そのときまで
①
*過去に一度公開して、その後消したやつです。
ここで再掲。
全部終わりにしよう。今、ここで。
対人関係や社会の理不尽、取り巻く環境。それら全部が、俺にとってはもはや悪にしか見えない。何をやっても上手くいかず、悩み抜いたところで答えは出ず。そんな生活に嫌気が差した。
一度背後を振り返る。誰にも見られてない。
眼前に広がるは生い茂る樹海とその先にあるビルの群れ。しかし高度で言えば、視界にある超高層ビルより俺の方が高い位置にいる。全てを見下ろせる山から突き出た崖の先端部。一歩踏み出せば、それはもう願い通り自らの人生に終止符を打つことになる。
さて、誰にも見られていないことだし、さっさと飛んで終わりにしますか。もう日も落ちかけてる。遺体が見つかるのは早くとも明日だろう。
若干前傾姿勢になり下を覗き見る。結構高さあるな、なんて感じながら目を閉じた瞬間。
「待って!」
突如背後より響いた声に思わず肩が跳ねる。もしかして見られていたのか? しっかり確認したはずなのに。
無視して飛び降りたい衝動と背後を振り向きたいという欲求がせめぎ合う。まあ、飛び降りるのはぶっちゃけいつでも出来るし、ここは適当に邪魔物をあしらって退避するとしよう。
「……え?」
振り返り、声の主を確認した瞬間、俺は飛び降りる気が一瞬で失せた。それは俺が一瞬の鳥になるのを阻止した存在が、とても人間と呼べる容貌ではなかったからだ。
「なに、これ……」
「はぁ……よかった……」
息を切らしながら、何かに間に合ったみたいに安堵の声を漏らす。
その存在は、決して現実にはあってはならないもののように思えた。声は、普通の女性の声。少し若いかも。しかしその姿には、輪郭という概念が存在せず、人の姿に強めのぼかしを効かせたようなものだった。かろうじて遠くから見れば、シルエットだけは人間と捉えられるかもしれない。
「ねえ君」
「は、はい……」
その存在の認めがたさゆえに、敬語がまろび出てしまう。
「今飛び降りようとしたよね?」
「まぁ、はい……」
あれ、なんで俺はこんなに素直に答えてるんだろう。相手が一目見て分かるほど人間ではないから? 別に身投げを否定するつもりもないけど、非現実を目の前に突き付けられてるからか慎重さが欠けている気がする。
「やっぱりね……どうしたものか」
彼女(?)が悩ましげに嘆き、沈黙する。
十秒ほど経った頃、急に「そうだ」と何かが閃いたみたいに声をあげ、俺との距離を詰める。
「じゃあ、君は『自殺しようとしたら不死身になり、自殺しなければ寿命で死ぬ』」
「は?」
「私からの提案。というか確定事項ね。これから君の生死は私が管理します」
「……は?」
思考がパンクする、という感覚をこの時初めて実感した。
* * * * * *
「なあ幽霊」
「なぁに?」
「いつまで着いてくるの?」
「だからずっとって言ってるじゃん」
もうこのやりとりも何度目だろうか。
結局あの後、冷静さをどこか遠くに漂わせた俺は、受け入れがたい自称『幽霊』に言われるがまま、知らぬ間に帰路に着いていた。暗い大通りの脇にある歩道を歩く僕の足音だけが冷たく響いている。人とは呼べない存在を連れながら。
先ほどよりも輪郭の人間らしさが増してきたが、まだ霧の集合体と呼ぶ方が相応しい。当然その髪型や表情などは判別できる程にない。
「で、そろそろ信じてくれた?さっきの約束事」
「信じられるわけないだろ」
「私の存在は信じてくれてるのに?」
「それも仮だ。でないにしても、会話が成り立ってるんだから一応信じるしかないし」
信じるとか信じないとか、そんな個々の間で形成される曖昧な意識に、それほど大層な価値を見いだす必要はないと思う。信じるほど裏切られるのが怖いし、信じられてもそれに応えられる力も俺にはない。
人は何かあるとすぐ自己防衛に走る。それは「防衛」という名の冠をかぶって他者攻撃を正当化する卑怯で卑劣な行いを指すと言っても過言じゃない。信頼関係は、偶然利害が一致した醜い人間同士の、上辺だけの継ぎ接ぎの綺麗事でしかない。
「だけど、自殺したら不死身、とかは全く理解できん。たかが自称幽霊に、君の匙加減でそんな権限が使えるとは思えない」
漂わせた冷静さを取り戻し、家の鍵を開けて中へ入る。本来ここへ帰ってくる予定ではなかったから部屋の中は閑散としている。
「……君が羨ましいよ」
「え?」
