第12話 「一人称」「三人称」ワケが解りません。

 ここまで書いてきたら、勘の鋭い読者さんならだいたいピンと来ていると思いますが、ようするに「一人称・三人称」のという問題をずっと書いているんです。構造の面まで掘り下げてね。


 最初に解決しました「物語内容」と「物語言説」は違う、という話。この言説というのは、誰かの解釈なのだという話でしたよね? で、地の文というのがこの「誰か」なのだということで、これが「人格」であることは間違いないわけです。明言されてはいないだけで、ここに「誰か」が居ることは明白なんです。…たぶん。


 語り部という「誰か」がいることで初めて「物語」は出現したということですね。


 すると、一人称の場合は「物語内容を観測していた者(地の文)は、自身が体験した話として語っている」というスタンスになりますよ。

 三人称だと「物語内容を観測していた者(地の文)は、自身が登場しない話として語っている」となります。いや、スッキリしました。ここまでは。


 時間軸という構成要素は、ということですね。


 地の文は観測者の立場を取っている者というイミであり、物語内容を観ていた者であるという物語言説が語られている、ということになると思います。言ってみれば「当事者」かどうか、ということかな、と。三人称だと又聞きとかも含む「聞いた話だけど…」になる、と。あるいは「目撃談」も?


 すなわち、物語には「物語内容」という純然たるマテリアルと「物語言説」というマテリアルへの解釈があり、その解釈を述べている「観測者」の存在がある、というイミだと理解したんですね。この観測者の立場が一人称、三人称を分ける……?


 ここまでは合ってますかねぇ……、

「お前誰やねん?」という疑問を突き詰めたいだけなんですケド。

(地の文は地の文だよ、で片付けられる人が羨ましいです……)


 で、恒例の『調べてみました』に行きます。

 以下は京都芸術大学の文芸コースPRのブログにあったんで信用出来ると思います。(傍点は私が勝手に付けました、悪しからず)



甲:

風が吹いた。

私は眼下に広がる町並みを眺め、期待に胸を膨らませた。


乙:

風が吹いた。

男は眼下に広がる町並みを眺め、期待に胸を膨らませた。


上記の場合、甲は「一人称」の文章であり、乙は「三人称」の文章となります。文章自体を比べると、「私」が「男」になっただけ、1文字分しか違わないように読めますが……1にあります。


甲の場合、1行目の「風が吹いた。」という事象を観測しているのは、「私」です。したがって、これは主観的な判断であると言えます。本当はちっとも風なんか吹いていないのかもしれません。あるいは2行目の「期待に胸を膨らませた。」という表現から、1行目の「風が吹いた。」は自然現象としての風のことではなく、運が向いてきた、といったニュアンスを示す比喩的な表現なのかもしれません。


一方、乙の場合、1行目の「風が吹いた。」は純然たる客観的事実です(まあ、「男」の心理描写であって「男」の独白である、という読み方もできなくはないですし、そうした書き方は全然問題ないのですが)。作中において、「男」は実際に風を感じ、どこかの高台から町並みを眺めているわけです。


もちろん「一人称」なら主観的な記述がやりやすく、「三人称」だと客観的な描写に適している……と言いたいわけではありません。「一人称」の小説であっても客観的な構成は大切ですし、「三人称」の小説であっても登場人物たちの主観(にもとづく言動など)は重要です。(京都芸術大学通信教育課程Blogより抜粋)


 以上、抜粋部分でした。


 ちょっと引っ掛かるのが『「三人称」の小説であっても登場人物たちの主観(にもとづく言動など)は重要です』の文言ですけど……。これ、自由間接話法のことかと思ったのだけど、じっくり吟味して読むとそういう意味じゃない……?


