耽溺の少女⑵
その出来事は、つい数月前の話。
國久が"銀"と名付けた乳飲児の兄は、ベビーシッターを雇い、ホテルで世話をしてもらっている。
ギルディアを遠く離れたこの地で、寝る間も、赤子に愛情を注ぐ間も惜しんで、國久は箱馬車に乗り、とある場所へ向かっていた。
御者が言ったギルディアの"研究所"の噂──
梓と共にした5年間は、ただ単に跡継ぎを作ったり、梓の学問を手伝っていただけではなかった。
國久は、ありとあらゆる場所や人に、宛てて手紙を出していた。それが、"ギルディアという辺鄙な村に能力者に関する研究をしている高名な学者組織がある"という──それが、噂の正体である。
とにかく手当たり次第に、協力依頼を出した。
ただでさえ、受け手にとっては聞いたことのない組織からの手紙であるから、信用がない。
そのため、魔物退治ではもっと人が集まらないだろうと考え、"我々は、能力者の研究機関である"と、銘打って送り続けた。
その5年間の集大成が、この箱馬車の向かう先──"マーキュリー古文書店"であった。
5年間で、たった1通の返信だ。
──ぜひ、我が娘にお会いいただき、能力の研究をしてもらいたい、との内容だった。
"ギルディア特殊能力研究機構『アザレア』"
殆ど偽りの組織長として、死装束にするはずだった一張羅を着込んで、手紙の送り主の元へと向かっている。
國久は手紙を握り締め、今一度住所を確認した。
御者に伝えた住所に偽りはない──というより、手紙の送り主である"マーキュリー古文書店"という場所はこの国では有名らしく、その名前を伝えただけ、正確な住所を伝えるまでもなく、御者は箱馬車を走らせた。
「お客さん、もうすぐ着きますよ。代金は……、ええとホテルからだからこのくらい、かな。紙に書きましたんで、ご確認とご用意願いますね」
御者に言われる通り、國久は運賃を支払い、降車の用意をした。まもなく箱馬車が止まり、御者の手によって扉が開かれた。
「ああ、お待ちしておりました!」
馬車を降りるとすぐに一人の男が國久の元へ駆け寄って、恭しく礼をした。
「ササノ様……ですよね。ええ、此度は大変名誉なお手紙を頂きまして誠にありがとうございます。私、こちらの店で古書店を営んでおります"マーキュリー"と申します。ささ、立ち話もなんですから、中へどうぞ。……ははは、汚い店ですみません」
「……」
マーキュリーと名乗った男に早速案内されながら、國久は店の中へ入った。
古書特有の湿ったような匂いが、國久の鼻を抜ける。
本棚にはいっぱいの古書が整然と並んでいた。古書とはいえ、どれも手入れが行き届いており、御者が住所を伝える前に案内してくれた理由がよくわかる。おそらく、この国で一番、評判の良い古書店らしい。
舐めるように本棚にある本を眺めていると、"Azusa Miyafuji"と名前の入った天文学書があった。
──あれは2冊目。確か2ヶ国語で自費出版した。
本を横目で見て、そんなことを思いながら、さらに本棚の道を進んだ。すると、少し開けた場所にレジがあり、そこにはマーキュリーの妻らしき女が立っていた。そして彼女もまた、國久に対し、恭しく礼をした。
「ああ、こちら家内です。……"クロエ"は部屋にいるのか?早速見てもらおう」
「ええ、あなた。クロエはいつもの通り、部屋で本を読んでいます。今日も"お友達"が来ているみたいだから……、見ていただくにはちょうど良いかと」
「ああ、そうか。それじゃあ店番を頼むよ。……と、ティーセットは台所にあったか?」
「はい。すぐに出せるよう用意してありますわ。……それでは、ササノ様、どうぞごゆっくりしていってください」
マーキュリーの妻は再び恭しく礼をし、レジ前の椅子にゆっくりと腰掛けた。國久の目には、彼女が少しだけ暗く沈んでいるように見えた。
「クロエ……ああ、いえ、今回連絡させてもらったうちの娘は部屋にいるそうです。散らかっていて大変恐縮ですが、部屋までご足労いただけますでしょうか」
「……ああ」
店の奥へさらに進むと、書店の倉庫らしき場所があり、さらに底を抜けると一風変わり、より生活感が増した。
ホテル暮らしが殆どであった國久にとって、この生活感には懐かしさを覚える。そのためか、じっと家の景色を眺めてしまっていた。
そんな國久の様子を受け、マーキュリーは少しはにかむ。
「……ははは、本当にお恥ずかしい。娘の部屋は2階です」
マーキュリーは意味もなく手を振り、リビングの様子を國久から隠そうとしていた。
その様子を察し、國久は「失礼、"家庭"が少し珍しいもので」と謝罪を述べた。
マーキュリーの案内で、國久は2階へと進む。
道中、ふいに國久の方を振り返ると、少し申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「家内の態度が少し悪かったように感じるとかもしれませんが……、ご容赦ください」
「いや、その様には見えなかったが……何か原因が?」
特に態度が悪いとは感じなかったが、何となく、マーキュリーの妻の沈んだ雰囲気が、國久は少し気になった。
女の気分が沈んでいる様子というのは、つい数ヶ月前によく見ていたためである。
「ええ。最近、下の子が流れてしまって。男の子だったのですが……以来、あんな感じで。私も支えているつもりなのですが、この通り家事も上手くできなくて、情けない限りですよ」
「そうか。大変な時期に約束を取り付けてしまった、申し訳ない」
「……いえ、とんでもない。一応二人で話し合いました。家族に新しい流れを作って、流れに乗って前に進むという思いで、貴方様とお会いすること……正確にはクロエを貴方様に見てもらおうと決めたのです。……ああ、すみません。これではせっかく来ていただいたのに、まるで利用しているようで」
「いや、別に構わない」
──互いを利用するなんて、考えていることは私も同じだ。
思わず口から出かけた正直さが抑えられる。
國久の頭には、梓の顔と、先程の沈んだマーキュリーの妻の顔が重なるように浮かんでいた。
その時、國久とマーキュリーの横をふっと淡い光が横切った。
その光を目撃した瞬間──その光が単なる見間違いではなく"精霊"という、姿や形を纏わない魔物であることを認知した瞬間、國久はザッと羽織の下に隠していた短刀に手をかけて身構えた。
一方、マーキュリーは國久が突然身構えたことに驚いていたが、精霊に対しては特別驚かなかった。
それどころか、「あぁ、今日は青色か。綺麗だなぁ」と、さも家の中に魔物がいることが当たり前かのような態度を見せた。
「……マーキュリーさん。この状況は、あまり好まれたものではない。精霊は、美しいように見えて魔物を呼ぶし、生み出す」
「そ、そうなのですか?しかし、これは──」
マーキュリーが何かを言いかけたが、國久はそれに気が付かず、目の前にいる精霊を退治しようと短刀を抜いた。
すると──
がちゃんと、廊下の先にある扉が開かれた。
それと同時に、國久の"想い"が思い切り、身体ごと引っ張られた、そんな感覚があった。
思わず、能力を発動する。
中途半端な発動であったから、マーキュリーと、精霊と、開いた扉から出てきた"たくさんの精霊を身に纏った少女"を巻き込んだ。
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