失敗⑵
「おじさま、待ってー!」
ホテルのエントランスを通り、昇降機のレバーを引いた。このレバーを引くたび、今時古風な作りだと國久は感じていた。ガガガ……という音を聴きながら、しばらく待っていると昇降機が降りてきて、扉が開いた。
中に入り、レバーの位置を7階に設定しようとすると、後ろをついてきたクロエがさっとレバーの前を陣取った。
「おじさま、何階ですか〜?」
「お嬢さん!帰れと言ったはず──」
國久は口籠る。
他の客がエレベーターに乗ってきて、「おや可愛い嬢ちゃん、3階をお願いできるかな?」とクロエに言った。
「ふふ、はあい。上にまいりまぁす」
エレベーターガールでもやっているつもりなのか、クロエは上機嫌であった。
結局、その客が降りても次の乗客が6階をクロエに指示したため、國久はどうにもできずにいた。
下手に彼女を追い出せば、他の乗客達に不審がられてしまう。7階から飛び降りて、不審者からクロエを救ったと言うのに、自分が不審者扱いされては堪らないと考えながら。
そして、6階の乗客が降りた後、クロエはニコニコしながら「何階ですか〜?」と問うものだから、國久はやむなく「7階」と答えたのであった。
「7階で、ございま〜す」
「……はい、どうもありがとう。暗くなるからお嬢さんは帰りなさい」
國久はエレベーターを降りながらクロエにそう伝えて、部屋まで早足で歩く。余分に聞こえる小さな足音は、とにかく無視をするに努めた。
振り返らない、関わらない、そうでないと、彼女の"求心力"の影響で本当に拐ってしまいそうになるから。
能力を使おうかと迷ったが、この求心力を無効化するには、クロエを対象にしなければならず、そんなことをしたらまたヒトデに何をされるかわからない。
ヒトデは、少しクセがあるが"人の言葉"を使ってクロエのことを"宝"だと言うほどの惚れ込みようである。
通常、魔物は"人の言葉を話さない"。
人には聞こえない魔物の言葉を用いる。
しかし、魔物の中でも特別上位の魔物──高等種と分類される魔物のみが、人の生活に馴染み、適応し、狩りを行うために、人の言葉を使う。──つまり、彼女についているヒトデは高等種の魔物、精霊である。それに対して、今一度、喧嘩を売るなんてことは避けたかった。
ヒトデ1匹ならばまだ何とかなったが、相変わらず、クロエの周りにはキラキラと輝くもの達がいる。ヒトデを対象に取り、輝くもの達とクロエを除外して"赤き園"を展開するには、國久の体力が足りなかった。
能力を有用に扱おうとする分、力を消費する。消費した体力を補うために過度に食事を取ったり、睡眠を取ったりする金や時間が、惜しかった。
もう、クロエに時間をかけたって、どうにもならない。諦めはついているから、これ以上関わらないでくれと、國久は心底、願っていた。
そうこう考えているうちに、國久は自分の部屋の前にたどり着いた。
相変わらずクロエの気配はしている、というか、「705号室でございまあす」などと言ってニコニコと笑っている。
流石に部屋には入れないと決心しながら、自分の懐を弄り、部屋の鍵を探した。
瞬間──サーッと自分の血の気が引いていくのを感じる。それから國久は、自分がどうやって外に出たのかを改めて思い出し、眉間に手を当て、ため息をついた。
扉はオートロックで、鍵は部屋の中。
クロエを助けるためにベランダから飛び降りては、鍵を持って出ることなんてことは考えられない。
「おじさま?お部屋はここじゃないの?私、少し喉が渇いたわ?」
「……ジュースがあるだろ。それを飲めばいい」
「でも座って飲まないと、お行儀が悪いって。ママが言うわ?」
「……つくづく、お嬢さんのご両親は、正しい躾けをされる方だな」
「お部屋、入らないの?」
「……」
國久は、ここにいてもどうにもならない。
通常であれば、下階まで降りてホテルの従業員に鍵を開けてもらうのだが……、もう一度、クロエのエレベーターガールごっこに付き合うのかと思うと、うんざりした。
しかし、扉の前でまごついているのも良くなかった。
察しの良いクロエは、國久が何故困っているのかを理解したのだった。
「おじさま、もしかして鍵落としちゃったの?」
「……落としてない」
間髪入れず、否定する。
子供ではあるまいし、鍵を落とすなんていう失態はしないという意志で、國久は強く言った。子供相手にムキになっている気がした。
「あ、ひょっとして、おじさま恥ずかしいのね?大丈夫よ、後で私が言って、ホテルの人に謝るから!」
