第19話 日願花
「お恨み申し上げます、花仙殿」
それは何度目の嘆きだっただろう。或誼は深く深く臓腑の底から憔悴を吐き出した。天晧の月もこれほど寒々と冷たく凍ってはいないだろう。氷のように血の通わぬ若苗色の虹彩を覗き込む。
「奏臥」
痛いほど冷たい指先を両手で包んで窺う。それでも奏臥は玻璃よりも硬質な瞳で或誼を茫洋と見つめ返す。力なく垂れた腕からは血が点々と滴っている。怪我をした、などというものではない。おそらく千切れる寸前なのだろう。それでも痛みなど微塵も感じていないように奏臥は表情を変えない。
「怪我をしている。手当てをしよう」
手を引いて東の対へ歩き出す。奏臥は漫然と首を横へ振って掠れた声で零した。
「要りませぬ。すぐに治る」
「けれど痛まぬわけではなかろうに」
「痛みなど長く続きません」
重たく落とした音吐に足を止める。或誼など目に入らぬように歩き出した奏臥の肩がぶつかった。白砂の上にぱたぱたと赤い雫が散らばった。
「――!」
「奏臥!」
「あ……ああ……」
自分より一寸強高い弟の体を押さえる。しかしすぐに押さえ切れなくなるだろう。大声で家人を呼ばう。
「誰か! 誰かある!」
「あああああああああ! 禄花あああああああああああああ!」
耳を覆いたくなるほどの痛みと苦しみが形になったような叫びを聞きながら奏臥の体を押さえる。
「禄花! 禄花あああああああああああああ!」
睡蓮の君は壊れてしまったそうだ。
友の惨たらしい死を目の当たりにして。
何を言う。その友を裏切ったのだろう?
その上、その友から呪いを受けたのだそうだ。
「うわああああああああああああああ」
白砂に落ちた己の血をかき集め、胸に抱いて朝露よりも清い涙を流す弟を押さえる。
「奏臥、奏臥。もう止めておくれ」
「大丈夫、大丈夫だ禄花。すぐに戻る。全部集めなければ。欠片も残さず集めなければ。でなければ君が戻れない。戻れない。戻れない。戻らない。戻らない! 禄花! 禄花!」
「奏臥――、睡天丸。分からないのか。わたしだよ」
心も死にます、花仙殿。
あの日、禄花へ訴えた通りになった。
心が死んでしまった人間を見るのは二人目だ。一人目は父。二人目は弟。愛する人ばかり。心が死んだ人間はなまじそこに肉体がある分、残された人間の辛さは深い。奏臥の肩に、その玻璃の瞳に映らぬ雫が落ちて染みを作る。
「戻らない……、もう、戻らない。私が、殺した……」
「お前じゃない。お前が花仙殿を死なせたのではない。奏臥。お願いだ、わたしの方を見て」
「あにうえ……あにうえ、禄花が……」
冬の庭で兄弟二人、抱き合って泣きじゃくる。けれど奏臥は或誼を見ていない。
もうずっとずっと、遠いあの日から心も肉体も時が止まったままだ。
あの日、駆けつけた或誼を振り払い崖の下へ降り、奏臥は泣きながら粉々に砕けた禄花だったものをかき集めていた。赤と桃と白や紫をかき集めて震えていた。
「大丈夫、大丈夫だ、禄花。君は不老不死だから。全部、ぜんぶ集めれば元に戻る。ぜんぶ集めなくては。ひとかけらも残さないように。ぜんぶ……」
手足や胴はまだ大きな破片になって散らばっている。頭部はまるで風に吹かれて散った花弁のように四散していた。
「ぐう……っ」
或誼の背後で衛士が余りの惨たらしさに嘔吐している。或誼ですら直視することができなかった。しかし奏臥は、震える指で必死に飛び散った花弁を集めていた。かつて芍薬のように美しいかんばせに、強い意志を含んで輝いていた女郎花色の目玉を抱えて笑う。
「禄花……、禄花……」
嗚咽と狂気の混じったその声を、或誼は生涯忘れることはできないだろう。
以斉の若君は狂ったのだそうだ。赤い花を見ると全部拾い集めて鷹野の山へ持って行く。
粉々に砕けた友が生き返る、と。朽ちて骨になった友が生き返るから、と。自分が裏切り殺した友が黄泉返るから、と。自分が殺した友に呪われ、不老不死が移ったというのに。だから友は死に、若君は不老不死になった。
