第20話
几帳を捲って畳へ柔らかく下され、当たり前のように覆い被さった奏臥の背中を叩く。
「奏」
「なに」
「する気が失せた」
「……っ、……っ!」
見ていて可哀想なくらいに玲瓏な美貌の上をいくつもの感情が行ったり来たりしている。最終的には迷子の子供がごとく所在なさげに眉を下げた。
「あー……うんうん。嫌だな? 納得できんなぁ……。だがさすがに明日は早く起きて支度せぬと或誼殿にも怒られる。分かるな?」
顔を背けて返事をしない。都合が悪いとすぐこれだ。だが奏臥が我儘を通すのは禄花にだけだと知っている。
「君の塒に帰る」
「やだよ。そうすると明日また朝早く戻って来なければならんだろ。なら明日とっとと面倒を済ませて帰って、そこからゆっくり二人きりになればいいだろ」
「……」
形の良い唇を尖らせて禄花の腰へ縋りつく。幼子のような仕草で禄花の腰に縋ったままうつ伏せに寝そべる奏臥の頭を撫でる。
「なぁ奏。どこにも行かぬよ。約束しただろう」
「それでも怖い」
「うん?」
「目を閉じたら、眠ってしまったら、目が覚めた時、君が居なくなってしまいそうで」
全て夢だったと絶望するのはもう嫌だ。張り詰めていたのだろう。小さく呟いてふつりと糸が切れるように、奏臥は目を閉じた。重みがずしりとのしかかる。
「……この四日、ずっと寝ていなかったのか?」
阿呆め。口の中で転がして苦い味に顔を顰める。その味は久しぶりに味わう。だが禄花はその味をよく知っている。
全身に染み渡る後悔を噛み締めて奏臥の頭を撫でる。
いるよ。ここにいる。
「阿呆め。或誼殿が言っていた。何度か自分で首を切り落としたと。大抵は翌朝には元通りだったと。だからお前も気づかなかったはずがないんだ。己れが、頭を砕かれたくらいで死ぬはずなどないのではないか、と」
それでも確信など持てなかったから十年以上、毎日確認したのだろう。だからこそ、あんなにも早く禄花を追って来たのだろう。けれど、決して禄花の頭蓋を覆った布を捲ることをしなかった奏臥の想いを噛み締める。
どこにも行かない。傍に居る。
奏臥が悪夢を見た十年を取り戻せるまで、そう囁こう。瞼を閉じて何度も何度も。ようやく触れられるようになった温もりを確かめながら、奏臥の髪を撫でる。
聞こえて来た規則正しい密かな寝息に耳を澄ます。几帳の向こう側、夜の気配が朝の空気を纏うまで、禄花は奏臥へ囁き続けた。
「禄花」
「んー?」
「起きて」
「ん……」
額や瞼や鼻、頬へ唇が降って来る。やはりそこが気になるのか。下唇の左横へも口づけをされ、くすぐったさに開いた唇ごと笑い声を絡め取られた。喉に思いきり吸い付いて背中へ手を回すと、すでにきっちりと衣冠を着込んだ奏臥が居た。
「己れは」
「うん」
「寝乱れたお前が見たいのに」
「これからいつでも」
「そうか」
「うん」
伸びをして手を差し出す。抱えられて奏臥の首へ腕を回す。膝の上に座らされて髪を結い上げられる。仕上げとばかりに薄紅の芍薬を手のひらから出し、結ってまとめた髪の根元へ挿して飾ると奏臥は満足気に頷いた。
「君の狩衣に少し跡が付いてしまった」
「ああ、脱ぎ捨てたままになっていたからな」
それに畏まった服装で行く必要もない。首を傾け、少し考える。
「指貫の上に
そうなるとどこかで借りて来ねばな。志嬰にでも借りるか。思案していると奏臥は茵へ禄花を下して立ち上がる。
「待っていて」
「うん?」
戻って来た奏臥の手には躑躅色の
「……以斉の家紋だ……お母上のものか」
「うん」