「……違う」
突拍子もないことを言われたが、強く言い返す気にもなれない。
次は蚊の鳴くような声で、否定した。
「おじさま、悲しいのっ?そうよね、すぐにお部屋に入りたいものね!わかった、私が開けるから!」
「……開ける?」
まさかこんな少女が、しかも悪とは無縁の少女が鍵あけの技術なんて持っているはずはない。
國久は半信半疑になりながら、クロエの方を見る。
クロエは扉を前にして、國久には背を向けていたが、その小さな背中にすら、手を触れたくなった。
そんな國久の思いを知らず──いや國久に限らず、これまでもこれからも、誰にも何にも対して愛を受けるであろうクロエは、ヒトデの髪飾りを手に取り、そっと口付けをした。
「おねがい、ここを開けてほしいの」
彼女が愛を囁くと、ヒトデはキラキラとした光──精霊本来の姿に戻り、鍵穴に吸い込まれていった。
そうして、まもなく、カチャンと鍵があく音がした。
鍵があき、扉が開かれる音に、國久はピクリと体を振るわせた。
「おじさま、ほら開いたわ!あら?ふふ、鍵は中にあったのね!なら、ホテルの人に謝らなくても大丈夫ね!それじゃ、おじゃましまーす」
國久は、先ほど躾が良いと評価したことを後悔する。
許可なく他人の部屋に入ることは、決して好まれることではない。しかしながら、鍵をあけてくれたことに対する報酬として、などと言われたら、クロエの行為を叱ることはできなかった。
「……はあ、次は鍵を忘れないように気をつけるよ。ひとまず、中まで入れ」
観念して、國久は部屋に入り扉を閉めた。
もはや、國久が良いと言うまで中まで入らなかったクロエに対しどうこう言う気はない。
最初から、"報酬として部屋に入るのが目的"で鍵を開けてあげると申し出た──その強かさには、感心せざるを得なかった。
「わあ!知らない人のお部屋、初めて!」
「そりゃあ、誰だって初めてだろうよ。普通、子供がこんなことしない。良いご両親に教わらなかったか?」
「ふふっ、知らない人について行っちゃいけないとは言われてるわ!あらっ?」
クロエは、ホテルの無機質な部屋を見渡しながら、ふと部屋のあるものに興味を持って近づいていった。
無機質な部屋で、他とは違い興味を惹くものといえば、國久の息子の銀であった。
「わあ、赤ちゃんがいるのね!かわいい!」
ベビーベッドのそばに立って、喉が渇いたと言ったことも忘れて、クロエは銀の存在に釘付けになっていた。
一方國久も銀のこと気にかけベッドの方へ移動した。
相変わらず、國久を見つめてキャッキャと笑う。思いがけず一人にしてしまっていたが、特別問題はなさそうであった。
「おじさまもパパだったのね?お名前はなんて言うの?男の子?女の子……いや、男の子ね!当たりでしょっ?」
クロエは銀が笑うのを嬉しそうに見つめていた。
そして、銀がクロエの人差し指をきゅっと掴むと、さらに嬉しそうに笑った。
「……当たり。名前は、銀だ」
「銀くんっていうのね!ふふ、かわいいな〜!」
クロエは銀の頬を優しく突いたり、何度も名前を呼んだり、精霊たちを使ってあやしたりしていた。
國久はその様子をベッドに腰掛けて静観しながら、如何にしてクロエを家まで帰すか、そしてクロエがどんな目的で再び國久の目の前に現れたのかを考えていた。
すると、クロエにあやされて上機嫌だった銀が「ふえ、ふえ」と声をあげて泣き始めた。
「あ、おじさま……、銀くん泣いちゃったわ!ど、どうしたのかしら?」
「……多分おむつだろう。お嬢さん、座って待ってろ。ジュースを飲むんじゃなかったのか?」
國久は立ち上がり、替えのおむつとウェットティッシュを用意した。
「おじさま!私がやってもいい?たくさん練習したから!ね、おねがい!」
國久の着物の裾を強く引っ張り、クロエは要求した。
下の子が、"流れてしまって"──
クロエの父親マーキュリーから聞いた言葉を國久は思い出した。クロエが"練習した"と言うのも、生まれてくるはずだった弟か妹のためだろう。
「……じゃあ、頼めるか」
他人の子に自分の子の世話を任せるなんて、どうかしているとは感じたが、クロエが嬉しそうに「まかせて!」と言うのを聞くと、國久はどうでも良くなった。
ただまあ、一応親の責務として任せきりにはして置けないから、そばで見守りながら苦戦するようであれば手伝うことを決めた。
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