第5話

 数日経ち、ヱマはスーツ姿のまま病院内にいた。ノアが身体に馴染んで二日程したら面会が許可される、連絡を受けた彼女は急いでここへやってきた。

「琉生さん、おはようございます」

 運び込まれた日と同じ看護師が頭をさげた。振り向いて挨拶を返す。ヱマが変装をしている事は病院側、特に南美を担当している医者と看護師達は把握していた。特に問題もなく歩き出す。

「南美さん、エルフの割に身体が丈夫で、想像以上に回復が早いんです。だからもしかしたら、今日か明日か目覚めるかもしれません」

 微笑みながらそう言う看護師にヱマは「本当ですか」と食い気味に聞き直した。

「はい。ノアもすんなり馴染んでますし、輸血での問題も特には」

 軽く振り返った看護師の笑みに肩の荷が降りたように身体が軽くなった。自然と早足になってしまうのを抑え込んで、クリスマスプレゼントが待ち遠しい子供のように扉の前で待った。

「コードゼロ番」

 淡々とした声に自動ドアのロックが解除される。看護師がなかを指して足を踏み入れた。

 ノア利用者だけの特別な病室にはベッドに寝かされた彼の姿があった。真っ白な肌と空間のなかに紫色の長髪が広がっている。

「何かあったら呼んでください」

 看護師の言葉に「ありがとうございます」と会釈した。閉められる自動ドアに定期的な機械音が流れ出す。

 ヱマはウィッグに手をかけて脱ぎ、ネットも外した。隅にあるカゴに入れて、ジャケットのボタンを指で押した。ワイシャツの袖を捲り上げ、胸元のボタンを幾つか外す。普段の姿に近づけてベッドに寄った。

 覗き込むと静かに眠っていた。何度も見た寝顔と変わらないが、なぜか生きている気がしない。

「南美」

 右手を伸ばす。頭を撫でた。親指の腹で額を撫でると前髪がくしゃっと引っ張られた。

 近くにあった丸椅子を引いて座る。血管の浮き出た大きな手をとって両手で包んだ。自分より体温は低いし、普段のように握り返しても来ない。だが確かに生きているだけの温もりがあった。

 医者も看護師も今の所はなんの問題もないと言っている。だが胃にまで刃が到達していたし何より出血も酷いものだった。一週間以上が経った今でも事務所の血の跡は消えていない。

 それにノアは人工生命体だ。危険性やリスクがゼロな訳ではない。昨日は良かったのに今日になったらおかしくなった、というパターンは往々にある。

 まだ先が分からないからこそ、ヱマは不安になった。目覚めてくれればそれらのリスクは軽減される。だがそれも、かもしれないという可能性でしかなく何日経っても意識が戻らない事だってある。