「こんな大事なものは借りては行けぬ」
「いい。兄上も快く出してくれた。君に着て欲しい」
「しかしまたお前はどうしてこう……よりによって躑躅色か」
「うん。君によく似合う」
これから帝へ喧嘩を売りに行くというのに、雪解けの下に現れた花のように笑みを咲かせて奏臥は禄花の肩へ袿をかけた。
「まぁいかにも痴れ者っぽくてよいか。さ、或誼殿へ挨拶して派手に庭から内裏へ行くぞ。何がいいかなぁ香鵬が目立つかな。いつもより花を多めにして作るか」
東の対から庭へ出ると、或誼が池を眺めていた。視線は池だが、全身を目にして禄花たちを待っていたのだろう。白砂の音に気づいたから振り返った、という素振りでこちらを向く。
「おやおや、ご機嫌だね奏臥」
「はい」
兄に似ず、隠すということは一切できぬ奏臥がそれは嬉しそうに頷いて禄花の腰へ手を回す。注意しても萎れるだけだと諦めて或誼へ向き直る。
「待たせたな或誼殿。一応屋敷全体に結界を張っておいた。害意があると判断したものは四十里先の荒野に捨てて来るようにしてある。或誼殿が招けば入れる」
「……それはまた容赦のない……」
「お主、容赦は要らぬと言ったではないか。何、盗賊や妖や鬼に行きあたらなければ不眠不休で歩いて三日もかからず都に帰れる」
「わたくし花仙殿の容赦なく、を思い知りました」
いつもの笑みを浮かべる或誼へ覚えず「嘘をつけ」と喉から転び出そうになるのを堪えた。或誼にとってもこの屋敷への攻撃があるかもしれないという予想はできているということだろう。
「ならば遠慮なく」
空へ掲げた手のひらへ、白い睡蓮が一つ咲く。睡蓮の葉と花と蔦が絡まり球体を作りながら大きくなって行く。蔦が池の水を吸い上げ球体の下へ水が溜まって行く。ざざざ、と水しぶきを上げながら蔦と睡蓮は朱鷺の姿を取る。腹や足、翼の先に水を抱いて涼やかだ。
「うん。なかなか派手でいい」
「派手なのがいいのならば、赤や桃色の花が良かったのではないか」
奏臥の問いに或誼は微かに体を強張らせた。奏臥の頬を撫でて唇を緩める。
「白がいいんだ。己れのかわいい白睡蓮に似合うだろう?」
白睡蓮が誰のことを指すかなど、聞くまでもないのだろう。或誼が真新しい笏を口元へ当てて口の端を一層深く吊り上げた。白砂を踏みしめる音に振り向く前に、闊達な声が真っ直ぐぶつかって来る。
「朝から惚気を聞くのって、なかなかきついですね」
「きついとは何事だ紀之片。もし奏臥について来る気ならこれから毎日、惚気を聞くし見る羽目になるのだぞ」
「え……? だって、当主さまがお許しになるはずない……」
大きな雄黄色の瞳をきょろきょろさせて紀之片は指をもじもじと組んだり外したりしている。
「或誼殿は体だけではなく懐も大きなお方だ、お前が奏臥について行くと言うなら反対したりしないさ。なぁ或誼殿」
「ほんに憎らしいお人ですね花仙殿。奏臥を慕う者を連れて行きたいと言われれば嫌とは言えますまい」
「オ、オレ……オレ、一緒に行ってもいいですか、師匠」
狩衣を握り締め奏臥を仰いだ紀之片の後ろで、志嬰は寂しそうに少し首を傾けていた。この姉弟弟子を引き離すのは忍びないが、志嬰の答えは分かっている。
「お前は残るのだろう? 志嬰」
尋ねると涼やかに整ったかんばせをきりりと上げ、賢い姉弟子は頷いた。
「はい。されど花仙様。お願いがございます」
「なんだ」
いつも腰に帯びている刀を差し出し、跪く。
「この刀を志嬰の代わりにお連れください。或誼様、奏臥様以外でわたしを女子だからと蔑んだり軽んじたりなさらなかったのはあなた様だけです」
