第3話
六月六日
こうして日記を付けるようになって、もう十年にもなる。早いものだ。
今日、美佐子から手紙が来た。本当にあの子には、いつも驚かされる。心理学の勉強がしたいと言い出して、前の大学をやめて専門の大学に編入してしまった時は、本当に驚いた。
お父さんを説得するのが大変で、私は妹なんか持つもんじゃないと、本気で思ったくらいだ。
ところがあの子は、大学を変えてからみるみる成績が伸び、ついには大学院にまで行ってしまった。更に驚いたのは、アメリカ留学の話だ。あっと言う間に手続きを済ませ、まるで旅行にでも出掛けるように、向こうに行ってしまった。
もともと賢い子だったのだろう。ただ、やる気がなかっただけで。
今でも、アメリカで勉強を続けている。その傍ら、超常現象にも興味を持っているらしい。いったい、何になるつもりなのか。
あの子は、どうも一風変わっている。おまけに変に勘の鋭い所があって、あの子自身特別な能力があるのではないかと感じさせられる。
あの事を窺わせるような手紙も、最近何度か届いているし。電話では、このままだと何時かこの世は滅びるんだなんて、妙に予言的な事を口走ったりして。
時々、あの子が薄気味悪くなる。
あの子も、早く結婚した方がいいのではないだろうか。お父さんもお母さんも死んでしまったけれど、二人して行き遅れてるのは、親不孝な感じがしてならない。
私はもう三十八にもなるのだから、今更仕方ないとしても、あの子はまだ若いのだから。
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一ページ目を読み終え、私はため息を吐いた。
姉は私より九つ離れているので、確かに十年後は三十八歳だろう。
昔から頭が良くて、真面目で落ちついてて、本当に良く出来た娘だと言われ続けて来た。私は逆に落ちこぼれで、勝手気儘に生きている。親は元々私には期待していないし、私も何かしようと思っている訳でもない。
ただ、毎日を楽しく過ごせればいい、それだけだ。
それが、この日記では大学院に行き、海外留学までしていると言う。この私が?そんな馬鹿な。
今の私じゃ、到底考えられない事だ。これは、本当なのだろうか?
私は、ちょっと考えてまた文字に目を戻した。全部読むのは大変なので、一ヵ月後に合わせる。
七月六日
いよいよ、研究も大詰めを迎えた。果たして、所長はどうするつもりなのだろう?
伊藤君は、このままだと大変な事が起きる気がすると、しきりに不安がっていた。けれど私は、そこまで悲観的には考えていない。
それは、私だって恐ろしいとは思うけれど、実際にそれを使うなんて事は、この日本ではあり得ない。
綺麗事だけでは、世界の平和など実現しないのだ。
それにこうした研究は、どの国だってしている事だ。平和国家だからと言う理由で、制限されるべきではないのではないだろうか?。
まず最初に、この国が実験を成功させ、全世界に知らしめるべきだ。そうする事によって、戦争をくい止める事が可能になるかもしれない。
今や癌もある程度治るようになり、エイズ治療の見通しもどうにか目処が付いた。たった十年の間に、次々と科学は不可能を可能にしていったのだ。
そんな時代に、この研究が行われたとしても、不思議ではないだろう。一つ間違えば人類にとって脅威となるかもしれないが、だからと言って止める訳にはいかない。これによって、我々は新しい世界を築く事が出来るかもしれないのだ。
この事は、私達しか知らない。私達さえしっかりしていれば、何も心配する事などない筈。
最初、教授に今の研究所を紹介された時、はっきり言えば乗り気じゃなかった。三流のちっぽけな研究所なんかに、どうして私が入らねばならないのかと。
