第43話 歪んだレンズで映し出すのが「一人称」の極意?

 一人称で書くなら、地の文となる人物……主人公なら主人公ですね、この人物の性格や口癖、考え方やモノの捉え方、何を大事に思い何を疎かにしているのか、そういう内面を把握することは大事だと思います。私は、病質的なものを視野にいれて、主人公を把握したりもします。


 私のケースですけど、第一稿は漫画における絵コンテくらいの意味で書いていて、上にあげたようなことはやってないんです。第二稿、第三稿あたりで書き換えたりするんですけど、そうすると特に男主人公の時には痛感します、おんなじ人間ばかり書いてるなぁ、って。主人公、ぜんぶ一緒やん、て。(笑


 私の分身として生み出した「恭介」という青年か、おちゃらけタイプの男性か、どっちかです。私に近しい人格ベースということで書きやすいんでしょうね、何も情報がないままで書き始めるとほぼどっちかで書いています。


 この「何も情報がない」という状態が曲者です。後で物語が進んでくるとここが明確になってきてようやく主人公の姿が現れてくるんですが、そしたら最初に書いていた原稿の多くは文字通り「人が違う」状態なんですよね。こうして全面改稿のハメに陥るんです、毎度のパターン化しています。(Web発表作の多くは改稿前の絵コンテで放置しているんで特に解りやすく同じパターンで止まってます)


 これ、文章やセリフの端々をちょこちょこっと直せば良い、という程度の違和感ではないんですよね。まるで役者が違う人というレベルで変わってくるので、本当にすべて書き換えるしかなくなるんですよね。(だから放置になるという悪循環)


 考え方が違えばセリフどころか行動まで違うわけで、やるだろう行為、やらないだろう行為の基準が変わるのでキャラに一貫性が無くなってしまうんですよ。読者に違和感を与えるレベルで違う人になってしまうと、説得力とか共感とか以前の話になります。同じ理由で文章は巧いに越したことはないと考えるわけですが。(問題は「違和感」なんです、読者が違和感を覚えないようにするために文章を磨くのです)


 作品の設計図というと、起承転結みたいなコトを考えてたんですよね、私も。

 でもストーリーの話じゃないんですよ、これ。


 ストーリーというのは、特に一人称だと顕著に顕れる特徴として「主人公の解釈で見た時の事件の見え方」という意味になります。事件そのものは立場によって色んな見え方があるもんなんですが、一人称で書いた場合は「歪んでいる」こと前提なんですよね。視点主となる一人称「私」の価値観やクセなどが顕著に反映された見え方をしている事件で、それは正直、事実に反することさえある。ある事件の側面、本道でもない脇道のひとつに過ぎないかも知れないモノへのフォーカスである、という意図が一人称でしょうか。


 つまり、歪んでいるんですよ。そしてその歪みを書いてナンボというのが、一人称の本当のところの縛りですよね。文学だったらこれが書けてなければまったく評価の対象にならないと思います。歪みを書かないのなら一人称にする必要がないですから。


 とまぁ、私が目指す一般文芸はそこまで厳しい評価基準を突きつけられたりはしないでしょうが、それでも文学の地平である「歪み」を持ち込めたら、かなりポイントが稼げるんじゃないかなとは思います。


 そのキャラクターになりきって綴ればよいということで、方法はシンプルですが実際のところはどうでしょうかね。私はストーリーの本道を作った上ででないと、脇道の一人称では書けませんけど。

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