第2話

「南美……?」

 幾ら時間が経ったか、ヱマは飛び起きるようにして上半身をあげた。乱れた髪に眉根を寄せる。薬の副作用が抜けたらしく、顔つきが戻っていた。

「はあ……」

 大きく息を吐き出して立ち上がった。一瞬右足が傷んだ気がして引き上げたが、あの感覚が夢だと思える程に何も感じなかった。軽く膝の辺りを擦る。

「南美は、一階か」

 喉が渇いたので水か何かほしいところだが、流石に無断で冷蔵庫を開ける程精神は図太くない。一先ず一階に降りて南美を探した。だが。

 血溜まりのなかに倒れ込んでいる姿がぱっと眼に入る。ひっと音が鳴る程に息を吸い込んだ。頭の端であの時の光景がチラつく。

 身体が固まる。然し南美が現実で倒れている事実の方が勝り、慌てて駆け寄った。

 若干手が震えながらも様子を見る。思い切り刃が刺さっており、既に大量の血が辺りに散っていた。

「やばい」

 自分のポケットを探るがデバイスはない、這いずるようにテーブルの方を見ると彼のデバイスが置かれてあった。すぐにとって救急を呼ぶ。

「なるべく早くお願いします」

 歌舞伎町だから自分のところより早いだろう、そう彼のデバイスをテーブルに置き直し傍に戻った。

「なんでこんな、」

 一体自分は何をしたのだろうか……心臓がばくばくと波打つあいだ、血に塗れたシャツを脱がした。左胸に耳を当てると僅かに聞こえてくる。

 まだ生きてる、まだ大丈夫だ。そう強く思いながら到着を待った。

 病院に運び込まれてからヱマは暫く空気のように扱われた。静かで清潔な手術室の前で立ち尽くす。ややあって看護師が一人やってきた。

「琉生さん」

 淡々としているが優しい声音に振り向いた。近くのソファに座る。

「なるほど。記録通りですね……」

 南美の母親は既に病死しており、父親は刑務所で自殺した。兄弟は一人もおらず祖父母とは縁が切れているか亡くなっている。親戚筋も頼れる者は一人もいない。

「恋人や婚約者などは?」

 それにかぶりを振った。

「では友人は」

 ヱマは少し考えてから田嶋の名前を出した。一応高校時代からの仲だと聞いているし、友人関係としてカウントしても大丈夫だろう。

「……琉生さんは、南美さんとはどういうご関係なんでしょう。かなり深い傷なので、もしかしたらノアを利用した治療になるかも知れません。その際に第三者のサインが必要でして」

 どういう関係か、その質問に彼女はすぐには答えられなかった。雇い主と雇われの身だと言えばそれで終わりだ。だが二人の間にはそれ以上の関係性があった。

 困ったように固まる様子に看護師は慌てて掌を見せた。

「すみません。言いづらいようでしたら大丈夫ですよ」

 手元の中型デバイスに眼をおとす。

「書類上南美さんと琉生さんは“婚約者”になっていまして、先程質問した際に違うとおっしゃられたので……」

 婚約者という単語に眼を丸くした。

「ど、どういう事ですか。俺そんなの、」

 一言も聞いた事がない。そもそも南美との間に恋愛感情はなく、結婚する気だってない。看護師は困ったように微苦笑を浮かべ、憶測でものを言った。

「婚約者として国に認めてもらうと、こう言った緊急時に家族同様の扱いがされるんです。もしかしたらそれを狙って申請したのでは。何か書類にサインした記憶はありませんか?」