それが、入ってみると、全てカムフラージュだったのだと知った。東京ではなく大阪の、それも郊外に立つ汚い研究所。まさかここで、生物兵器の研究がされてたなんて。
政府の役人のほんの一部と、私達研究スタッフしか知らない。言ってみれば、国家的秘密機関だった。
その時、私は自分の立場を知った。怖いとか、許されないとか、そういう常識的な事は正直考えなかった。
教授は、仲介者だから何も知らない。でも国は、私を必要としてくれたのだ。殆ど自己満足的な欲求を、その答えが全て満たしてくれた。
私は、選ばれた人間なのだ。
美佐子は、正義感の強い人間だ。だけど、融通がきかない。正義は正義であって、そうでない所からも正義が守られる事もあると、認めようとはしないのだ。
しかし私は、これこそ正義だと信じている。これで世界が変わるなら、私が世界を変えた一人になる。たとえ美佐子が許してくれなくても、もう後戻りは出来ない。
これが完成するのは、もう時間の問題なのだから。
一番注意しなければならないのは、スパイと裏切りだ。その為に安井君は、消されてしまった。
いや、邪魔する者は、この手で始末したっていい。私の、全生命を賭けた研究なのだから。
美佐子は、本当に気付いているのだろうか?もしそうなら、私は決断しなければならないかもしれない。そんな事を考えている私に、時々ぞっとさせられる。
私は、狂っているのかもしれない。
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————生物兵器。
その言葉に、背筋が寒くなった。姉は、そんな恐ろしい物を作っていたのか。いや、これは未来の事だから、作ろうとしているのだ。
姉が臨床生物学を勉強し、そうした関係の研究所に通っているのは確かだ。大学の教授に頼まれた為、断るに断れなかったと零していた。
ところがそこで、そんな怪しげな研究をしていたなんて・・・。
あのニコニコと優しい顔の裏に、こんな秘密があったなんて考えてもいなかった。それともあの姿こそ、姉自身が考え出したカムフラージュだったのか。
安井という人が、その研究の為に消されたとある。殺された?あまりに非現実的過ぎて、私には理解出来ない。しかも姉は、私まで危険と思っているらしいのだ。
決断するという事は、私を殺すと言う事?実の妹まで殺さないといけないほど、その研究は大切なのだろうか?
たった一ヵ月前には、私を心配していた。それなのに、そんな短い間に考えが変わってしまったなんて。私には、信じる事など出来ない。出来る訳がない。もしそれが本当ならば、まさしく姉は狂っている。
それでも私は、日記を読みつづけるのを止められなかった。震える手で、キーをそっと叩く。
八月六日
所長は、何故発表しないのだろう。政府はどういうつもりなのか。全て整ったと言うのに、少しも世界に向けて公表する姿勢が見えない。
戦争は、どこかで相変わらず続いているし、日本の立場だって危うくなろうとしているのに。
今度の戦争にアメリカが介入すれば、日本は益々窮地に立たされるだろう。今までのように、ただ見守っているだけという訳にはいかない。各国は、声を揃えて兵士を要求しているのだから。
そうなると、憲法を改正するしかないだろう。議員側には、日本の参戦を求める声が、日に日に多くなっている。もし今この国が参戦すれば、間違いなく私の研究は、多くの人の命を奪う事になるだろう。
それでは、何の為に今までやって来たのか。安井君も消され、私も罪を犯してまで守ろうとしたものが、何の意味もなくなってしまう。
まさか彼らは、それを待っていたのでは?