不老不死は伝染るのだ。
それなのに友が生き返ると信じて毎日、朽ちた屍に話しかけている。
「禄花……、禄花……」
「やめなさい、奏臥!」
己の首筋へ爪を立て、顔中をかき毟って目を抉り出す。止める間もなく最後に腰に佩いた刀で己の首を落とした。
赤、赤、赤。
鮮やかに赤い椿が零れて散る。今度は或誼が零れた椿を集めて叫ぶ。
「奏臥!」
それでも死ねぬ。翌朝には肉体だけは元通りに生き返り、心は死んだままの弟が鷹野の山へ歩いて行く。
ああ。
ああ、お恨み申し上げます、花仙殿。
あの日、どうにか連れ帰った奏臥は。
少し目を離した隙に、庭の椿を全て広い集めていた。
「禄花……、大丈夫だ、全部、全部集めれば大丈夫……」
「やめなさい、奏臥。それは椿だ。花仙殿ではない。そんなことをしても花仙殿はもう、戻らぬ」
「嘘だ!」
「誠だよ。花仙殿はもう戻らぬ。お前も見ただろう? 頭があんなに細かく砕けたのだ……いくら、花仙殿とて……」
「嘘だ、うそだ、うそです……うそだ……」
壊れた弟の、澄んだ悲しみに自分の姿が映るのを見つめる。
「……いやです、兄上……」
赤い花を庭から取り払った。元々無口であまり表情の変わらぬ大人しい子だった最愛の弟は、まるで玉から削り出したからそれが当たり前だとでもいうように。感情を示さぬ抜け殻になった。白い庭と月白の美貌。あれからずっとこの庭は喪に服していた。悲し気に俯く白睡蓮は恨み言一つ漏らさず。ただひたすらに。
信じていたのか、諦めていたのか。或誼には分からないまま十年経った。
「花仙殿」
「うん?」
「母に捧げる花を持って帰って来たあの子に、私は言ったのです。仙人や仙女といったお方は高みにあるものを好むという。お前が陰陽道を極めればいつか、会いに来てくださるかも知れぬと。今思えば、あの時からあの子は私に言われるまま、ひたすら道に打ち込んで来た」
何と答えたらよいのだろう。母を喪った弟へ良かれとした助言がまるで呪いのように、奏臥を縛りつけたと或誼は思っているのだろうか。
「……」
それきり庭の睡蓮を眺めて或誼は黙り込んでしまった。禄花は唇に拳を当てながら少しだけ思案する。
「……或誼殿。一つ伺いたいのだが」
「何でしょう」
「奏臥は何度か、自ら首を落とすような行為をしていたか」
「ええ。それでも大抵、翌朝には私の部屋へ挨拶を」
「……そうか」
「お恨み申し上げますよ、花仙殿。それでもあなたしか、睡天丸の心を生き返らせることはできない」
「申し訳ないついでに奏臥をいただいて行く」
「もう二度と」
或誼が白い庭へ背を向ける。奏臥によく似た面差しを見つめ返す。
「あの子の心を殺さぬと誓うなら」
俯くと、白砂に沈み込んだ襪のつま先が目路に入った。真っ直ぐに麹塵色の虹彩を見つめる。
「もう二度と。次は己れが死ぬ時に、一緒に連れて逝く」
「あなたは酷いひとだなぁ」
そう呟いた或誼の顔は笑っているのに泣いていた。だからあなたに返そうとしたのだ、或誼殿。あなたにとって、奏臥がどれほど大事か理解していたから。
言えずに飲み込み、もう一度頭を下げた。
「わたしにあなたを責める権利などありません。あの子の『兄上と一緒がいい』と『兄上と一緒でいい』の違いに気づいていて何もせずにいたのですから」
初めはきっと、純粋な思慕から。それはやがて、兄の手を煩わせまいという配慮と諦めを含み。諦めてしまった弟を、或誼はどんな思いで見守って来たのだろう。
「……あれから奏臥は、独りで無茶な妖退治をしていたか」
「はい。腕がもげ、足を失ってもまた生えて来るから誰の助けも無用と。あなたの痛みはこの比ではなかったはず、と」
今度は禄花が深く長いため息を吐いた。
「それでは簡単に手放したがるわけがあるまい」
「でしょうね」
まるで人ごとのように答えた或誼の笑顔を見やる。当然と言えば当然だが、怒っているな、これは。
「そこで相談だが或誼殿」