「……守り刀か。ありがたくいただこう。だが己れがこれをもらってしまうとお前の刀がなくなってしまう。己れもお前への敬意を表してこれを渡そう」
空気を含ませるように大きく袖をはためかせる。太刀を一振り取り出し、志嬰へ差し出す。
「昔、塒の山にふらっとやってきた爺様に玉鋼の在りかを教えてやったら礼に置いて行ったものだ。己れではとんと使ってやれんでな。奏臥の代わりになどならぬだろうが受け取ってくれ」
鞘には螺鈿で花や蝶があしらわれている。拵は全体的に花を用いており、芍薬を模した鍔が刀を一層優美なものにしている。
「いただけませんとか言うなよ」
「……花仙様が相手では遠慮もできませぬ」
「抜いてみよ」
受け取った刀を抜いた志嬰の手元を見て、或誼がため息を漏らす。紀之片も息を飲んで一言「きれいだ」と呟いた。
「なんと美しい太刀でしょう……」
「爺様が言っていた。打ち避けが花弁のようだから雪月花と命名する、と」
実際のところは禄花が雪月花仙と知っていての命名だったのだろう。何かを思い出したかのごとく、或誼が首を傾げて笏を口へ当てた。
「五十年ほど前、三条の御隠居が花精に一振り献上したという話を聞いたことがあります」
「三条といえば名工中の名工……かように立派な太刀、やはりわたしのような未熟者が手にするにはもったいのうございます」
「志嬰。重ねて言うがいただけませんとか言うなよ。使わぬでは刀が可哀想だ。それにお前が未熟なら都の武士どもなど皆赤子よ」
へらりと笑うと志嬰は困ったように眉を寄せて微笑み頷く。
「……
「いいんだ。己れに謙る必要はないと言ったはずだぞ」
「……はい」
「或誼殿はよい主だ」
「……はい」
膝をついていた志嬰の腕を取り、立たせる。
「さて。そろそろ行くか。戻って来たら二月ほどかけて吾毘へ行く準備をするから、身辺整理を済ませておけよ。紀之片」
「嫁と子供も連れて行きますけど」
「……お前、嫁と子供があるのか」
「ありますよぅ。オレがいくつになったと思ってるんです、花仙さま」
明るく飛び上がった紀之片を見ると、幼い頃とあまり変わっていないように思う。そしてそれが微笑ましい。
「え……あの頃十三くらいだろ……そっから十一年経ってるから二十四……結構な年ではないか」
「ですよ!」
「怖っ。時の流れ早っ。その割にあまり変わった気がせぬ或誼殿が余計に恐ろしいな」
「ふふふふふ」
或誼が笏で口元を隠して笑う。やはり食えない男だ。
「恐ろしくはないぞ、禄花。兄上は今年で三十二になる」
「……」
いや怖いよ。全然変わらないじゃん。お前は不老不死になっていたから二十歳辺りで見た目の成長が止まっているのは当たり前だけど。見ろよあの人、あの頃と何一つ変わってないじゃん。口にはできず真顔で奏臥を見つめる。禄花に見つめられて、奏臥ははにかんだ笑みを浮かべる。
「行こうか」
禄花の手を取った奏臥は月明りを浴びた白睡蓮のように咲き誇る。力が抜けて覚えず笑ってしまう。
「ふふっ、うん。行こう」
睡蓮でできた朱鷺に乗ると、後ろから抱えられる。静かに以斉の庭を飛び立った朱鷺の背で奏臥が尋ねる。
「どこへ下りる?」
にやり、と笑って奏臥の胸を叩いた。
「清涼殿の庭へ降り立つ」
「……そうか」
「おや? 止めぬのか」
「存分に。兄上も言っておったしな」
「まぁでもお前は大人しくしていてくれ」
「……場合による」
「いや、大人しくしてろよ」
「約束はできない」
