悪い人魚
【ドリームコントロールを開始します】
あんまりな悪夢を見ていた僕は、突然アナウンスを受けて黄昏時の海に転送された。誰もいない波打ち際。波の音と、ヒーリングを意図したのだと思われるインストゥルメンタルが聴こえる。本物の海では絶対にしないような、甘い南国の果実の香りが漂う。冷たすぎない波が、何度も裸足を洗っていく。
なかなか強引な機能だ。ボディメンテモジュールのオプションとして売っていたから試しに入れてみたんだった。まさか直前までの夢をシャットダウンされるとは思っていなかった。さっきまでどんな悪夢を見ていたかさえ思いださせてくれない。
まあ、どうせ、いつものだ。僕の昏い欲望がそのまま表出したような夢。一番大切な人をこの手で壊す、もしくは、僕があいつに壊される夢。
……夢の中でこんなにマトモに思考ができるなんてね。ちゃんと休めてるのかなぁ、これ。
僕は考えるのを控えめにして、海岸を歩きはじめた。太陽は沈んだんだろうか、どこにも見えない。でも、空は七色のパステルカラーで彩られていた。雲は薄紫、海は濃紺。落ちつかせるより、ちょっとウキウキするような景色が選ばれてるんだろうか。それとも、僕がしょせん、こんな景色に心躍らせてしまうただの十七歳の子供だということなんだろうか。
クリスが、いてくれたら良いのになぁ。
あいつがいれば、きっと僕以上にこの海にはしゃいで、全身浸かって僕に水を掛けてきて、僕はそれを浴びて「このバカ犬が」なんて言って舌打ちでもするんだろう。
独りだと、楽しさの上限が見えてしまう。
普段の夢なら、僕があいつのことを願って出てこなかったことは一度もなかった。でも、これは見せられている夢だ。僕の思い通りにはならない。
機能をオフにしてみようか。
そしたら、悪夢に様変わりするかもしれないけれど、きっとあいつが来てくれる。酷い状態になったら、また機能をオンにすればいい。意識してそう願えばオンオフは操作できると思う。
「リノ、呼んだー?」
「……遅い」
「えぇ、仕方なくない!? なんかログインに時間かかってさー。まだ日付変更前だからかなー?」
「どんな世界観だよ」
僕の夢の中のクリスが変な発言するもんだから、思わずフフッと笑ってしまった。
「ま、いーや。ほらクリス、海だよ」
「海だねー」
「冷たくて、気持ちいいよ」
「そーなんだー」
「……クリス?」
思ったより食いつきが悪い。振り向くと、クリスは困った顔をしていた。
「……リノに言わなかったっけ? 俺、泳げない」
「えっ? 泳法モジュール入れてないの?」
「入れてるけど、沈むんだよ。比重的に」
「あー。そういやお前かなり金属仕込んでたな」
面白いな。そんなの夢の中ならどうとでもなるだろうに、僕のクリスは大真面目に現実をやっているらしい。
「別に腰までくらい浸かっても溺れないって。ほら、おいで。これは僕の夢なんだから、沈んでも大丈夫、本当に死にやしない」
僕はそう誘いながら、ざぶざぶと海の中に入っていく。服が濡れて肌に貼りつき、金色の髪が海面に広がる。海にたゆたう花のように。あるいは、流されゆくゴミのように。色あいはパステルの世界に馴染みそうで、でもそれは僕に他ならず、そのために絶望的に異物だった。
足元が海に浮き、とぷん、と頭の先まで水中に入った。
「おい、リノ!」
クリスが慌てて近づいてくる。僕が溺れるとでも思ったのだろうか。あんまり勢いがいいものだから、僕が沖に押しながされてゆく。
おいで、クリス。一緒にいこう。
お前はやっぱりそうやって、どこまでも僕を追いかけてくるんだ。
僕らしかいない世界で。
僕らだけが異物な世界で。
クリスの頭が海に完全に沈んでしまった。あいつの背でも届かない深さまで来てしまったらしい。僕は少し高揚している自分を認識した。ああ、クリスが死んじゃう。このままじゃ、僕のせいで。
僕も海中に潜った。息を吐き、わざと沈ませる。クリスを迎えに行かなきゃ。あいつと、最期まで一緒にいたい。
夢の中で人魚のようになった僕は、自由に泳ぐこの体を羨ましそうに海の底から見つめる黄金の像を見つけた。ああもう、バカ犬、そんな体になっちゃって。それじゃ、絶対に泳げっこないじゃないか。
ふふ、でも金色は僕とお揃いになったね。もしかしてこれは僕の呪いってことなのかな。
悪い人魚に金塊に変えられてしまった不運な男。
いつもの血なまぐさい夢とは違うけど、これも静かな狂気だった。
その輝く体に手を伸ばして、そっと抱きしめる。
夢の中では、僕のものだ。
夢だから許される、我儘。
僕はお前のものだけど、お前は僕のものにしちゃいけないから。
こんな不幸な終わり方を、現実にしちゃいけないから。
お前はそうやって僕の夢で何度も殺され続けるんだ。
可哀想な、僕の英雄……。
「愛してる……」
声が、出た、気がした。
ばち、と目が醒める。
喉の奥だけで、震えるように笑った。
声なんか、出るわけないじゃないか。
この喉は、僕が昔自殺しようと切って潰したんだ。
クリスが助けてくれたから、死ねなかったけど。
人魚姫の声が戻ったら、大好きな人に愛を伝えることができたのだろうか。
大好きな人の幸せな幻想を破壊することになっても?
多分そうはならないのだろう。だってそれって、悪役の所業じゃないか。
姫と呼ばれ愛される女の子のやることじゃない。
……この喉は、治そうと思えばいつでも治せる。
あいつと僕との絆の証だから、そのままにしているだけだ。
僕なら……純粋な悪い人魚である僕なら……。
「……リノ? どした……?」
僕が起きあがった気配で起こしてしまったのだろうか。クリスが隣で眠そうに呟く。
僕は会話モジュールの音量を絞って、なるべくクリスの目を覚まさせないように優しく囁いた。
「夢見て起きただけ。大丈夫。おやすみ、クリス」
「んー? 悪い夢? 抱っこしたげるー」
「暑いから嫌。いいから寝ろ」
「素直じゃないなー、もー……」
クリスはそう不満を漏らしながらも、すぐにまた心地よさそうな寝息を立てはじめた。
僕らはこの雲の上の街から実際に出ていくことは滅多にない。でも、仮想空間の海には、いつでも遊びに行ける。
明日くらいは作業を休んで、海に誘ってみてもいいな。夢じゃない本当のクリスなら、喜んでノッてくれるだろう。
なんとなく眠気が来るまで仮想空間で動かすアバターの服を海仕様に変えようとして、思いとどまる。準備万端で誘ったら、熱でもあるのかと心配されかねない。明日になったら僕の気分も変わってるかもしれないし。
時刻はまだ深夜一時だ。もう一眠りしたら、今度は雪山に案内される可能性もある。僕はどこでも行ける。なんでもできる。本物の体はモルガンの店から出られないとしても、不自由だと思ったことはない。
あいつの笑顔を見届けられる場所なら、どこでも良かった。
できればずっと、一緒にいたい。
でも僕はあいつを縛りたくない。
あいつが幸せを掴んだら、泡と消えよう。
お前の一番大切なものは僕だったんだぞ、と呪いを掛けて。
僕はその悪巧みに満足して、また夢の波間に身を任せた。
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