「お断りいたします」
「うん。やはりか」
「はい」
「一族郎党丸ごと一緒に吾毘へ来てくれれば話は簡単だったのだが」
「……それではあなたがあの子を連れて行く意味がない」
「では重ねてのお伺いだが、もし以斉の弟子で己れについて来ると言うものがあれば連れて行ってもよいだろうか」
「……本当にあなたは欲張りな」
「すまんな。己れというより、奏臥と離れたくない者はあろう」
心当たりはあるのだろう。はにかむように笑みを刻み、或誼は俯いた。
「花仙殿。わたくしはあの子をある意味では甘やかして来た自覚があります。政や陰謀渦巻く貴族の思惑から遠ざけて来た。ご存知でしょう。そのあなたがあの子を連れて行くと言うのです。もう甘やかさぬ。そういう意味ですね?」
「……うむ。それらを避けて来た己れがそれと向き合う。一緒に来るというのなら、奏臥もそれらを避けられぬ」
或誼が大事に大事に守って来た奏臥を、禄花は連れて行く。政や謀や、人の争いの中へ。だから或誼は奏臥と一緒に行けぬ。甘やかしてしまうから。
「それにわたくしもいささか腹に据えかねているのです。花仙殿。あなたは吾毘から。わたくしはここから、この国の行く末を見て参ります」
両手を揃えて腹を押さえ、或誼が深く礼をする。声が震えたのは所作のせいだけではあるまい。
「奏臥を、わたくしの弟をどうかよろしくお願いいたします」
「あなたの注いだ愛情とは違うだろうが、大事にすると誓います」
「……あなたしか、あの子を幸せにできぬのです」
「……おう」
目を逸らしながら人差し指で頬をかく。己の鼻を擦って、洟を啜る。背後から慌ただしい足音が聞こえて来て振り向く。
「父上! 父上、私は叔父上と共に行きますよ」
寝殿から駆け下りて来た奏誼が宣う。或誼の笑みが一瞬崩れた。
「奏誼。後になさい。今、わたくしは花仙殿と話をしているのだよ」
「よいぞ、或誼殿。気にせぬ」
何より面白い。とは口に出さずに顔に出して或誼へにやにやと視線を向ける。
「父上はお行きにならないのでしょう? 夏氏弥には誼寧も晴蓮丸も居りますし、私が叔父上と参ります」
「女子の手も握れぬような顔をしておいて、やることをやっておるのだな或誼殿。奏誼の下にもまだ二人もお子があるのか」
「花仙殿、少々お待ちを」
「叔父上一人にしては父上も心配でしょう。私が定期的に文を送りますのでご安心ください」
「待ちなさい奏誼、花仙殿が良いとは言っておらぬ」
「よいぞ」
「花仙殿!」
面白いから。とは口に出さず全身に表し軽く腕を組み片足へ体重をかけ、自らの顎を指で撫でた。
「花仙殿の了承も得られましたゆえ、私は吾毘へ参りますね!」
「奏誼!」
「あっはっは或誼殿、お主の種で何ゆえこのようにおもしろいお子に育つのだ」
「花仙殿、混ぜ返さないでくだされ」
「頭を抱えるお主など滅多に見られぬ。これが面白がらずにおられようか」
「では父上、私は母上に報告と荷造りを致しますゆえ、失礼いたします!」
「これっ! 奏誼! 待ちなさい!」
「いや……本当にあれはお主の子か、或誼殿」
「……奏臥に懐いていたあの子を少々甘やかし過ぎたようです」
「いや何うん、面白いな或誼殿」
「花仙殿……」
項垂れた或誼が東の対へ目をやる。それから小さく一つ、ため息を吐いた。
「はぁ……花仙殿。奏臥ももう待ちきれぬ様子。今のところはこの辺りで」
「あっはっは、いいぞ奏。こっちにおいで」
「!」
勾欄の辺りでこちらを見ている奏臥へ手招きする。途端に頬を緩めて駆け寄って来る姿はやはり大きな犬に似ている。千切れんばかりに振っている尻尾が見えるようだ。
「困った奴だな。この花のおかげで互いの気配が分かるはずだろう」
「だが腕に抱いて実感していたい」
禄花の隣に並び、甘く瞳を撓らせた奏臥の頬を指の背で撫でる。うっそりと瞳を閉じた奏臥へ寄り添う。
「感覚を共有すれば己れの見たものもお前が共有できるし、お前の見たものも己れが共有できるようになるが、少しコツが要るからおいおいな」
