第22話

 百年経っても禄花の目にはこの都は変わっていないように思える。禄花にとって、百年経ってもこの都は故郷ではなく居心地の悪い他人の家だった。見知らぬ土地と何も変わらない。それは住み慣れた岩屋も同じこと。この天地に禄花の居場所などどこにもなかった。

 今は違う。例えどこに居ようと、どんな土地に居ようと、禄花の帰る場所はただ一つだ。

『禄花』

 耳をくすぐるような、肌を内側から震わせる呼び声に覚えず笑みを漏らす。

「すぐ戻る」

 杉のように真っ直ぐ伸びた背を思い浮かべながら、ゆっくりと通りを歩く。

 ずっとどこかへ帰りたかった。どこにも帰る場所などないのに。それでも心はここではないどこかを求めていた。

「禄花」

 以斉の屋敷からちょうど顔を出した奏臥の懐へ飛び込む。しっかりと禄花の体を受け止めた腕に甘えて体重をかける。

「ただいま」

「おかえり」

「奏、お前なかなか意味深な場所に印を刻んでくれたじゃないか。もちろん、己れもお前に印をつけていいんだよな?」

「私が君のものだという印ならいくらでも」

「ほんとに?」

「ああ」

「では少し屈め」

 手招きして屈んだ奏臥の項へ唇を押しつける。仄かに白檀の香りがした。

「よし、いいぞ」

「……何を刻んだんだ?」

「んー? ふふ、或誼殿にでも教えてもらうとよい」

 背負って生きて行く。人として当たり前に生きて行くはずだった奏臥の人生を、その重みを刻んで生きて行く。以斉の屋敷へ入ると奏誼とすれ違った。

「奏誼」

「はい、叔父上!」

「私の項に何が刻まれているか教えてくれ」

「……はい?」

 首を傾げながら奏臥の背後に回り項を覗き、それから腹の辺りの布を掴んでは皺を伸ばし、掴んでは引っ張りと落ち着きなく手を動かしながら答える。

「薄桃色の芍薬が……」

 聞くなり禄花の足を掬い、軽々と抱え上げて極上の笑みを浮かべる。

「禄花。禄花、君は世界で一番素敵な人だ」

「いいだろ? 嬉しいか? お前は芍薬が好きだからな」

「私が好きなのは芍薬ではなく、芍薬のように美しい君だ」

 そのまま禄花を抱えて空も飛べるのではないかと言うほどに浮かれた奏臥の頬を撫でる。しかし禄花は眉一つ動かさずに続けた。

「その芍薬は特別製だぞ。お前の首が落ちれば己れの首も落ちるようにしてある」

「何故そんなことを!」

 顔色を変えて声を荒げた奏臥に、奏誼が身を強張らせた。この優しく物静かな叔父の怒鳴る姿など見たことがないのだろう。冬の冷気を吸い込んだ岩の如く虹彩で奏臥を見つめ返す。

「それくらいせねばお前はまたやりかねんだろ。確かにそこまで追い詰めた己れが悪かった。だが今後、二度としないでほしい。己れの首が落ちると言われては今後、お前は自分を大事にするしかなくなるだろ。腕が落ちても足が折れても同じだ。お前の体に起こった異変は全部己れへ跳ね返る」

