6. コミュ障ぼっちは弱音を吐かないし、吐けません。吐いた弱音は面白おかしく脚色されて拡散し、周りから馬鹿にされてもっと嫌な思いをします。

 弱音よわねを吐いても、世の中には救いの手を差し出されない人もいる。

 僕はこの日、放課後のトイレの個室ですっかり弱気になってしまっている自分を、この言葉で、これ以上弱気にならない様、おにきょうかんの様に現実を自覚させて励ましたのであった。

 今日何があったのか。気が滅入めいりながらも、一日を振り返ってみる……


 僕は、週二回はある体育の授業にぶち当たったこの日、体育が丸ごと自由時間になるという、思わぬ幸福さいわいを得て、体育館の中でみんなが友達と球技などをして遊んで身体を動かしている中、壁際の、くぼんで椅子状の形になっている所に座り、ぼけ〜っ、とその光景を眺めながら、適当に、益体やくたいも無い物思いをしていたのであった。

 僕の正面には、あみもちゃんと立てられているバレーのコートがあって、少なくとも一〇人ぐらいはいる自分のクラスメイトたちが、男女入り混じって、楽しそうにバレーをしている景色が繰り広げられている。

 僕は、いつもやる様に、ロクでもない物思いにふけっている。


 そうした時だった。


 バレーコートから、強めのシュートボールが丁度僕の方向に向かって繰り出され、僕の腹にクリティカルヒットしたのであった。

 さすがにうめきかけた。かなり苦しかった。腹を抑える。前を見てシュートを打った人を特定しようとする気さえ全く起きないぐらいの鈍い痛みが、腹に居着いつく。

 しかし、なんとかひとまず落ち着く事に成功し、ここで、どうしてこんな事になったのか考えを巡らした。おそらく、誰かがバレーの試合の途中、何かのちがいで、ボールをあさっての方向に飛ばしてしまったのだろう。特に僕みたいな運動音痴がやりがちなミスではあるが、こうしたミスは誰にでもある事だ。仕方が無いだろう、と僕は思って、腹の鈍い痛みを我慢しながら、僕の身体に当たってその辺に転がっていたボールを手に取り、バレーのコートに投げ返したのであった。まあ、たまにはこういう事もあるのだろう。僕は、あざになりそうな、不快感の残る腹をさすりながら座り、物思いを再開したのであった。


 しかし、それから数分後、同じ座り場所で、さっきと変わらずロクでも無い、どうでもいい物思いをしていた僕に、またさっきのバレーコートから、またしても強めのボールが飛んで来て、今度は僕の腕に当たったのであった。

 本当に痛かった。だが、今度も僕は「おそらく下手な人がいるのだろう。だからミスをして、僕の方に当たっても、仕方が無い」と思って、僕の身体にボールが当たった事について、向こうのバレーをやっているクラスメイトに何ら注意をすることも無く、やはりその辺に転がっていたボールをあっちの方向に投げ返した。

 流石に二度もボールが飛んで来たので、僕は、自己の危機管理は自分でせねば、と考え、さっきよりもボールが飛んでこなさそうな、もっとすみかどっこの、壁際かべぎわくぼみ椅子の方に、僕は移動したのであった。


 こうして僕は、またまた物思いを再開した。場所を変えたので、当たる事は無いだろう、安心だ、と慢心まんしんしていて、前の方に注意を向けていなかったのが原因だったのであろう、またまたボールが自分に当たり、しかも、一度目と同じく、腹にクリティカルヒットしたのであった。

 かなり、痛かった。苦しかった。声も出せないぐらいにぶい苦痛に、僕は悶絶もんぜつする。五秒ぐらい経った後、ぼくは何とか復活した。正面の試合をやっているクラスメイトの奴らは、ちくにも僕がボールを投げ返すのを待っている様であった。

 あの野郎ども……

 僕は、こうして三度も当たったのだから、流石に当ててきたバレーをやっているクラスメイトの連中に、いきどおる様な素振そぶりは見せねばならぬと思い

「××野郎、おい、気をつけろ!」

と、結構大きめの声を出して、彼らに注意をして、またしても痛みを我慢しながらボールを投げ返したのであった。


 もう、こうしてボールが自分に当たったのは三度目なのだから、体育館の中、それに球技をやっているコートの近くとかいう、こんなボールが当たる可能性がわづかにでもある所には、ちょっと精神的にはいていられない。

 ついに僕はもう、りになって、壁際のくぼ椅子いすの方からスタスタ立ち去り、愛の避難所、心の拠り所マイスイートホーム、いつも僕がこもっている精神安定所、トイレの和式個室に逃げ込んだのだった。


 僕はそこで、物思いをする。おそらくこんなにボールが一人の人に当たることはない、これは悪意のある故意こいきゅうかもしれない、と、物思いの末にこうした結論をみちびき出した。それからは、僕はひたすら、自分のクラスの人からこの様な仕打ちを受けるほどには嫌われる様になってしまったこの現状について、ごうとくと分かっていながらも、腕と腹のにぶい痛みに耐えつつ、ただただ苦悩していたのであった。

 結局、この体育の時間が終わるまで、僕はトイレでこの様などうにもならない事を思い続けて、時間をつぶしたのであった。 


 僕の弱気よわきの原因となった事件は、実はまだもうひとつある。


 五時限目と六時限目の間の休み時間。五限目が数学であったので、僕の眠気が特に高まっていた時であった。

 だから、僕はその時、やっぱりいつもやる様に、五時限目の授業が終わるとぐに、机に突っ伏していたのであった。

 僕は、そうして眠り掛けて、まだ眠りに落ちないぐらいの時、教室のどこからか、なぜか自分の名前が話されるのが聞こえたのである。その話されていた内容とは「アイツは気持ちが悪い」とか、「アレはどうしようもない×××」とか。つまり、僕の悪口がクラスの中で話されていたのであった。