「いや、約束しろよ。じゃないと下すぞ」
「白蓮、清涼殿の真上へ」
かかっと一声鳴いて旋回する。がっちりと後ろから抱え込まれて仰向いて奏臥の顔を覗こうとするが力で敵わない。
「ちょ、こら
かかっ。ご機嫌の鳴き声にがっくりと項垂れる。何故だ。何故己れの言うことを聞かない。
「いい子だね、白蓮」
「おいこら、勝手に名前を付けるな」
かっ、かかっ。奏臥に首を撫でられてさらに機嫌よく声を上げる。
唐突に理解する。彼らは全て禄花と情報を並列化しているから、奏臥の顔に弱い。というよりつまり禄花が奏臥を好きだから、禄花の出した使役たちも奏臥に逆らうはずがないというわけだ。諦めて奏臥の腕に収まる。
以斉の屋敷と内裏は近い。すぐに白蓮は清涼殿の真上に着いて羽ばたきしながら上空に留まる。わらわらと人が出て来るのを眺め、それから白蓮の上に立って手を振り下す。山葡萄と藤の蔓を組み合わせて清涼殿の庭にある呉竹の台を薙ぎ払う。こんな時、真っ先に呼ばれるであろう奏臥は、狼藉者をしっかりと抱きしめて白蓮の背で涼しい顔をしている。
「気が触れたか以斉奏臥!」
「散々気が触れてしまったからと雑に扱って来たくせによく言うな」
叫んだ近衛をせせら笑って清涼殿の庭へ白蓮に乗ったまま降り立つ。たちまち禄花と奏臥は近衛に取り囲まれたが、昼の御座に居た玄聖は真っ直ぐに禄花を見つめている。
「禄花」
先に白蓮の背から下り禄花へ手を差し伸べる奏臥の所作は流麗で、衛士たちもまるで絵巻物のように美しい姿に見惚れている。白蓮は一声鳴くと八尺ほどに縮んで禄花と奏臥に寄り添い大人しくその場に伏せた。
遠慮なく階段を上がり、ずかずかと土足で簀子に上がった禄花の背を守るように奏臥が並び立つ。
「初めまして、だ。江明の孫娘」
「怪しい輩にそのように呼ばわれる筋合いはない」
「ははっ。その怪しい輩相手に山狩りまでして躍起になっておるのはお前だろう?」
「……」
玄聖の眉間へ僅かに皺が寄る。気にせず続けた。
「もっと言えばお前は『山の花は捨て置け』と己れが言ったことで焦っただろうな。だからあれだけ迅速に山狩りをさせた。だが何故その『山』が鷹藤山だと分かった? 己れは『山の花は』としか言っておらぬ。聞き覚えがあったからであろう? 江明は『行い正しくば鷹藤山の花が助けてくれる』とは言わなんだか」
「……っ」
ぎり、と奥歯を噛み締める音がした。笏を持つ手の甲に青く血管が浮き出ているのが見て取れる。つまり玄聖はやはり、禄花が江座璃明であることを知っていて山狩りを指示したのだ。きっかけは奏臥を快く思わぬ嵯禰維尽の讒言だったとして、維尽の思惑通りに以斉を己から遠ざけるより禄花を潰すことを選んだのだろう。或誼は、帝の覚えがめでたいと聞き及んでいる。つまりは使える以斉を潰すよりも、得体の知れぬ禄花を排除する口実を選んだのだ。
「江明は『行い正しくば助けになる』とはわざわざお前に伝えなかったか。何故か分かるか」
「……」
玄聖は変わらず鷹揚に禄花を見下している。しかし眉間の皺はさらに深くなった。
「言わずともお前は己れを怒らせるような行いをせぬだろうと思っていたからだよ。なんせ孫の中では一番聡明だとお前を褒めていたからな」
「……お前にお爺様の何が分かる」
「お前よりは知っているさ。江明が内裏の梅の木に登って落ちて、尻に痣を作った頃からな。十の年だったか。
「何故、お爺様の好物を……!」
「己れは百年以上生きておるのだ。江明も童の頃から知っておる。お前の父は削り氷を作ってやると大層喜んでおった。聞いておらんか」
