第4話 物語の「舞台」と「語られた場所」

 私の感覚としては、時制を過去に置いて「去年の話だ」として語り始めた方の作文が、違和感が少なくて好印象です。誰だかは知りませんが、ちゃんと語りかけている相手が見える気がするからです。去年の話だ、と言って語り出すのですから最初からそこには語りかけている相手が存在します。


 ところが、現在進行形の作文の方になると、地の文が全体的にどれをとっても違和感の塊で気持ちが悪いと感じられるようになります。形式は語りかけなのです。誰かに語りかけている体裁の文章で地の文は書かれている。いえ、そもそも文章というものは伝達目的で、どんな形態にしようが相手が存在するものじゃないでしょうか。


 現在進行形で物語の舞台に地の文の私も居るというのならば、では、語りかけている相手はどこにいるのだ、という疑問が付いて回ります。拭いきれない違和感の正体です。物語舞台のどこに、私が語っている相手は存在するんだ、ということです。


 過去形における物語の舞台は、二重になっています。物語理論で言っていた「物語内容の舞台の場所」と「物語言説の語られた場所」は、違うからです。


 物語内容は「私が経験した事件」のことですから、その場所と言えば舞台である信州山間部の集落です。けれど語られた時間は事件の後であり、その時、語り手がいる場所は集落ではない場所です。そこはどこと語られてはいないので、同時に誰に語っているのかも端折られていると、自然に考えることが出来るわけです。辻褄が合っています。


 ところが、これを現在進行形としてしまうと、途端に全文が違和感に包まれます。


 語っている相手はその事件の舞台である山間部集落の、あるいは事件が起きて主人公が立っているであろうその現場の、どこに居るのだ、と。


 これが地の文の一文ごとに、拭いきれない状態で付いて回るので、気持ちが悪い感覚を覚えるということです。


 現在進行形としてしまうと、物語内容だけでなく物語言説も、事件の舞台だけで閉じてしまいます。物語が起きた場所に、語られる相手も存在するはずです。現在進行形なら、実況中継のように今何が起きているかを語り部の「私」は誰かに語っているわけです。物語が自然な語りに近付けば近付くほど、語り部が語っている相手の不在だけが異様に目立ち始めます。そう感じてしまうんですよね。


 リアルタイムの感情吐露のシーン以外の全ての地の文に、この章の最初に提示した「誰に話してんの?」の疑問が、拭い難いほどはっきりと感じられるんです。



 さて、地の文の「語りかけている相手」の不在問題はこれで説明し終えました。現在進行形の時間軸を選択してしまうと、不在問題にブチ当たるという話をしてきましたが、過去形になる時間軸を選択すると今度はまた別の問題に突き当たります。


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