それでお前が安心できるなら。禄花の腰を引き寄せた奏臥の手へ或誼の視線が落ちる。バツが悪い思いで咳払いを一つする。
「まぁお主ならば帝も他の貴族どもも手のひらで転がして見せるだろう。心配はしておらんよ、或誼殿。ただ、予想より奏臥が目立ってしまっていたようだから、少し脅して行くかな」
「お手柔らかになどと言いませぬよ。存分に、花仙殿」
「はっはっは」
「ふふふふふ」
寸分の隙もない笑みがふと遠くを見る。傾けた笏の向こうの美貌を仰ぐ。
「……わたくしはね、花仙殿」
「なんだ」
「我が弟を道具のように扱った朝廷も帝も、惚けてそれを許した己も生涯許しはしませぬ」
「……いいや。朝廷や帝はともかく、ご自分はお恨み召さるな。全ては己れが行き届かなかったこと」
「……花仙殿は」
「おう」
「ほんに酷いおひとですな」
或誼の言葉の意味を計りかねて黙る。下級貴族の、ましてや二の若君など上級貴族からすればいくらでも代わりのある駒。そんなことは或誼が一番理解している。それゆえ守って来たのだろう。だから禄花は、恨まれて然るべきなのだ。
「私は」
「うん?」
「君を困らせただろうか」
不意に口を挟んだ奏臥へ視線を向ける。或誼の前だというのに禄花を抱き寄せ、しっかりと腰へ手を回したままの奏臥の頬を両手で包む。
「よい。お前が自暴自棄になることくらい想像できていたのにお前から逃げることを選んだ己れのせいだ。全部己れが人でなしだからだよ」
再び如才なく穏やかな笑みを貼り付けた或誼が、少しだけ眉を潜めた。項垂れた奏臥の頬を撫で、背中へ手を回す。
「帝に朝廷に利用されるだろうことも予想していた。或誼殿がその辺は上手く利用するだろうと思っていたしな」
予想外だったのは、禄花が思うより奏臥は禄花を愛していたこと。それゆえ自棄になった奏臥に、或誼が参ってしまったこと。それを人でなしと呼ばずして何と呼ぼう。
「君は」
「うん?」
「いつでも吾毘へ行けたのに、十年都に留まった。それは私たちのためだろう。だから自分を卑下するのはやめて欲しい」
「……」
目を真ん丸にして凛乎たる美貌を仰ぐ。奏臥はのんびりおっとりしているが、愚鈍ではない。どこまで気づいているだろう。眉を寄せて白皙の美貌を両手で包む。
「己れはな、奏。生まれてからずっと逃げて来た。全てから逃げ出すことしかして来なかった。だからお前からも逃げた。もう逃げるのはやめる。お前とずっと一緒にいたいからな」
「ずっと?」
「うん」
「嬉しい」
覆い被さるように抱きしめられ、どうにか袍を手繰り寄せて奏臥の肩へ顎を乗せる。背中へ回した手のひらへ伝わる温もりを追って目を閉じる。
「或誼殿が隣に居るのに困った奴だ」
「いえいえ、花仙殿。こんな積極的な弟を見るのは初めてでわたくし戸惑いと喜びをいかにせんと今、溢れる感情を押さえるのに苦心しております」
「一向にそんな風には見えぬが」
いつも通りの胡散臭い笑みを貼り付けた或誼を見る。みしりという音に手元へ視線を落とすと笏が真っ二つに折れていた。
「……」
以斉家の筋力の恐ろしさを目の当たりにして無言になる。背骨への圧力が増して来た。いささか身の危険を覚えて奏臥の背を叩く。
「奏、奏、或誼殿の前ではあれこれしてやれぬ。お前の部屋へ行くぞ」
「……うん。兄上、失礼致します」
途端に緩まった腕の力と奏臥の表情に複雑な思いで自分の背中を揉む。いつか背骨を折られるんじゃないだろうか。
「うんうん、奏臥……。用のある時は声をかけなさい。それまでは東の対は人払いしておくから」
「要らんぞ。いくら己れが恥知らずとてこんな開けっ広げなとこでそうそういやらしいことなどせんわ」
「……」
袖を握られて奏臥を見上げる。あからさまにしょんぼりと肩を落としている。
「せぬぞ?」
「……」
視線を逸らした奏臥の頬を両手で掴んで目を合わせる。