玄聖が瞠目する。先々帝の江明の右臀部に痣があることなど身内か、身の周りの世話をしていた者しか知らぬ。削り氷の話にも覚えがあるのだろう。玄聖はそれまでと打って変わって、胸を押さえて項垂れた。しきりに浅い呼吸を繰り返している。
「禄花」
「なんだ」
「ということは、帝は初めから君の居場所を知っていて、君もそれを承知だったのだな?」
「……まぁ、そうだな」
「ということは」
「うん」
「兄上が裏切った云々は芝居か」
「ん~? その話は後でな、奏」
「禄花」
「だからそれは後でだってば」
強く腰を抱え上げられて踵が浮く。爪立ちになって引き寄せられる。先ほどまで禄花が立っていた場所に矢が刺さった。
「……矢ぐらい刺さったところで死なんぞ?」
「君が傷つくのを、私が見たくないだけだ」
奏臥が軽く指を振るのが見えた。宙に呪と五芒星を書き、中指と人差し指で押し込むような仕草をする。たちまち背後にずらりと式神が並ぶ。
「攻撃するものは二十里先に捨てて来い」
宣言するとおそらく先ほど矢を放った者だろう衛士が赤い衣を纏った式神に摘み上げられるところだった。椿の花をまき散らしながら椿の式神は優雅に宙を飛んで行く。
「ひい、ふう、み、よ、いつ、むぅ、なな、やの……十二体。十二神将か」
「月ごとの花になぞらえてある」
奏臥が式神を一瞥すると、一斉に衛士や武士へと挑みかかる。花吹雪の目くらまし、鋭い葉の鎌鼬、木の枝や蔓を剣や槍のように扱った攻撃。どれも優雅で美しい。
「ほう。さすが奏だな。かわいい上に雅だぞ」
愛い奴め。奏臥の頬を両手で包んで微笑み合う。たん、と笏を手のひらで打つ音で玄聖へ向き直る。頭の中では目まぐるしく様々な考えを巡らせているだろうに、権力者としての威厳を持ち直して見せたのはさすがと言うべきか。少々感心しながら口を開く。
「玄聖よ。己れが気が付かぬとでも思ったか。神宝には『血筋』と『法力』が必要だな? だが初代以外、西羽の血筋に法力を得た者はいなかった。そりゃそうだろうな。黙っていれば権力が手に入るのにわざわざ仙人になろうとする痴れ者など居るわけがなかろうよ。そこへ己れだ。お前は慌てた。神宝を奪われる。しかも己れには法力があるから、お前と違ってその威力は比べ物にならん。殺せるうちに殺しておきたかったというところだろう?」
つい先日まで仕えていた主である帝を、奏臥は冷ややかな瞳で見つめている。居並ぶ式神に威圧され、衛士は動こうとしない。先ほどの赤椿の式神が戻って来て舞でも踊るように禄花と奏臥を庇う位置へ降り立つ。
「それこそが、お前が己れが江座璃明だと認めたことの証明だな。だがな、玄聖。己れと同じに神宝を扱える人間がもう一人増えたのだ。十一年前のあの日にな」
「私か」
「うん。お前は己れの使役を扱える。だからおそらく、神宝も同じく扱える」
禄花の話を聞いて、玄聖はますます険しい表情をした。
「そもそもだな、玄聖。己れも奏臥も神宝など使わずとも、すでに十分な力がある。己れはともかく奏臥は元々稀有で他の誰にも持ち得ない陰陽の技がある。己れの力と組み合わせて用いたら己れ以上のことができるだろう。己れは植物を媒介とした術のみだが、奏臥なら招雷もできる。神宝などわざわざ盗む必要もない」
「急々如律令、招雷」
禄花が言い終わらぬうちに奏臥は無造作に手を振り下した。
ばりばりばり、ずだーん。
庭のど真ん中に落ちた雷に衛士たちが散り散りになって逃げ惑う。衛士の逃げ惑う様を無表情に眺め、奏臥は禄花を背中から抱きしめた。