「……君は頑固だからもうしないと誓っても受け入れないだろう」

「よく分かっているじゃないか」

 不遜に笑みを浮かべた禄花の額へ、奏臥は泡雪が舞い落ちるように唇を押し当てる。

「君が傷ついたら君の居場所が私へ伝わるようにした。どこに居ても必ず助けに行く」

「……怒って己れがしたのと同じに、己れの首が落ちたらお前の首も落ちるようにするかと思ったのに」

「それでは君を守れない。そもそも今後、君から片時も離れない」

「あっはっはっはっは、ひぃ、お前って奴は本当にふふふふふ」

 きっぱりと言い放った皓皓たる美貌を仰ぐ。禄花へ顔を向け、微笑んで見せた奏臥の表情には迷いがない。もう自暴自棄になることはないだろう。禄花が、生きている限りは。

「愛してる。もうどこへも行かないし、お前を置いて行かない。お前は杉のように背が高いからな。目印にちょうどいい」

 抱え上げられたまま、奏臥の瞼や鼻の頭や頬やらへ口づけをする。奏誼が両手で顔を覆って「明蓮は何も見ておりません!」と目を瞑って大きな体を縮めた。

「お前の体に起こった異変は己れの身にも起きるようにしたからな、その状態で好いことをするとお互いの快楽も己が身を襲うのでおそらくすごいぞ、奏。楽しみだな」

「君が以前に言っていた並列化というものか」

「うん。えらいぞ奏、さすがだな賢くて美しい己れのかわいい白睡蓮め」

「……禄花」

「うん?」

「兄上に今宵は岩屋へ戻ると伝えて来る」

「待て待て待て、或誼殿がさっき泣いて訴えておっただろ! 吾毘へ行くまでの間は或誼殿の傍に居てくれと」

「……っ、……っ」

 情けなく眉をハの字に寄せ、禄花を抱えた腕に力が籠るのが分かった。幼子が耐え難きことを聞き分けなさいと言い含められたが如くの表情である。

「……兄上には」

「うん?」

「私から重ねてお願いするから……」

 しょんぼり、という文字が顔に書かれているかのようだ。少々哀れになって首を傾げて奏臥の胸に預ける。

「そんなにか」

「うん」

 真面目な話だったはずなのに、どうにも締まらない。奏臥の胸を叩き、地面へ下ろしてもらう。奏臥がぴたりと背後に寄り添う気配を背中で感じながら、頭の後ろで腕を組んで庭へ歩き出す。

「ううーん……。ただでさえ己れは或誼殿に嫌われているだろうからなぁ。これ以上悪く思われたら困る」

「? 兄上は君のことを悪く思ったりしていない」

「そりゃお前の前ではそう言うだろうよ……」

「人聞きの悪いことを言わないでくださいませ、花仙殿」

「―――っ! 或誼殿! 驚かさないでくだされ、己れに触れたら爛れて骨まで腐り落ちるぞ!」

 脇から顔を出した或誼に驚き、奏臥の首に縋りつく。ふと気づいて或誼へ問う。

「……或誼殿は、奏臥に触れているな?」

「ええ」

「爛れて腐れ落ちぬ。何故だ。己れと奏臥は同じ身体構造になっているから不思議はないとして何故、奏は他人に触れても毒を放たない? ひょっとしてそもそも、奏の細胞は表皮へ放出される毒を精製していないのか?」

 唇に手を当てて思考を巡らせる。首から手が離れた代わりだから当然とでも言いたげな素振りで禄花の腰へ手を回して自分の胸へ引き寄せる。それから奏臥は少し顎を上げ宙を見ると、おもむろに或誼へ顔を向けた。

「兄上」

「なんだい、奏臥」

「長年、禄花が悩み苦しんだことへの解決の糸口が見えたかも知れません。禄花もそれについて詳しく調べたいでしょう。今夜は禄花と共に塒へ帰って、三日ほど議論したいと思いますがよいでしょうか」

「……うーん……。花仙殿が長年悩んで来たことの解決にお前が必要ならば仕方ないね……」

「禄花。兄上が了承してくださった」

 涼やかな顔しやがってこの好き者め顔がいいからって己れが何でも許すと思うなよ。お前それ絶対、どうしてお前が毒を生まないかに興味ないだろ顔が喜び過ぎだちょっとは隠せ。

「――っ。……すまんな、或誼殿」

 苦労して飲み込みながら、能面のような笑みを作る。禄花の態度で何かを察したのか、或誼は笏を口元へ当て首を傾げた。それから禄花と奏臥を庭でも鑑賞するかのように遠目で眺め、得心したかの如く頷く。

「ふぅむ、ほうほう」

「……己れは嘘はついておらんぞ、或誼殿」

「おやおや……そうかい、奏臥。うんうん、いいよお行き。そうかそうかそんなにうふふ……」

「まことお主は弟に甘い」

「かわいい弟ですので」

「禄花。行こう」

 禄花を花でも包むかのように胸へ抱き込んで奏臥が耳元へ囁く。少し右後ろへ顔を上げただけで唇が触れそうな位置に奏臥の顔がある。

「ほんと涼しい顔しやがって惚れてなかったら許してないからな」

「うん。私も愛してる」

「……お前、愛い顔をしたからって己れが何でも許すと思ったら大間違いだからな」

「わたくしの弟です、かわいいに決まっておりますよ花仙殿」

「……お主と同じ考えとか、すごく嫌だなぁ……」

「ご不満でも?」

 不満などとても口にできるわけがない。微塵も笑っていない或誼の笑顔を見やる。

「禄花は兄上と同じように、それ以上に私を想ってくれるのです、兄上」

 庇うように抱きしめられて白檀が薫る。奏臥の頬を撫でて胸へ軽く頭を押しつけた。

「戯れさ、奏。或誼殿はお前を己れに取られて寂しいのだよ」

「兄上。禄花は本来なら、一年も経たずに私を置いて吾毘にも雅にも行けたのです」

 驚いて奏臥の腕の中、身を捻ってその美貌を仰ぐ。奏臥は真っ直ぐに或誼へ顔を向けたまま続けた。

「けれど私が毎日、通うから。私たちが心配でもう少し、もう少しと。立ち去ることができずに十年も見守っていたのです。桜の花弁ほどに砕けても、君なら数日で生き返ったはず。けれどそうしなかった。そうだろう?」

