失敗⑶
クロエは、本当に相当練習したらしかった。
結局國久はほとんど手を貸すことなく、銀のおむつ替えを終えたのである。
「本当に、よく練習したんだな」
「うん。弟が生まれるはずだったの。でも、ママのお腹の中で死んじゃったんだって」
「……そうか。それは、残念だったな」
「ううん。私は平気よ。でもママが、すごく落ち込んでるの。おじさま、ママには会った?」
「挨拶はした」
「落ち込んでた?」
「まあ……、そうかもしれない」
國久が答えると、クロエは少し悲しそうに「そうよね」と言った。
國久はテーブルの上に置いてあった缶ジュースを開け、落ち込んでいるように見えるクロエに手渡した。
クロエは「ありがと」とお礼を言ってから、ジュースを飲み、またため息をついた。
かける言葉に困った國久は、どうしてクロエが國久の元を再び訪ねたのか、その理由を聞くことにした。
しかしながら、國久が聞くよりも先に、クロエが言った。
「おじさま、私に会いに来たのに、どうして帰っちゃったの?あのあとすぐに追いかけたのに……」
「え……。いや、もう会ってもらえないと思って」
「え?どうして?」
「どうしてって、それはこちらのセリフだ。私はお嬢さんを──」
「クロエで良いわ!おじさまのお名前は?パパにお手紙見せてもらったけど読めなくて。あ、"ミスター"じゃなくて、カジュアルな方のお名前が良いわ!」
「カジュアルな方……?なら、"國久"だ」
「クニヒサ、さん。わかった!よろしくね、國久さん!」
「……あ、ああ」
「それで、國久さんが、私を、なあに?」
「私が危険な目に合わせたから。お前の能力に驚いて──今も影響を受けまいと必死だが、驚いて、お前を対象にあの結界を張ったんだ。対象にして結界の中にいる間はお前の能力の影響を受けないから、そのまま、話をしようと思ったんだが……」
「ああ、この子が……」
クロエは片手でジュースの缶を持ち、もう片方の手でヒトデの髪飾りを掴み取った。
クロエの手の中で、うねうねと動く様は、やはり気味が悪いと國久は思った。
「お前の趣味か?悪趣味だな」
「まあ、國久さんったら、さっきまでそんな乱暴な言葉使わなかったのに。猫かぶりってやつなの?ヒトデさん、可愛いのに」
「……気に触るなら今後改める。私はどちらでもいい。今日は、誰かさんのせいでもう疲れた」
そう言いながら、國久はばたりとベッドの上に倒れた。
一張羅がシワになると思ったが、クロエがいる前で着替えることは流石にできなかった。
「ふうん……。この子、あんなふうに怖くなったのは初めてなの。だから、びっくりしちゃって。私がびっくりするくらいだから、國久さんがびっくりしても全然おかしくないわ?國久さんも驚いたから、私に仕返ししようとしたんでしょ?」
寝転がる國久の上に、クロエが乗っかる。
その様子はまるで猫に翻弄される人間の図であった。
他人の子相手に乱暴できるはずなく、なされるがまま。だが、クロエを直視しないよう顔に腕を乗せながら、「やめろ、噛み付くぞ」と意味のわからない威嚇をしてから言った。
「私は、もっと早くに結界を解けばよかったんだ。ギリギリでお前に怪我をさせなかったから良いなんてことはない。ご両親からしたら、私は強盗で、今は誘拐犯じゃないか」
「國久さんは何も悪くないわ?それに、パパもママも別に怒ってない。それより、國久さんが途中でいなくなっちゃって、そのことを心配してたのよ?」
「そんなことない──、ええ?」
「それで私、探しに来たの。パパ、まだ國久さんとお話しもしてないからって。あ!國久さんを見つけたらお手紙出すって、パパに言ったんだった!」
猫──クロエはぴょんと國久の身体の上から退いた。
そして、窓の方へ移動する。
解放された國久はすぐに起き上がり、二度と同じことをされないためにも、ベビーベッド横にあるの一人掛け椅子に腰掛けた。その際ベッドの上の銀と目があうと、銀はキャキャと笑った。