「禄花」
「うん。もう話を終わらせるから少し待て。それでだ、玄聖」
片手を上げる。御座の脇、床板を突き抜け清涼殿の屋根を押し破り、季節外れの桜が満開に咲き誇る。さすがの女傑も微かに腰をずらし、己のすぐ脇に咲いた桜を見やる。
「どこにでも、好きなだけ、何でも生やせるぞ? 例えばお前の腹へ。例えばお前の心臓へ。例えばお前のそののぼせ上がった高慢な頭へ。お前は己れに喧嘩を売った。己れを殺すならば、己れに殺される覚悟もあるのだろう? 今日はそれを言いに来た。この先、己れはお前とお前の子孫の邪魔をする。その覚悟はしておけよ」
手の甲を玄聖へ向け、くい、と指を動かす。几帳や柱をぶち抜きながら、小さな翠の勾玉が禄花の手元まで飛んで来た。勾玉へ人差し指を向ける。
「ふむ」
ばしばしばし、ずだぁぁぁん。
途端に衛士たちが逃げて空になった庭へ、光の柱が天と地を繋ぐ。
「おお、やりすぎた。ふむ。加減が難しいな。だがくだらん」
奏臥は悠然とした所作で両の人差し指と中指を立て、無表情でぐるりと空中に円を描く。そのまま手首のところで交差させた指の間へ、小さな雷の球体が浮いている。
「おお、やはりお前の方が技巧は上なのだな。器用、器用。己れは大雑把でいかん」
からからと笑ってもう興味はないと勾玉を玄聖の膝へ放り投げる。奏臥はつまらなさそうな表情で雷の球を庭へ放った。どこぞの柱か壁にでも当たったのだろう。悲鳴と走り回る音が聞こえて来た。そのまま火事になるのも面倒だ。禄花は手を振り、砥草を東庭へ大量に生やす。土鼠が砥草から出る水を仁寿殿の簀子へ掛けてはしゃいでいる。小火程度だからそのうち消えるだろう。
玄聖は御座へ落ちた勾玉を見つめ、笏を握る手を震わせた。
これだけの騒ぎを起こしているというのに、右奥の滝口に詰めているはずの武士たちは一向に顔を出さない。奏臥の式神が牽制したり捨てて来たりしているにしても、命に代えても帝を守るという気概がなさ過ぎる。奏臥の式神が反則的に強すぎるにしても、騒ぐ姿すら東庭に届かぬとは。玄聖に尽くす武士はいないのか。僅かにこの女帝の孤独を垣間見た気がする。しかし既に、彼女は見誤ったのだ。祖父からの忠告に耳を貸さず味方にすべき、取るべき手を。
「璃明殿」
突如、姿勢を正して玄聖が手をつく。
「璃明殿、疑ったわたくしが悪かった。どうか、この通り」
「おいおい、怪しい輩に軽々しく頭を下げるでない。売られた喧嘩を十年かけてわざわざ買いに来てやったのだ。誰が謝れば許すと言った? 今さら謝っても許さぬ。そう言っておる。精々、反省を示して善政を行うのだな。ならぬと思えば容赦なくお前たちから権力を取り上げるぞ。無理矢理『母と呼べ』と頭を踏みつけておいてその子らに衣食住を与えぬ親など必要ない」
冷たく言い放った禄花の横で、奏臥はもう一度手を振り下して庭へ雷を落とした。玄聖の肩がびくりと震えた。少々気の毒になって、腰に回された奏臥の手を押さえる。
「奏」
「うん?」
「もういい」
「……植物を触媒にして、細かな場所も自由自在に下せる。例えば特定人物の背中とか」
「……それはすごいな。奏はかわいい上に器用で偉いぞ。また今度やって見せてくれ」
「うん」
さすが稀代の天才陰陽師。禄花の術まで応用している。奏臥を褒め千切って頬を撫でてやり、それから玄聖へ向き直る。
「己れはこれから吾毘へ行く。そこからお前の行いを見ている。内裏などいつでもただの野っぱらへ変えてくれるわ。二度と己れと以斉の者に関わるな。それだけだ。これはお前に『お願い』しているのではないぞ。『警告』だ。分かったな」