誰からも信頼されず、誰も信じることが出来なくなった俺は、すなわち世界に取り残された人間だ。一人で生きていける人間がいない以上、俺のような欠陥品はもはや死んでいるも同然。それならただ一人彷徨う幽霊みたいになれていれば、孤独でいることに少しは格好がつく。恥さらしにならずに済む。
「君って本物の幽霊?」
「私もよく分からないけど、たぶん幽霊でしょ。ビジュアル的に」
「てことは、何か未練があったってこと?」
「あるはずなんだけどね……うん、思い出せないや」
未練があるのにそれを思い出せないなんて、あるのだろうか。
部屋の電気も点けずにベッドに寝転ぶ。一人暮らしの1DKだから真っ暗でもベッドに辿り着くまでに不便はない。
これからどうしようか。ふわふわした思考のまま結局帰宅してしまったけど、どう考えても色々おかしい。俺は何でこの状況を受け入れることが出来ているのか。今更、考えても無駄か。
眠ってしまおうと目を閉じたところで、幽霊が訊いてきた。
「君はどうして飛び降りようとしたの?」
声に反応して目を開けてみるが、すぐ無意味だと察して再び目蓋を落とす。
「抵抗するため、かな」
「抵抗?」
「そう。卑怯で理不尽な世の中に抵抗するため」
「……抵抗することと死ぬことに何の関係があるの?」
本当に分からないと言いたげな声が部屋の中心から聞こえる。
正直、俺もはっきりとしたことは分からない。科学的な因果関係があるわけではないし、それこそ思春期の反抗期みたいにやけくそになってるだけかもしれない。
「何というか、この世界で生きている価値なんて無いんだぞって、命を賭けて伝えるんだよ。やけくそになって家出する中高生みたいな。まあそこまで考え無しなわけじゃないけどな」
自分でそう言っておきながら、なら何で俺は幽霊に唆されただけで飛び降りるのを躊躇ったのか苦言を呈したくなった。
「ふぅん、そっか」
その自動音声のように感情のない声を聞いてから、しばらく会話は起こらなかった。
あの時飛び降りていれば、と後悔することになったのは、それから少し後の事。真っ暗な天井を見上げて誘われた眠気が、ベッドサイドテーブルに横たわらせたスマホの振動音によって引き剥がされた。
相手の名前を、大方予想はついているが確認する。
『
はい、予想的中。
何でこんな夜遅くに通話なんてかけてくるかな。
応答ボタンを押そうか悩んでいると、しばらく頭上に浮いていたと思われる幽霊が訊いてきた。
「出ないの?」
「出たくない」
喉を絞るように掠れた声で言う。眠くて面倒なのもあるけど、それだけじゃない。明確に、言葉を交わしたくない理由がある。
「出たほうが良いよ。メールじゃなくわざわざ電話をかけてくるってことは、今この瞬間にメッセージを伝えたい意志があるってことなんだよ、きっと」
今その言葉は、頭が痛くなる。
岩城鈴音。彼女は俺の幼馴染みだった。そう、過去の事だ。
数日前、罵声の浴びせ合いにまで発展した俺と彼女の関係の崩壊は、未だに尾を引いている。
途端に重く感じる体を起こし、恐る恐る応答ボタンを押す。
「……もしもし」
口の中が乾いていく。きっと声は震えていた。
『あっ、もしもし……?あの、
俺の携帯にかけてるんだから、そうに決まってるでしょうが。
「何の用?」
『あ、それがね……えっと……』
「早く言って。眠いんだ」
向こうからかけてきたのに、その歯切れ悪い反応が余計に俺を苛立たせる。こんなことで
『そ、そうだよね……。この前の事、謝りたくて……』
そう言う鈴音の声は、俺よりも震えていたと思う。きっと優しい人なら、たとえ電話越しだろうとその声色を聞けば許してしまうかもしれない。けど俺は違う。単に狭量なだけではなく、俺と鈴音とでは根本の考え方が違うのだと俺は知ってる。
『酷いこと言って、ごめんなさい』
その瞬間。
俺の希死念慮が再び目を覚ました。
「ごめん」
決して『俺も悪かった』の意味を込めた訳ではない謝罪と共に通話を切る。
何も考えずにベランダへ出る。塀へ無我夢中でよじ登る。
ここは賃貸マンションの五階。高さは十分。まだ息が荒い。そっと目を瞑る。
そして────。
「……え?」
訳が分からないという意識が混濁する中、目蓋を上げた俺の目に映ったそこは、俺の部屋だった。
ベッドに腰掛けてる。傍らにあるスマホは通話が切れてる。
「あはは……ごめんね?」
目の前の霧の幽霊が、申し訳なさそうに笑った。
翌朝。
俺のマンションの目の前で、車の同士の衝突事故が起こったというニュースを見た。負傷者はいなかったらしい。
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