 その質問に少し辿る。あっと思い出した。夏の暑い日に軽く説明された事がある、適当に聞き流していたせいで今の今まで忘れていたのだ。

「ちゃんと聞いてなかったわ……」

 暑さでぼうっとしていた時期だから全く頭に入っていなかったのだろう。折角南美が考えてしてくれた事なのにと溜息を吐いた。

「まあ今回は仮にノアを使用するとなっても大丈夫だとは思いますが……婚約は結婚とは全く違うので一年が経っても進展がない場合は勝手に破棄されるんですよ」

 あくまでも結婚を手助けする為の制度だ。する気がないのなら蹴り出されて当然、ヱマは覚えておきますと肯いて話を終えた。

「……身内、いねえもんな」

 大きな扉の先を見つめる。両親が健在の彼女と違って彼は親もいなければ兄弟も親戚もいない。勿論恋人もいないし妻だっていない。

 彼にはこれといった居場所がないのかも知れない。唯一それらしいのはヱマの隣だけだ。

「あー、せめてキョウカとくっついてくれれば、」

 自分で言った言葉に口を紡ぐ。首筋を触った手がぎゅっと握られ、短い眉毛は皺を作った。

「めんどくせえ」

 何に対してなのか、そう呟いて暫くは頭を抱えるように項垂れた。

「命に別状はありません」

 担当医からの言葉に少し肩を落とす。

「ただ、回復するのには時間がかかりますね……かなり出血していましたし、ノアを使った方がいいかもしれません」

 人工生命体、ノア。豚の細胞から作られたかなり小さな生命体で、単体でクローンを生み出す事もできる医学界の救世主だ。悪性腫瘍や細菌類の捕食だけでなく組織の修復に自らの身体を使ったり、既にいる細胞の抑制や投与した薬の成分を広範囲に広げる事も出来る。