参戦して、この恐ろしい兵器の威力を、実際に試そうとしているのか。世界の頂点に立つ為に。
それだけはいけない。もしそうなら、私は全力で阻止する。
ああ、そうなのね。美佐子、あなたは知っていたの?何時かこうなる事を。
あなたは、まるで偉大な予言者のように、全てを見通していた。もしかするとあなたは、神がこの世に送り込んだ使徒だったのかもしれない。
あなたは、何時も私に研究から手を引くように求めていた。今ならまだ、恐ろしい事にならずに済むと。
あれほど私に忠告してくれたのに、私は全く聞く耳を持っていなかった。自分の事だけしか、考える余裕が無かったの。だって、これは私の命、私の全てだったのだから。
そんな大事な研究を、抹殺するなんてとても出来なかった。けれどそれは、今まさに世界を抹殺しようとしている。
私は、人類にとってのユダだったのだろうか?金と名声の為に、そして自己満足の為に、自分の心を売ってしまった。取り返しのつかない、恐ろしい事をしてしまった。
美佐子、あなたはまるでユダに対するイエス=キリストのように、私に忠告し機会を与えてくれていたと言うのに。
私は、それを撥ねつけてしまった。
今すぐ、あなたに会って謝りたい。けれどあなたは、私の前から姿を消して、今何処に居るのかも分からない。
姉さんが悪かった、お願いだから戻って来て、そして私を助けて。
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悲痛な叫びが、文字から滲み出しているようだった。それは、機械的で平坦な文字でしかないのに、姉の意識がそこに溢れていた。
事の成り行きに、唖然とする。
姉が、私に助けを求めている?何時も冷静な、あの姉が————。それも、私をイエスにたとえているのだ。
まさか・・・・。
この日記に記されている事は、何一つ信じられなかった。しかしこの日記の世界は、間違いなく滅びに向かっている。
それでは——————。
想像して、背筋に冷たいものが走った。
それではここは、既に滅びた後の世界なのでは。
生物兵器とは、いったいどんな物だったのだろう。この世界から、生き物だけを消してしまう物なのだろうか。
そして、この世界の私は、いったいどうなってしまったのだろう?
姉の日記では、姿を消したとしか記されていない。この時私が、何処で何をしているのかなんて、想像も出来なかった。もしかしたら、姉ではない研究所の誰かに、殺されてしまったのかもしれない。
はっきりとした事は分からなかったが、姉だけは精神的に追い込まれている様子だった。
九月六日
日本政府が、参戦に向けて急速に動き出した。来月から、憲法改正の臨時国会が開かれる事になった。恐らく、国会は難航すると予想されている。その為、すぐに参戦とはいかないだろうが。
野党側は、断固阻止する態勢だし、反戦デモもあちこちで見られるようになった。今動けば、アジア諸国からの非難も、一層激しくなりそうだ。
全て、あの研究のせいなのか?あれを手にしているから、政府は参戦の方針に踏み切ったのかもしれない。あれさえあれば、敗戦するなんて考えられないから。
どうすればいいのだろう。どうすれば、この悲劇的出来事を食い止められるのだろう。
そう、ひとつだけ方法はある。所長と私との意見は、日に日に食い違っていくけれど、まだ時間は残っているのだ。
この国が参戦する前に、私がそれを実行すれば、この国を守れる筈。いや、世界さえも。
私は、今でも研究所に出入りが出来る。まだ、奴らに信用されている。私の心境の変化には、誰も気付いていない。政府にとっての、要注意人物にはなっていないのだ。
伊藤君が問題を起こしてくれたお陰で、私にまで目が届かない。
心の中の正義は、それをすべきだと告げている。彼らにとって、裏切り行為とも言えるその行為を。
そうだ、私がこのプロジェクトのチーフである限り、一切の責任を取らねばならないのだ。
方法は、一つ。所長以下、チームのスタッフを全員抹殺し、書類を全て焼き払えばいい。まずは、サンプルを処分しなくては。あれはまだ増殖していないから、簡単に始末出来るだろう。
私がやらなければ。人類の為に、美佐子の為に。あの子も、きっとそれを望んでいる筈。
姉さんは、きっとやってみせる。あれが、兵器化される前に、きっと。私の、この命を賭けても。
美佐子、どうか私を許して。あなたの恋人を殺し、あなたまでも殺そうとした私を。早瀬さんは、今私がしようとした事を、あの時しようとしただけなのだから。それなのにあなたは、私を責めなかった。分かっていたと、そう言っただけだった。