 違う、などと。白々しい嘘はすぐに見抜かれてしまうだろう。奏臥は何度も自分の首を落とした。おそらく或誼の居ない所でそれ以上のこともしたのだろう。それでもこうして禄花が目の前に現れるまでは確証が持てなかった。だからあんなにも早く禄花を追いかけて来たのだ。だからこそ、聡い奏臥は気づいてしまった。

 もう忘れたか。まだ覚えているか。毎日毎日、花を贈る奏臥の手を、手放せずにいたのは禄花の方だ。まだ忘れられない。まだ離れたくない。この十年は、禄花のただの未練だったと。

 顔を背けてもしっかりと胸に抱き込まれているので隠せない。ず、と洟を啜る。或誼が一瞬目を丸くし、それからまるで花でも愛でるかのように表情を和らげた。

「花仙殿。我らのことはもう、心配召さるな。奏臥とわたくしたちを想ってくださり、ありがとうございます」

「ちがう。ただ、ただ己れは逃げただけだ。三年も経てば奏も己れのことなど忘れて子を見せに来てくれるだろうと。卑しくもそんな都合のいい夢を勝手に見ただけだ。そうして己れが満足したら都を離れようと。己れさえ居なくなればお前たちは元通り幸せに暮らせると、何の根拠もない夢を見ただけだ。お前たちをこんな目に遭わせることになるだなんてちっとも考えずに。だから礼など言うな。恨まれて当然、罵られて当たり前だ」

「どうして恨む。君を忘れられなかったのは私の勝手だ」

 禄花は人が嫌いだ。触れれば爛れて腐り死んでしまう。そのくせ禄花の顔を見た途端、触れて来ようとする。だから禄花は山で植物と暮らしていた。初めの二十年は人の言葉も覚束ないほどの有様だった。植物相手だから笑ったり泣いたりもしたことがない。言葉を覚えて文字を覚えて、それでも自分が人になれたと思ったことはない。禄花はずっと人でも獣でも植物でもない「何か」だった。誰とも繋がれない。何とも仲間になれない。だから植物になりたかった。だから泣いたことなど、なかった。

「君と同じになって分かったことがある。植物たちは人の世のことに疎い。だから棺から動けぬ君は、私や以斉の家に何が起っているか詳細は知らなかった。私がどんなに君を想っていたかも知らない。だから君は、ただここを離れ難かっただけだ」

 奏臥は静かに禄花の目から零れ落ちる雫を袖で拭う。或誼は静かにその様を見つめ、それから奏誼の肩を叩く。

「行こう、奏誼。二人の邪魔をしてはいけないよ」

「父上……」

 振り返り振り返り、奏誼が或誼の後を付いて行く。二人の姿が見えなくなってもしばらく、奏臥は禄花を抱きしめたまま目を閉じていた。

「禄花」

「うん?」

 ずず、とみっともなく洟を啜る。奏臥は懐から絹の手拭いを出して禄花の目の下を拭った。

「君の涙は芍薬の花弁へ零れた朝露のように美しい」

「……阿呆め。泣き顔が美しいものか」

「初めて会った時から君はずっと美しいままだ」

「……お前と己れが初めて会ったのは」

 言葉を遮るように、奏臥は禄花の頬を拭う。

「二十年以上前、都に大雪が降った日だ」

「……――お前、やはりあの時の童か」

 奏臥は禄花を胸に抱いたまま、小さな頭をこくりと縦に動かした。涙で頬へ貼り付いた髪を慎重に撫でつけ禄花を覗き込む。

「最期に母上へ花を贈りたくて、けれど家人も兄上も忙しくて、途方に暮れながら大路を歩いていたら君が向かいから歩いて来て。天女のように美しい人だと見惚れていたらぶつかってしまって。こんな雪の中何をしているのかと尋ねたその人に、母上へ贈る花を探していると言ったら大きな美しい芍薬を手のひらから出してくれた。改めて仰いだその人はいただいた大輪の芍薬が如く美しいひとだった」