)』て、わざわざ注釈じみた書き方な辺り、なんだか……いや、いやこれは後回しにして、とりあえず「誰やねん?」を片付けたいと思います。

 

 地の文というのは観測者という、「物語の構成要員」であることには間違いないと思ってます。登場キャラと同様にこの地の文の人格も設定が作られる。物語は幾重に入れ子状態となったハコですね、これ。そう感じます。


 一番外側に「作者」がいて、その手前にハコがある。そのハコには「観測者」と「物語内容」があり、観測者の口の中というハコに「物語言説」が入っている。


 なので、これ、たぶんですが、「観測者」も作者が設定をしてますよね?



 他の登場人物や状況やらと同様に、地の文であるこの「観測者」なる語り部自身も作者が設定をこしらえている、ということになる。……ですよね?


 ただし、その性格付けは登場人物とは違って、状況設定とかと同じ部類。つまり、性質的なモノが形成されるだけで、人間らしさがあるわけじゃない、と。舞台設定と同じように、無機質な性格付けがされているだけだからワケが解らなくなる、のではないかと思います。


 地の文の人格設定は、位置付けとしては「人格」なのだけど、実際には「設定」としてあるだけなので人間らしさは必須じゃない。三人称だとなおさらでしょう。


 ここに、一人称と三人称でねじれたモノが感じられます。一人称は人格として明白だけど三人称は設定としての側面が色濃いように思います。いや、これが「地の文の性格」ということになるんでしょうね、たぶん。キャラ付けとほぼ同じ?(汗


「客観に徹して語るタイプ」とか「面白おかしく語るタイプ」とかの、まさしく人格が設定されてますよね、これ。


「自分の考えもガンガン突っ込んでくタイプ」ってのはアレです、『蟹工船』ですわね。(笑





 かなり整理が付いてきました。「人称」は「語り部の立場」でありそこには設定として「人格」が付与されている。物語の大外には「作者」がいる。





追加。

 よく、三人称の地の文は作者、という話を聞きますがそうなるとこれ、ニアリーイコールの作者でしかないですよね。というよりもっと自由に「誰か」を設定できてしまうし、むしろ「だれか」は重要ではないので「語り部」という肩書き以上のものは不要と感じます。性質だけが必要なのであって、名前も容姿もどこの誰かも必要ない。それはこの語り部と対面しているであろう語られている相手「想定の読者」という存在についても同じことが言えるんだろうなと思います。


 ……透明人間の名無しの権兵衛さんたちですね。


「お前誰やねん?」問題には無駄にコダワリまくった癖に、こっちはいやにあっさりです。だけどこっちは「誰かが居ることは確定してるがそれが誰だかは別にどうでもいい」ことじゃないですか。語り手が居ることだけ解れば充分という意味で。





追加の追加。

 後で「いや待てよ、」と思い直す部分がありましたんでさらなる追加を書き足します。三人称は後から改めてやろうと思ってたんですが、その時にややこしくなるかも知れないんで先に解決しときます。


 これ、地の文はルール性だけ解れば立場や容姿なんかはどうでもいい、と書きましたが、コイツが曲者ですよね?


 自己主張の激しい、存在感の強い地の文が「登場人物には居ない誰か」となったら、ここでまた「誰やねん?」問題が発生してしまうということですよ、コレ。


 なので従来通りのセオリーとして、地の文には出来るだけ人格を持たせないように、という項目が生まれたということなんでしょうから。語り部が誰なのかがはっきりしてたらいいんですけどね、せめて名前だけでも……となるとその人物は誰?となって、本来、物語としては部外者のはずの語り部の素性まで取りあげねばならない、という感じでしかもその語り部を紹介している文章、お前は誰やねん、になってしまう! 堂々巡りで大渋滞!


 昔々から言われるセオリーというのは、正当な理由があって継承されているのですね。一人称の地の文は主人公、三人称の地の文は「居ないものとして気にならないよう書け」ということになっている、というワケですか……。なるほどです。


 読者にとって、この語り部や想定読者の存在は、物語言説だけを楽しむ場合の邪魔者にしかなりえないわけです。だから、この二つの存在をなるべく消さないといけない。三人称ならここに設定を付けていくのはなるほど本末転倒ということなんでしょう。



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