 ただ生命体である為、体内に入れる前に同意書へのサインが必要だ。それが先程看護師が言っていたもので、書類上婚約者になっているヱマでも書く事は可能だ。

「最低でも一ヶ月、でしょうかね。意識が戻ったあとでも暫くはノアでの治療を優先的にします」

 一ヶ月という言葉にそうですかと視線を落とした。二の腕をさする。

「それより、明らかに誰かに刺されているので後で警察の方々が来るかもしれません。もし精神的に辛いようでしたら、」

 優しげな医者の言葉に掌を見せた。

「大丈夫です。慣れてるんで」

 普段の彼女からは想像もつかない程に元気がなく、集中治療室に移された南美の姿を一瞥すると拳を握りしめた。

「琉生さん、ですよね」

 夕方を過ぎた病院は静かだった。自販機で買った水のペットボトルに口をつける。

「はい」

 低く返事をして振り向いた。少し眼を丸くする。

「はじめまして。あたし、東と言う刑事で、捜査一課に務めてます」

 牛の耳と尻尾が特徴的な恰幅のいい中年の男に、ヱマは眼を丸くしたまま身体の向きを変えた。

「南美と知り合いの……」

 東は驚いてから笑って肯いた。

「話してたんですねえ。あの子」

 刑事の顔から気のいいおじさんの表情に変わった。なんだかんだで南美の周りに人はいる、だが本人はそうは思っていないのだろう。

「White Whyでの活躍は知ってますよ。最初はまた相棒なんて作って大丈夫かと思ったけどねえ、そうでもないようで安心してます」

 人気のない病院内の隅で肩を並べる。東の手には奢ってもらった缶コーヒーがあった。

「ただ、今回の傷害事件はその活躍のせいとも言えて……」

 濁す言い方に視線をやった。禿げた頭には小さな角が二本、耳の傍にあった。

「前回の事件で刺された箇所をまた刺されたでしょう。医者からも言われてるとは思いますけどね、あれは確実に狙ってる」

 ヱマは医者に言われた事を思い出した。刃物の位置が腹の傷と同じ角度だったと。

「腹の傷の位置なんて、それを治療した人か裸を見た人しかいないでしょう。刺した張本人でさえ服のせいで正確には分からない」

 それに眉根を寄せた。

「大和に裏切りもんがいる……?」

 南美が他所で脱ぐなんて事は有り得ない。だとすれば当時傷の治療をしていた者達に限定される。

「ええ。あたしもね、それを疑ってるんです。だけどね、今大和も公安もみんな追われていて、とてもじゃないけど組織内を調査できる暇がないんですよ」

 東は続けた。

「あの子が追ってた青年が使用してたタオウー、あれを薄めた薬物が今大阪と兵庫で暴れ回ってるんです。“堺井組を巻き込んでね”」

 眉根を寄せた。半分程になった水がペットボトルのなかで揺れる。

「スターみたいなやつですか」

 六年程前に問題視された薬物で、覚せい剤の成分を薄くしキャンディーのように加工したものだ。その気軽さと見た目のポップさから若者を中心に大流行、二十名程が亡くなり今でも百人近くが後遺症で苦しんでいる。

「ええ。名前はまだ分かりかねますが、概ね同じです。BLACK BLACKが消えた分被害は少ないんでしょうが、それでもネットやメタバースを通じて手を出す若者が多いようでしてね。元がタオウーですから強くなったと勘違いして、今堺井組系列の組事務所や交番、果ては一般市民の住宅にまで襲いかかってるんです」

 淡々と語る刑事の言葉に「ありえねえ」と呟いた。力が加わったせいでペットボトルが音をたてて潰れる。

「その対処で今追われてるんです。まだタオウーを作った元凶も、その周りにいる人間も特定しきれてない……」

 まだここまで大きくなる前に見つけ出したというのに、今の公安は何をやっているのか。ヱマは驚きながらも同時に「それもそうか」と項垂れた。

「ハルカがいれば……」

 上半身が潰れたペットボトルを見つめる。ハルカは特定能力と忍耐力に優れていた。だからあそこまで追い詰め、先に彼女が忍び込んだのだ。

 だが今の公安に彼女程のイカれた人材はいない。長官の陰山は統率力と頭の切れ味はあるが忍耐力はそこまでない。だから猿の青年が逮捕されるまで、ヱマ達数名が追っていたはずのタオウーから眼を離していた。

「恐らくだけどね、あの子は脅威なんだと思うよ……琉生さん、貴方も」

 ふっと視線が向けられる。仕事中の南美と同じ刑事の眼だ。

「事件の事は我々が調査して、必ず犯人を捕まえるから、琉生さんも気をつけて」

 時間なのか、手帳を懐に戻しながら立ち上がった。東はそう言ったが大人しく引き下がる気はない。だが何も言わず、ただ頭をさげた。

 結局目撃していないせいで話せる情報は殆どなかった。寧ろ色々と話してもらったぐらいだ。

 事件現場である事務所には既に鑑識が来ており、今日は戻れそうになかった。かと言ってずっと病院にいる訳にもいかない、ヱマは一先ず川崎市の特例地区に戻った。

 だがドアノブを触る前に異変に気がついた。伸ばしかけていた手がぴくりと動く。

「ハッキング?」

 僅かにノイズが走っていた。嫌な予感がして、東のセリフが繰り返される。

「恐らくだけどね、あの子は脅威なんだと思うよ……琉生さん、貴方も」

 がっと握ると数秒間の沈黙もなくすぐに開いた。眼前に広がるのは二人程の足跡と僅かに見える荒れた形跡。ヱマは靴を脱がず土足で踏み入った。

「ちっ」

 部屋はごちゃごちゃに踏み荒らされていた。テレビ画面はひび割れ、ソファは位置がズレ、冷蔵庫類も軒並み倒れているか動かされていた。

 外部デバイスの位置情報を探ると歌舞伎町の事務所内にあった。一先ず安堵する。恐らく朝の時、南美が持ち出してくれたのだろう。

 だがふと思い出し、慌てて壁に貼り付けてある大きな額縁を引き剥がした。がたんっと音を経てて転がる。そこには隠し金庫があり、ヱマの生体認証とID認証の両方で解除される。

 中にはハルカの形見と南美から譲ってもらった小型のリボルバーがあった。流石にここまでは特定されなかったらしい、リボルバーの隙間に収まるジッポーを手にとった。

 桜の花びらが舞うシンプルな柄で、あの時、殺された時に懐からこぼれ落ちた傷が残っていた。それを握りしめ、ポケットに入れた。リボルバーと数発の弾、そして隙間に隠してあったホルスターを引き出す。