 まあ、一〇年間の僕の学校生活。今までに悪口を言われた回数は数知れず。今更悪口が自分の聞こえる所で話されていたって、深刻に落ち込む事は無い。まだ、面と向かって「キモい」ととうされてしまうよりかはずっと心理的にマシである事を僕は知っている。

 それに、この様にして悪口が言われる様になったのは、自ら孤立に向かう様な行動をする事が必要だと考えて、そして実際積極的にこの様に動いてしまっていた事が、ひとつの大きな要因である。言うまでも無くその理由は、自分には意思疎通コミュニケーションの能力がけっしているからである。そうして孤立こりつしているからこそ、悪口わるくちのひとつやふたつ、言われたって、人々の義理上まあ仕方が無いだろう。しかしながら、悪口を言われたならば、誰だって、悲しくなり、弱気よわきな感情になってしまう。僕だって例外では無い。ちょっとだけ落ち込んで、このクラスの僕に対する寛容度が明らかに下がってしまっている事を、脳内の理屈の上では正直に受け止めつつも、心の中では複雑な感情がじりながら、短い眠りに入ったのだった。



 ここで、放課後のトイレに時間と空間を戻す。

 今日の一日は、こういう精神をへこませる事がふたつもあったから、僕は放課後にもなって、個室トイレに逃げ込み、落ち込んですっかり弱気になっていた精神を、こうして僕が一番心理的に落ち着く場所にいる事で、少しでもうわかせようとしていたのであった。


 こんな時、僕だって、弱音を吐きたくなる。

 だが、僕はコミュ障ぼっちである。こうした気分になったとしたら、普通の人間は、思わずそれを表に出して、弱音を吐いてしまうであろうが、僕の様な人間がこうした時に弱音を吐く事は、これ以上無い悪手あくしゅである。何故なぜなら、こうした時に、感情に任せて、僕が持っている唯一の人間関係である、繋がりの薄い友達以下の知り合いなどに相談して「心が傷ついた」とか「イジメじみた扱いを受けている」とかいう内容を話してしまうと、僕の経験上、そうした事柄が面白おかしく脚色されて、わいきょくされた噂となって学年中を駆け巡り、もっと嫌な思いをするからからである。


 秘密保持の原則なんて、知り合い程度の薄い繋がりの人間には、通用しない。


 まあ、僕とは違って救いの手に恵まれている、幸福な人間、つまりそうして弱音を吐いても手を差し出されて助けられる様な「弱音を吐く権利」「手を差し伸ばされる権利」「助けてもらえる権利」が保証されている様な人間が世の中に居る事は確かだ。そうした人間はみじめな姿をおおやけに晒したとして、助けられる何かしらの資質——見た目、雰囲気、声、対人能力、要領ようりょうの良さ、そして……を生まれながらにそなえているから、そうして救われるのである。僕が、そうした人間と同じ様に周囲の人間から手を差し伸べられて救われる、とかいう、いともハッピーな状況は、夢のまた夢である。

 僕みたいな、人間関係を構築出来る能力が根本的にけていて、愛想あいそも無く周囲にうとまれまくっている、手を差し伸べられるどころか、ひまさえあれば蹴落とされる様なロクでも無い人間が、周囲に弱味を見せたとて、その弱味がさらに強化されて、自身の周りを取り囲む環境が、さらに悪化するだけなのだ。


 よく言われる事としては、「苦しい事があれば、弱音を吐いて相談しなさい。あなたが弱音を吐けないのは『らしさ』に固執して、結局じょうばくで自分を苦しめる事になっている」という、無知な言説げんせつがある。こうした、頭の中がおめでたい神話に染まっている人も、広い広いこの世の中には当然いる訳であるが、そうした人たちは、世の中には本当に「多様な」人間がいる事を知らないから、この様な事が言えるのである。その様な言説を平気で言い放つ人間たちに、僕が弱音を吐いて、いとも惨めな姿を見せた所で、きっとこうした人たちは「うわっ!!ロクでも無い、無価値で、救う必要がないダメ人間がいる!!」としか僕の事を思わないので、結局僕に救いの手なんかは差し出されないのである。

「そいつらは助ける必要が無いが、自分たちは助けられる必要がある」という様な身勝手な感情で、救われるか否かは決定されるのだ。問題なのが、それが広く受容されている事が……いやになってしまうからこれ以上はやめて置く。

 その様な言説みたいに、全く世の中を知らぬ、無知で有毒な甘言には、今の僕の様な「ダメ人間」であっても、弱気になっている時には、往々にして信じてしまいがちで、そうして弱音を周囲に相談しそうにはなるが、僕みたいな「ロクでも無い」「周囲に疎まれている」コミュ障ぼっちの類の人間は、こうした言説には乗せられぬ様、今の様にきつい時こそ、常にこの事を念じて注意しておかねばならない。

 どんなに苦しくても励み、実地上に必要な事を、的確にす。それしか無い。何も楽しみが無く、苦痛しか無いこの世の中にあるのに生きようとする事は矛盾する様ではあるが、耐える。去る時は去るのだ。それは天が決めるのであって僕が決める事では無い。兎にも角にもそう思わない限り生き残る事が出来ない……


 他人から救われようがない弱気の中でも、自分を安心させる為にはどうすればいいか。この国には、言霊ことだま信仰というものがある。良い言葉を言う事で、自分の精神を落ち着かせるのである。そしてそれが良い方向に現実化して行く。だから、僕は、「いつか良くなる。きっと自分は大丈夫さ」と、自分を励ます言葉を呟き、それが現実化される様、心から祈っているのであった。


「大丈夫。きっとよくなるさ」

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