ポアロの立場は読者とまったく同じ

第41話 探偵役という特殊ポジション

 名探偵ポアロを観たんですよ。確か「葬儀の後で」とかいう作品でした。物語の構造なるモノをまるで意識していなかった頃には気付かなかったんですが、重要なポイントを発見しました。


 ポアロの視点をベースに映像は撮られていきます。視点というからややこしくなる、「ポアロの立場から解釈したお話」というくらいのものです。最初の場面に登場するのは舞台となる富豪の家に雇われた弁護士と、ポワロ。二人は舞台となる屋敷に向かう列車の中にいます。そこからストーリーが始まる。もちろん、主役はポワロ。


 このドラマはなんですよね。そして、この列車のシーンでポワロはまだ何も知らない。それはです。ポワロの視点は、読者と同じ、事件どころかこの富豪の家庭事情も何もかも解らないという条件の元で、ストーリーは進行していきます。


 なんせそうとう古い時期に撮られたドラマですんで、今の流行とは違って進行が不親切です。ぜんぜん解んないのにどんどん話が進んでいきます。誰が誰で、どういう関係で、という辺りがサラッと5分。


 登場人物の名前と続柄、会話にほんのちょっとだけ垣間見えるそれぞれの性格の一部、それから、後の被害者となる老女に関する僅かばかりのヒント。列車のシーンに続く場面転換後のシーンはそんな感じで、ポワロは不在ながらという感じでドラマは進みます。


 ポワロはその場に居ないんだけど、場の描かれ方はポワロの立場での見え方なんです。登場人物たちが当然に知っていることは、しかしカメラワークやナレーターが触れたりすることなく、カメラを誰かの視点と捉えるならこれはポワロ同様にこの家族のことを何も知らないで眺めているような、そんな画面の見え方です。何か意味ありげなんだけど何を言ってるのかはチンプンカンプン、といった感じ。


 視覚メディアのドラマですから、その描き方は三人称であるとやっぱり私は感じざるを得ないわけですが、このカメラワークの見え方というのはやっぱりこの家族を知らない体で映し出しているんですよね。匂わせセリフがあってもそれを解説するような撮り方をしない理由として使われている。


 カメラワークは自由権限があり、映し出せないものなどないはずです、本来。まして登場人物でもなくそこに存在している見えないカメラという超存在なのだから、何だって写せるはずで、そこの矛盾点を巧く潰しているんだと感じました。このカメラはポワロの立場を取っている。


 直接にはそのシーンにポワロが登場していない場面を描く時は、すぐ後でポワロは伝聞でその場面を知っています。先に出たシーンはつまりポワロの想像と被さる。だからカメラワークはポワロが居なくても、夜中に婦人が何者かに背後から襲われるというシーンを描けたわけですわ。


 だからこそ、ポワロが伝聞から想像したシーンだからカメラワークはポワロと同じ立場で、この家族のことを知らないという体で舞台を映し出す。


 カメラはポワロ自身をも映し出します。ポワロのこの事件舞台の見え方には、ポワロ自身が関わった時からポワロも想像に組み込まれるからです。舞台や登場人物に及ぼす影響を、ポワロ自身も発しているだろうから当然、自分自身もその想像の関係図に加えているというわけです。だからカメラはポワロも映し出す。




 この「カメラワーク」の有り様というのが、そのまま小説における「地の文」なのだ、と。そういう理解で合ってるかどうかは解りませんが、私はこれで幾らか整理が付きました。


 

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