 太ももにつけるタイプのもので、彼が制服時代に使っていた代物だ。かなり色褪せてひびも入っている。そこにリボルバーを入れ、部屋を出ようとした。

 ふと思い立って視線をやる。狐のぬいぐるみは項垂れていた。

 手にとって背中を見ると銃弾の痕があり、焦げた臭いがまだ残っていた。恐らく不用意に発言してバレたのだろう、背中側には機械の心臓部分がある。

「使えねえな、ホント」

 大きく溜息を吐いた。これじゃあ五月雨に渡しても解析も復元も難しいだろう。玄関前のカメラも故障していたし、映像自体も消されているはずだ。

 唯一手がかりがあるとすれば足跡と扉のハッキングぐらい……どのみちもうここにはいられない。

 自分を殺しに来たのだとしたら相手は執拗に追いかけてくるはずだ。なら逆に歌舞伎町の事務所にいる方がいい。向こうはAI管理だから多少のカモフラージュが出来るはずだ。

 狐のぬいぐるみを見下し、元いた場所に置き直した。然し乱暴に置いたせいか、彼女が踵を返した瞬間にごとんっと音を立てて倒れた。

 事務所に戻ると玄関口に血の痕があった。既に警察は退いており、もぬけの殻だ。

『琉生さん、無事でしたか』

 小型ドローンがすっと現れる。事件が起きた時はじめちゃんを含め、ビル内のロボット類は一斉システムアップロードの影響で動く事が出来なかった。気がついたのは南美が運ばれたあとだった。

「俺も誰かに狙われてるらしい。多分南美を襲った奴、いや奴らだと思う。だから暫くここにいる」

 ポケットのなかにはジッポーと買ったばかりのタバコの箱があった。はじめちゃんは肯き、ヱマの要件を飲んだ。

『南美さんは大丈夫なんですか。私のもとには何も……』

 ビル内のロボット達に指示を出したあと振り向いた。ソファの背に腰を預ける彼女を見つめる。

「一応、大丈夫だ。生きてはいる」

 ただ最低でも一ヶ月は、と吐息混じりに言った。はじめちゃんは細いアームでぽりぽりと頭をかいた。

『White Why、程々に名が知れて来ましたから軽く話題になりそうですね。正直今の歌舞伎町が比較的大人しいのは南美さんがいるからなんですよ』

 細い液晶に困った表情が浮かぶ。ポケットからタバコの箱を取り出した。

「こっちは南美の方が知られてるから俺は大丈夫だろうが、それでもこの格好はヤバそうだな」

 東の九龍城の方が頼れるところは多いし、特例地区の範囲も広い。だが部屋に彼女が居なかったとなれば徹底的に調べるはずだ。それならばまだ歌舞伎町にいる方が安全……。

『似たような格好の若者はいるにはいますが、琉生さんは目立ちますからね』

 はじめちゃんの言葉にフィルムを剥がす。一本抜き取って口に咥えた。

「キョウカも頼れそうにねえし、陰山はなに言われるか分かんねえし」

 ジッポー特有の音を奏でて火をつけた。吸い込んだ瞬間に咳き込む。だが南美の物とはまた違う、僅かに甘い匂いと味が広がった。

 タオウー関連でハルカを失い、彼まで失いかけた。トラウマが邪魔をして手が震えそうになるが、ヱマはそれを正当な怒りに変えた。

 空気に流れ込む懐かしい白煙を一瞥したあと、親指でフィルターを押して上にあげた。声の混ざった吐息と共に白い邪念が抜けていく。

「殺してきた奴ら逆に殺して見つけてやる、絶対に」

 彼女の私怨を応援するようにハルカが愛煙していた銘柄のタバコはより一層燃え、そのうち灰を落とした。

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