項垂れ、返事をしない玄聖にため息を一つ吐き出して勾欄を飛び越え、庭へ下りた。抱きしめていた腕からすり抜けた禄花に奏臥は不満顔で階から庭へ下りる。
「帰ろう」
呼びかけると奏臥は小さな頭をこくり、と上下させ白蓮へ軽く手を伸ばす。白蓮は奏臥の手へ頭を擦りつけ、それから四十尺もある大きな姿に変わった。ところどころ体や羽根を内裏の建物にぶつけ、そのせいで色々な破壊音や悲鳴がしたようだが気にしない。先に白蓮の背に乗り、禄花を引き上げ抱きしめてから奏臥が軽く首を撫でると白蓮は首を擡げて優美に飛び立つ。
奏臥が人差し指と中指を立て刀印を作り、そこへ息を吹きかけると式神たちはたちまち花弁を残して消える。その様を見て、思い出し清涼殿へ大声で呼びかける。
「あ、それからな! 都の四方を奏臥の式神が今まで守っていたが、それも引き上げるから! 達者でな!」
玄聖の耳には届いただろうか。届いたにせよ、届かなかったにせよ、結果は結局同じだ。都も帝も、禄花と奏臥の守りを失った。或誼は結界術が得意だと言うから、後は上手くやるだろう。
白蓮が高く高く空に舞い上がってから、蟻のように武士たちが庭へ這い出て来たがもう弓も届かない。卵を温める親鳥のように禄花を抱え、奏臥が囁く。
「帰ろう」
「塒へか?」
「うん。君の塒へ」
玲瓏なかんばせに、塒という言葉も岩屋の奥の隠し室も似つかわしくない。目を伏せて呟く。
「お前には似合わんな」
奏臥の胸に凭れて肩へ後頭部を押しつける。首を反らして顔を覗き込むと、両脇へ手を入れられ、軽々と体の向きを変えさせられた。向き合った状態で膝の上に跨らせられ、額を押しつけられる。
「睡蓮の根は泥の中にある。私は君が思うほど、清廉でも潔白でもない。ただ怠惰で、面倒だから色んなことを見なかったことにして潔白なふりをしていただけだ。それは美しさとは呼ばない」
確かに奏臥も禄花と出会って変わったのだろう。そして変わろうとしている。
「己れも同じようなものだ。二人で泥の中から芽吹いてみるか」
「うん」
雪解けの下から現れた春を告げる花のように、愛しい睡蓮が綻ぶ。奏臥の頭を両手で包んで鼻先を擦り合わせた。
「……君が居る場所が私の帰る場所だ」
「では己れが帰る場所はお前の居る場所だな」
「うん」
奏臥の下唇を甘噛みして、以斉の庭を旋回する。
「或誼殿!」
「花仙殿。お早いお帰りで」
「すまん。このまま塒へ帰る。五日くらいで戻って来る」
「五日?!」
素っ頓狂な声を上げた或誼へ、上半身を反らして手を振る。禄花の腰をしっかり抱きしめたままの奏臥が或誼へ手を振る。
「後はよろしくお願いいたします、兄上」
禄花の背中へ手を回し、胸と胸を合わせてしっかり抱きしめた奏臥に或誼は眉をハの字にして笑う。奏臥へ手を上げ、ぽつりと零す。
「花泥棒は罪にならぬのだそうですよ、花仙殿」
風に吹かれるまま顔を上げている或誼の表情は窺い知れない。俯いたままの禄花へ、奏臥が微笑む。
「花泥棒は罪にならぬなら、君という花は私が盗んでも罪にならない」
「阿呆め。盗まれたのはお前の方だ」
禄花を抱きしめる腕へ、微かに力がこもる。
「望んで行くのだ。盗まれてはいない」
体から緊張が抜けて解けていく。白蓮の背だということも忘れて薄く形の良い唇を貪る。
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