 箍が外れたように再び大粒の涙が零れ落ちて視界が歪んだ。

「己れはあの日、泣かず笑わぬお前を勝手に昔の己れのようだと。だから気まぐれに花を出して見せただけだ」

「それでも私は、母上へ最期の贈り物ができた。禄花、君のお陰だ」

「まるで」

「うん?」

「全てがお前と出会う運命だったみたいだ」

 奏臥の胸へ顔を押し当てて背中へ手を回す。禄花は奏臥ほど力が強くない。だからこの、標の君を二度と見失わぬようにせねばならない。

「そうだったのなら、私も嬉しい」

「なんでだ?」

「実は君と待賢門で二度目に会った時、雪の日の天女にそっくりだ、運命かも知れぬと思ったから」

 暦博士に追い出された日のことか。随分昔のことのようだ、と目を眇めると奏臥もいつかの過日を想う瞳をしている。

「だから最初は興味なさげにぼんやりしていたくせに、立ち去る寸前驚いた顔をしたのか」

「人の顔を不躾に見てはいけないと兄上がおっしゃるから、初めは君の顔をあまり見ていなかった……」

「ふはっ」

 少しだけ頬を膨らませ、口の中でもごもごと答えた奏臥に思わず吹き出してしまう。微かに擦れて痛い目の下を手の甲で乱暴に拭って鼻を啜る。

「行こう。或誼殿へ挨拶をして。早く二人きりになりたい」

「私も君も、そんなことばかり言っているな」

「……或誼殿はお許しになるんだろう? 己れたちは出会う運命だったのだから」

「うん」

 奏臥の手を取り歩き出す。振り返ると繋いだ手の先に奏臥が微笑む。清浄な美貌が眩しくて目を細めた。奏誼と並んで庭の池を見つめて佇む或誼へ奏臥が声をかける。

「兄上。三日ほど留守をします」

「うん。待っているよ、奏臥」

「その……或誼殿」

「はい」

「すまん」

「何を謝るのです、花仙殿」

「う……うん」

 これから媾うために塒へ帰ります、と言えるわけもなく奏臥の後ろへ隠れる。奏臥の袍の袖を掴んで背中に貼り付いた。

「……奏臥は花仙殿が居るとそんな風に笑えるのだね」

「……明蓮は叔父上のお寂しそうなお顔しか見たことがありません。こんな風に笑ってくださるのなら、花仙殿とご一緒に過ごすことこそ叔父上の運命だったのでしょう。父上」

「何? どんな顔だ? 奏、こっちを見ろ」

 桜の花弁が春風に吹かれてはらはらと舞い散るが如く。柔らかに密やかに微笑む奏臥のかんばせを仰ぐ。思考より先に口が動いていた。

「愛してる」

「私もだ」

「……行こうか。ではな或誼殿。悪いが吾毘へ行くまでの間はこんな風だと思う。できるだけお主の傍に居るようには言っておく」

「……いいえ花仙殿。吾毘へ行っても会いに来てくれるのだよね、奏臥」

「はい、兄上」

「何、おそらく吾毘の塒からここまで香鵬で二時もかからぬ故」

「禄花」

「うん?」

「すでに吾毘にも塒を用意してあるのだな」

「……百年生きておるからな。吾毘にも塒はある。が、奏臥に山暮らしは似合わぬ。奏誼も一緒だし、紀之片は嫁と子を連れて行くと言うし、頼めばおそらく吾毘の領主がまともな屋敷を用意してくれるだろう」

 確かにあるにはあったが、十年前に本格的に塒を移すつもりで準備したなどと言ったらさらに面倒になる。頭を掻き毟り観念して奏臥へ向き直る。

「……あ~……、実を言うと吾毘のさらに北の以流にも、南の紀陽都にも、もう一つ正直に言えば雅にも隠れ住める場所を用意してある。全部そのうち連れて行くから怒るなよ、奏」

「怒らない」

「……そうか」

「うん」

 いささか拍子抜けして奏臥の砲の襟を直してやり、それから或誼と奏誼へ手を振る。

「ではな。三日ほどで戻る。多分」

 ちらりと奏臥を見やると頷いて香鵬を呼び出すため、優美な動きで手を空へ伸ばす所だった。所作の美しさを眺めて奏臥の胸に凭れかかる。二人を掬い上げるように顕現した香鵬は呼び出した主と同じく優美に翼を羽ばたかせ静かに以斉の屋敷を離れる。

「父上」

「何だい、奏誼」

「まるで絵巻物のように美しゅうございますね」

「……そうだね。在るべきところに在るべきものが収まった美しさ、なのだろうね」

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