「……嗚呼、まったく。よく笑う子だな」
國久はふと呟いてから、クロエを見やる。
クロエは窓の外を見て、「暗くなっちゃったけど、大丈夫かしら」と何かを心配していた。
「……手紙って、どうやって出すつもりなんだ。まさか郵便配達員に頼み込むとかいうんじゃあるまい?」
「この子が運んでくれるわ!國久さん、何か書くもの、紙とペンはある?」
クロエは、"この子"と言いながら"うねうね"を見せた。
國久はそれを見て顔を顰めつつも、ホテルの一室に備え付けてあるメモ用紙とペンを渡した。
「ありがと!うーんと、何て書こうかしら。國久さんの"お家"には、銀くんっていう男の子が居ました、うーんと。これは良くないわ。銀くんは可愛いけど、ママが……」
数分間悩み続けた結果、クロエはすっくと立ち上がり國久の元へやってきた。
そして隅の方に絵を描いた紙とペンを國久に渡した。
「……なんだ、書けたのか。って、ご両親には絵でわかるのか」
「上手に書けないから、國久さんが書いて?大人はこういうの、得意なんでしょう?」
「はあ、分かった。適当にしたためるが、ご両親に何か伝えることは?」
「それなら、"今日はもう暗いから、國久さんのところに泊まっていく"って書いて!」
「……何?」
「だって、外暗いわ?だめ?良いでしょ?"お姉さん"として、"銀"のお世話もするから!」
「冗談だろ」
……そう一度は否定したものの、実際のところ國久もその気ではあった。
夕暮れ時に人攫いに遭遇するのだから、夜の安全は保証されていない。國久が付き添えば事は済むが、クロエと手を繋ぎ、銀を抱きながら古文書店に戻る気にはなれなかった。國久の能力──"赤き園"の中で守れるのは、國久自身だけだから。
國久はチラと窓から外を確認してから、「しょうがない」と、わざとため息をついてみせた。
「食費も宿泊費も、後でご両親に請求するからな」
「ええ!多分大丈夫よ!ダメだったら、私のお小遣いからちゃんと払うわ!」
クロエは無邪気にそんなことを言う。
國久には、食費も宿泊費も取る気は全くなかったが、クロエと居る時間、そして明日以降、クロエの両親と再び話ができる口実になると思えば、この思いがけぬ出費は安いものだった。
手紙は、クロエと再会したこと、その際暴徒に襲われたが無事であること、暴徒を警戒し夜道を歩くことは避けるためクロエをホテルに泊らせること、明日9時に必ずクロエを家まで送り届けること──特にクロエを帰すことについては自分を戒める意味でも特別丁寧に書き、直筆サイン、『アザレア』の印を捺してしたためた。
それから、連絡用に使うかもしれないと思って用意していた封筒がこんなところで役に立つとは……と、ある意味感心しながら丁寧に糊付けをし、蝋とシーリングスタンプの機能を施してあるサファイアの指輪で完全に封をした。
そして、差出人欄に國久とクロエの名前をそれぞれ直筆で書いた。
「まあ、すてき!本格的なお手紙ね!ねえ、國久さん!その指輪のスタンプ、私もやってみたい!」
「だめ」
「ええーやりたい!そんなにぴっしゃり否定しなくてもいいじゃない?」
「……この指輪は、何を言われようが外さないし貸さない。外すときは私が死ぬとき。そして、受け継ぐ相手はもう決まっている」
「そうなの?」
「そうなの。……さ、手紙の配達と、銀の世話を少し頼む。下の売店で何か食べもの買ってくる。食べれないものはあるか?」
「甘くないにんじん……」
「好き嫌いは聞いてない。食べたいものは?」
「特製牛肉ステーキ!」
「遠慮を知れ」
「はあい」
「適当に買ってくる。申し訳ないが、銀のことは頼むぞ」
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