あなたには、全てが見えていたのよ。みんな、あなたの言う通りだった。
あなたは、もしかしたら神の子なのかしら。それならば、これがあなたに償う為の最後の手段。
ああ、神よ、私をお許し下さい。美佐子、どうか私を許して。そして、姉さんも一緒に天国まで連れてって頂戴。きっとあなたは既に人の子の姿から、光輝く天使の姿に変わっているのではないかしら。
だから、私の目の前から姿を消してしまった。出来るのなら私は、死ぬ瞬間まであなたの為に祈り、あなたの為に行動します。
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姉は、可哀相な人だ。
姉の日記の世界に入り込んで、私は虚しさを感じていた。
私は神の子ではないし、天使でもない。恐怖や混乱以上に、深い悲しみを感じた。
姉は精神が錯乱し、それから脱する為に、私というものを信仰し始めたのではないだろうか。人間を越えた存在に仕立て上げ、すがりついている。罪を忘れる為に。
この日記を残した姉が作り出した信仰物は、現実のものではない。ただの人間だ。私にはよく分かっているだけに、哀れだった。
十月六日
やった、私はついにやった。サンプルも書類も、全部処分した。そしてスタップ数十名が中にいるまま、研究所を爆破してやった。
表向きは目立たない三流研究所なのだから、国民は誰も注意など向けまい。今は、もっと大きなビルが、ゲリラによって爆破されているのだから。焦っているのは、政府の馬鹿どもくらいだ。
美佐子、姉さんはついにやった。残された仕事は、私自身の始末だけ。すぐに行くから、私を温かく迎えてね。あなたは、私を見て喜んでくれるかしら?喜んでくれるわよね。あなたとの約束は、ちゃんと果たしたのだから。
今までの私は、愚かだった。でももう迷うまい。あなたを悲しませるなんて、もう二度としないのだから。
全てを見通しているあなたは、この時が来るのも知っていた筈よ。だから、私を責めなかったのだわ。
私は、人類を救った。その使命を帯びる為に、この世に生まれて来た。
美佐子、あなたを愛しています。姉さんは、やったの。隠れてないで、どうか私に姿を見せて。そして早く、あなたの世界へ連れてって。
今の私には、あなただけなの。私はあなたの使徒、あなたの崇拝者、あなたが偉大なる神の子である事を、私だけが知っている。それは、あなたの姉である私だけが与えられた特権。
神よ、感謝します。このように、恵まれた待遇を受けて育った事を。
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・・・・・私の恋人を殺し、私も殺そうとした。その罪の意識から、姉は私を崇拝するようになった。
狂っている。完全に頭が奇怪しい。覚えているのだろうか、その悪魔のような物を、自分が作り出したと言う事実を。
なのに、記憶を何時の間にか消し去って、正義の使者になったつもりでいる。私を神の子にする事で、責任を逃れようとも・・・・。
愚かな偶像崇拝だ。
思わず目を背けたくなるような姉の賛美は、ただ気持ち悪いだけだった。真実を見ていない。人を殺す事に、何の罪悪感も感じていないではないか。
私の為、人類の為と、むしろ誇らしげだった。死んだ人達の中には、罪のない人達だっていたかもしれないだろうに。
私は、そこに妄信的なものを見た。信じるものの為に、平気で人を殺してしまう。歴史の授業で習った、様々な戦い。
この日記の中にいる姉は、まさしくそれと同じだった。
もしそれが人類の為に必要だったとしても、罪悪感だけは感じて欲しい。人ひとりの命も、全人類の命も、同じくらい大切なものだと思う。
この考えは、間違っているだろうか?
子供の頃、テレビで戦争の場面を見る度、私は激しい震えに襲われた。怖さと言うよりそれは、怒り。あっけなく死んでしまう人を見て、やり場のない激しさを感じたものだ。
奇怪しい、あれは絶対に奇怪しい。人が、あんなに簡単に死んでしまっていい訳がない。
・・・・・戦争を知らない私の、戯言なのだろうか?守る為に殺すのは、当たり前なのだろうか。そこには、私には計り知れない、そこだけの常識があるのだろうか。ただ若い時の、潔癖な情熱に過ぎないのだろうか。
私は、思い悩んだ。どうしても、納得がいかない。
姉は、自分を守る為に壁を作った。そうしなければ、これから生きていく事さえ出来なかったのかもしれない。姉の弱さを、私が責める権利はないが。
けど、けれど・・・・・。
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