しておきながら結局起きられず、クロエを一人きりにしてしまった詫びということにした。
その"詫び"という気持ちさえもクロエに対する優しさと言えるし、能力の影響とも取れるのだが──國久はそれには気が付かなかった。
國久は室内に戻り、バスローブから平服に着替えた。
そして羽織以外の一張羅は自分が寝ていたベッドの上に広げて置き、羽織は椅子の背もたれにかけ、近くにアイロン台等をセットして置く。
さらに、目を覚ましたクロエが勝手に"お節介"をしないように、"銀と散歩ついでに買い物に行く。触るな"というメモを置いた。普通の服ならば良いが、一張羅を台無しにされては堪らないからである。
ベビーキャリーを装着し、銀を背負う。
そして財布と"部屋の鍵"を持って部屋を出た。
時刻は7時近くで、ホテルをチェックアウトしていく客が散見された。廊下、エレベーター、エントランスとどこを通っても國久と銀、"父親と赤子"──シングルファザーの様子は珍しく映るようで、じっと見つめられたり「大変ね」と声をかけられたりした。
別に、父親一人だろうが銀の世話をするのに困ったことはなかったため、そのような声掛けは適当に受け流したが、そう見えることについては、煩わしいと感じた。
エントランスの受付にて、クロエのことを適当に説明し、本日時間までにチェックアウトをする旨伝え、宿泊費の支払いを行なった。ここでもなにやら"ワケアリ"と見られたようで、クロエの分の宿泊費については不要と説明を受けたが、それでも人数分の支払いをした。
そのついでに、この辺にパン屋があるかを問うと、正面玄関の前の道を進み、交差点を曲がってホテルの裏側へ出ると、道路の向かいにパン屋があると教えてもらった。
ホテルを出て、受付のホテルマンが言った通りに進むと、彼が言った通りパン屋があった。朝にもかかわらず、客の数がそれなりにあった。
子を抱えていてはあまりゆっくり買い物はできないということを悟り、店前のガラス窓にて軽く品定めをしてから店内に入った。
パンの香りを嗅ぐと、携帯食料しか食べていない國久の腹が鳴いた。その欲望に従い、野菜のみのサンドイッチと、クロエのためにアップルパイとエッグサンド、それから紙パックの牛乳を購入した。
早々に買い物を終え店を出ると、ふっと不思議な感覚がする。何かに呼ばれているような気がしていると、目の前にチカチカと光る星形──異形のヒトデがそこに居た。
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