第5話 過去形の地の文の「私」は結末を知っている

 過去形の場合は、回想を語っている体でいる間は何の違和感も受けません。それこそ三人称で他人事を誰かに語って聞かせることが、自分事に変わっただけなので。ただ、過去形にして自分事を喋らせると、感情爆発シーンとかを語る時に違和感が生じるんですよね。だって、激情とも言えるような気持ちを語って聞かせるのなら、それが過去のことでも激昂しそうです。そしてその時、地の文の「私」は「舞台の時間より未来にいる存在感」を露わにしてしまうと思うんですよ、激情なのだから未来において冷静ならその冷静さが未来を感じさせるし、激情のままなら激情のままで時間経過した激情で語らねばおかしいです。


 それが、過去形の「私」にした場合の不都合さとして出てくるんじゃないのか、というのがこの一人称問題の二つ目の疑問です。正直、一人称を違和感なく書くには、もう現在進行形の「私」を完全に物語内容の「私」とリンクさせて、俯瞰を完全に禁止して書く以外の書き方は出来ないのでは?とさえ考えてしまいます。その場その場の「私」の脊髄反射的な反応でしか進行できないのでは?と。そういう反応以外の、誰かに語っているように感じる文章すべてに違和感を覚えるんですよねぇ。



 過去形を採るということは入れ子構造にするということで、そうなった物語では、「物語内容の場所」は多彩でも「物語言説の場所」は別になり、その場所は語らなくてもよさそうです。けれど、基本的に、私と聞き手が存在してしまう。この聞き手の存在が違和感の原因なのは確かなんです、現在進行形の場合は。

 だから、この聞き手を亡き者とすることに注力しないといけないような気がするんですよね。それも徹底的にやらないと違和感が付いて回る。習った覚えもありませんので、ナラトロジーではどう考えているのかは知りませんが。


 過去形で語れば、地の文の私は結末を知っています。それと同時に、過去形の「私」は物語内の私とは違う……すなわち、天の声の存在感として三人称問題と同じ「お前、誰やねん?」の疑問が生じてしまうと思います。三人称ほど顕著ではないにしろ。誰と言われたら「私」であるわけですから。


 なので、三人称の体で書けば、三人称が抱える「お前誰?」問題は解決しますよ。


 けれど、三人称の時と同じく、地の文の私は大げさなリアクションが取りにくいということはありますよね。だってもう終わった話をしてる体ですもん。

 また、喜怒哀楽のわざとらしさだけでなく、作品を作る際の手順にまで大きな影響を及ぼす気がします。過去形での地の文の私は結末を知っています。なので最初から作者もまた結末に至る細部までを知って書かねばボロが出ると思うんです。(追記:いや、これはどっちも同じです。キャラ造形の方なので、理由は後述します)


 さて、現在進行形での一人称なら、ライブ感覚で書けるものだと思っていたのですが、それは勘違いだったということが明白になりました。そういう話をしていたつもりですけど、ご理解頂けなかったかも知れません。

 三人称の「お前誰やねん?」問題に煩わされることなく、内面の心情吐露だって思うまま、とても書きやすいはずだと考えていたんですよね。ライブ感覚で書けるのだと思っていました。細部まで完全に設定を作り込んでいなくても書ける、そう思っていたんですけどね…


 現在進行形が使いたい理由は何もルーズがしたいからだけではありません。別にね、先に設定を詰められるだけ詰めるのは面倒だから、ライブ感覚で書けたらいいなぁ、なんて考えていたからという理由だけではないんです、ええ。


 現在進行形の方が表現しやすい人格というものがあるんですよね、喜怒哀楽が激しいタイプの語り部は、過去の話を聞かせているという体で書くのがちょっと難しいと思ったんです。”わざとらしい”語りになるような気がしたというか、現在進行形の一人称で書いた方がライブ感満載で楽しいだろう、と。だから私は現在進行形の地の文にこだわっていたんです。


 次はこの「ライブ感」ということを考えていきたいと思います。

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