 基本ポジティブなのに、ヱマは南美の姿を見た途端に嫌な事ばかりが頭を巡った。溜息を吐き、両手で包んだ彼の手を額に当てた。

 その時、ふっと動いたと思ったら頬を撫でるようにして這わされた。顔をあげて眼を丸くする。

「なに、泣いとるんよ」

 白い双眸がこちらを向いて弱々しいがいつものように笑った。ヱマはぱあっと笑顔になって立ち上がった。

「よ、呼んでくる!」

 クリスマスプレゼントを開けた子供のように笑顔を咲かせ、先程の看護師を呼んだ。そのうち担当の医者にまで伝わり、白衣を翻して走ってきた。

「南美さん、良かった。体調はどうですか?」

 ヱマは一歩退いたところで受け答えをする南美を見つめた。声は少し掠れているがすらすらと出てくるし、意識の混濁もない。電脳の機能も全く落ちていなかった。

「点滴だけにして良さそうだな」

 医者の判断に看護師が動く。口元につけていたマスクから順に外されていく。その時視線がこちらに向いた。いつも通りに微笑んだが流石に体力もなく痩せて見えた。

「ではまた何かありましたら」

 にこっと笑って病室を出ていった。

「……ヱマさん」

 囁くような声なのにハッキリと聞こえた。振り向いて近寄る。手を握った。

「大丈夫、ですか。なんか巻き込まれたりとか、」

 確かに握り返してくる。ヱマは簡潔に状況を説明した。南美は顔を天井に向けて息を吐いた。

「あの手慣れた感じ、気配の消し方、多分相手はプロやと思います。まだ見つかっとらん今のうちに、大和に、」

「大和はダメだ。キョウカにそんな余裕がない。それに救護班の看護師がお前のカルテを売ったんだぞ」

 思いが口調を強くする。南美は「そりゃ、無理か」と吐息混じりに呟いた。沈黙が流れる。

「……そんな事より良かったよ。俺、生きた心地がしなかった。お前のベッドで寝るたんびに泣きそうになってた」

 短い眉毛を八の字にさせる。彼は右手を伸ばして彼女の頭を撫でた。

「ごめん。心配かけてしもうて」

 触れるその手も温もりも鼓動も目線も声も吐息も息を吸う音も瞬きも乾いた唇も、なにもかも夢のように思えた。鼻を啜っても涙が流れてくる。

 左手で南美の手を握りしめながら、右手でベッドを押さえた。沈み込む感覚に顔を近づける。乾いた皮膚を潤すようにして唇を合わせた。

 ヱマの涙が頬を滑って口角を滑る。息継ぎのように僅かに離した瞬間に舌の上に転がって、南美の唾液と混ざった。

「お前が退院出来たら、俺が奢るから。沢山。なんでも、奢るから」

 震えた声にふっと微笑んで眼を細めた。

「遠慮せんからな、ヱマ」

 南美の言葉と優しい声音に、彼女は暫くのあいだ安堵の涙を流した。

 彼が目覚めた事は一部の人間に伝わった。ただ看護師の一件がある為、その範囲はかなり狭い。一先ず東や田嶋など、関わりのある者は安堵の溜息を吐いた。

 早坂からの連絡はなく、苦難しているのが分かった。南美の言う通りプロ集団なら余計に難しいだろう。また陰山からも特になくヱマはいつも通り裏から事務所内に戻った。

『歌舞伎町もタオティエのせいか更にカオスになっていますね』

 大阪での乱闘騒ぎは治まり一旦落ち着きを取り戻している。だが中毒性がかなり高いらしくそれによる犯罪や事件が横行しており、歌舞伎町でも暴力事件がじわりと増えていた。

 まるで感染症だ……パンデミックのように混乱し続ける世間にヱマは息を吐いた。まだ狙われたままだろうし気が抜けない。

「今日も飯、頼むわ。先にシャワー浴びてくる」

 長時間ネットで押さえつけられぺたんこになってしまった髪を適当に触り、面倒くさそうに疲れた足取りで二階にあがった。ワイシャツのボタンに手をかける。後から小型ドローンがあがってきた。

『昨日と同じでいいですかね』

「おう」

 AIの質問に返事をしシャツを脱いだ。洗面所のようになっている窪みには洗濯機が置かれてあり、そこに投げ入れた。シンプルなブラジャーを脱いでからヒールを履いたままベルトを外した。

 直に置かれたマットの前でヒールを脱いでシャワールームに入る。暫くのあいだ水の音と調理の音が鳴り響いた。

 さっと洗ったヱマが先に出てタオルで身体を拭いた。顔に埋める。大きく呼吸をしてから洗濯機の口に投げた。

 パンツを履き、南美が普段着ている大きめのシャツに腕を通しながら歩いた。ベッドに腰をおろしてヒールを脱ぎ、ベッド下に手を伸ばす。そこには自分が普段履いている靴があった。

 本当は素足が楽なのだが仕方がない、履きなれている方に足を入れ、冷蔵庫からジュースを取り出した。ベッドのシーツを撫でながら口をつける。

「はあ」

 一息吐いてから事務所の方に降りた。はじめちゃんが料理を持ってくるまで、テレビ画面をぼうっと見つめた。濡れた髪を乾かす気もなく、ぶかぶかのシャツの裾を無意識に触った。

 AIによる規則正しい調理音は南美とは違って聞こえた。もっと適当で、フライパンを置く音も乱暴だ。

「……」

 もう二週間以上が経つ。ほぼ毎日一緒にいて温もりや匂いを感じているせいで、常に心のなかが空っぽだった。

「……くそ」

 ぎゅっと裾を握りしめた。湧き上がってくる怒りに眼を閉じて息を吐き出した。その時、事務所の扉が僅かにかちゃりと鳴った。ばっと振り返る。

 水色の瞳が捉えたのは三人程の人影。黒ずくめで種族も性別も分かりづらい。

 互いに互いを認識した瞬間、ヱマは手に持っていたオレンジジュースの瓶をぶん投げた。そして転がるようにしてソファとテーブルのあいだに身体を移動させる。

 サプレッサーのついた拳銃の発砲音が鳴り響き、瓶が粉々に砕け散った。続けざまにソファの背に当たる。

「ちっ」

 ヱマは狭い隙間で上手い事動き、両足でソファを蹴った。と同時にだっと駆け出して机の上にあったファイルや資料を掴み、思い切り投げつけた。

 ばさっと紙が広がり視界が遮られる。一人が周りこもうと動き出した。刹那、奇声と共に若い男が二人、相手の背中にタックルをかました。

 ヱマは驚きながらも隠していたリボルバーを取り出して構える。ばさばさと紙が落ちた先には、ホストの格好をした青年がうち一人の首にナイフを突き立てていた。

 然し動き出そうとしていた一人に頭を撃ち抜かれる。残った方が飛びかかるが、自分で後頭部を殴りつけた相手によって背中を撃たれた。転がる青年の頭に冷静に銃弾を叩き込んだ。

 一人は消えたが手慣れた様子の人間が二人、こちらに向き直った。公安時代に叩き込まれた構えで眉根を寄せる。

「南美を刺した連中だろ」

 恐らく飛び出してきたホスト風の青年二人は境井組の鉄砲玉だ。最近やけに気配を感じていたし、境井にとってヱマは助けておいた方が都合のいい存在だ。牙のあいだから息を吐き出しながらハンマーをおろす。

「俺に適うと思うなよ」

 強気な笑みを浮かべた瞬間、リボルバーを発砲せずに怪力と瞬発力で投げつけた。ハンマーをおろされた凶器が豪速球で向かってくる事に二人は反応し、ヱマから一瞬視線が外れた。

 リボルバーががしゃんっと扉の窓ガラス部分を突き抜け、その反動で軽くなったトリガーが引かれた。鋭い発砲音に張り詰めた神経が無条件に反応してしまう。

 だが彼女に意識を戻した時には遅かった。その反応速度は早く素人でないのは確かだ。それでも公安長官として現場に出ていた鬼には勝てなかった。

 気がついた時には左足を軸にした回し蹴りが迫ってきていた。黒い義足の反射に身体が避けようとする。然しこめかみに当たり、もう片方は首の正面に当たった。

 白目を剥いて崩れ落ちる。喉仏を強い力で押されたからか、酷く苦しみながら膝をついた。

 ヱマは一つ短く息を吐き出し、首に当たった方の身体を蹴った。後頭部を床にぶつける。抵抗しようとしたが胸の辺りを足で押さえつけられた。

 溺れかけているかのような苦しんだ呼吸と藻掻く脚に冷たく見下す。

「依頼主は誰だ。なんなんだお前らは。単なる寄せ集めの殺し屋共か?」

 ぐりっと足に力を入れて更に踏みつけた。恐らく男だろう相手は震える手でヱマの足首を掴む。

 幾ら掴まれても義足だから痛みはない。苛立って踵を浮かせると気合いをいれておろした。瞬間ばきっと骨の折れる音がこもって聞こえてくる。

 断末魔が響き渡った。

「いいから吐け!」

 また怒りが湧き上がってくる。脚にどんどんと力が加わっていく。相手はもがき苦しみ、そのうちぱっと事切れてしまった。

 あっと慌てて脚を引いたが、その際に相手の手が離れ力無く動いた。ヱマは苛立ちのこもった息を吐き出し早坂に連絡をやった。電脳内のデータは生きているはずなので、そこを洗ってもらう。

「もしもし」

 二階からはじめちゃんの微かな鼻歌が聞こえてくる。小型ドローンの駆動音に視線をやった。

「俺らを狙ってる奴らを殺した。境井組の鉄砲玉も混ざってる。死体は五体だ」

 料理の乗ったお盆を手に姿を見せる。ヱマは幾らか返事をして通話を切った。

『修理代、忘れずにお願いしますねー』

 テーブルに置くとそう言いながら二階に戻って行った。消えていく小型ドローンの背中を一瞥し、軽く頭をかいた。

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