「また気づかぬうちに三日も経っていては困る。或誼殿も居られるし、奏誼もすぐに戻って来そうな勢いだったし、色々やることがあるんだ」
「おやおや三日も……それでわたくしは四日もやきもきさせられたのですね……」
「……」
背後から冷気が漂っているのは気のせいではあるまい。これ以上或誼の前で失言をするのも問題だ。早々に退散するとしよう。考えている間に力づくで禄花の手から顔を背けた奏臥は、心なしか頬を膨らませている。
「おやおや奏臥……そんな顔をして拗ねるだなんて、わたくしは初めて見るよ……」
お前も花仙殿相手には拗ねるのだねぇ。にこにこと奏臥を見守る或誼に閉口する。ダメだこの兄。弟に甘すぎる。そこまで考えて気づいた。奏誼はやはり、或誼によく似たのだ。奏臥に並々ならぬ愛情を注いでいるという点が。
「責任が重大すぎる……」
呻いた禄花に或誼はさらに唇の端を吊り上げた。
「幸せだね? 奏臥」
「はい」
「うん。幸せにおなり」
奏臥に背中を押されて東の対へと歩き出す。肩越しに或誼を盗み見る。白い庭の月の下、いつもと変わらぬ穏やかな笑みはほんの少しだけ寂しそうに映る。
「来年にはこの庭にも赤い花が植えられるだろう」
「……兄上がそんな話をしたのか?」
「いいや。多分そうなる」
「……そうか」
奏臥の耳朶を軽く摘んで綺う。なすがままの皓の月を愛でる。
もう誰も赤い花に惑わされぬ。心の中で独り言つ。
東の対の簀子に上がった途端、足を掬い上げられ奏臥の胸へ抱えられた。
「……奏」
「うん」
「せぬぞ」
「……」
やはり視線を逸らすし返事もせぬのか。眉間を軽く指で揉んで奏臥の胸へ頭を押しつける。
「明日、帝へ宣戦布告に行くが、お前もどうせついてくると言うんだろう。だから今日はせぬぞ」
「君はどうして悪者になりたがる」
「憎まれた方が気が楽だからだ。正しいことが万人にとって正義とは限らぬ」
「だから私は、この先何があっても君の味方でいる」
「阿呆め。己れが間違っていたら殴ってでも止めろ」
茵の上に座らされたが、隣へ座った奏臥の膝に跨り向かい合う。邪魔なので勝手に烏帽子を床へ投げ捨てる。奏臥の瞼へ唇を当てて小さな頭を抱え込む。
「お前を信じている。だから己れが間違っていたら止めろ。分かったか」
「……うん」
けれど覗き込んだ瞳は真っ直ぐにどこまでも澄み渡っていて「君が間違うとは思わない」と告げている。
「阿呆め」
冴え冴えと冬空に輝く月より潔白な美貌を両手で包む。鼻と鼻を擦り合わせ、それから無口な唇へ己の唇を重ねる。眉間に花鈿の如く貼り付いた小さな種へ唇を寄せる。すい、と後ろへ身を引いて奏臥が小さく首を横へ振る。
「嫌だ」
「ははっ、取らぬよ。取って欲しくないのだろう?」
「うん」
「では永遠に。お前の額にあるようにしよう」
眉間へ口づけると、奏臥は眉を潜めて種が貼り付いていた場所を指の腹でなぞる。
「消えてしまったのか?」
「いいや。残っている。ほら」
鏡を差し出しすと覗き込み、眉間の間にある小さな赤い印を認めるとふんわりと蕾が開くように破顔した。それから禄花の唇を啄む。
「ん……っ、せぬと言ったろ」
「うん」
返事とは裏腹に首上の蜻蛉を外されて喉を鳴らす。小袖の合わせ目を緩められ、鎖骨へ口づけられて自分で袴の紐を解く。
「御帳台へ連れて行ってくれんのか」
「……連れて行く」
「ふふ」
奏臥の膝に跨った状態で向き合ったまま抱え上げられ、御帳台へ横たわらせられる。その動作はまるで手折った花でも扱うかのようで、人一人抱えて歩いているようには見えない。全くこの家の男の筋力はどうなっているのだろう。先ほど或誼が折った笏が過る。
畳に寝転がった禄花を眺め、奏臥は首を傾けて蜜のように蕩ける虹彩で微笑む。
「なんだ」
「うん」
寝転がったまま両手を伸ばすと甘い笑みのまま覆い被さられた。
「君が私の閨に居る」
「お前」
「うん?」
「意外と好き者だな」
「君が好きなだけ」
「己れは好きだぞ? お前と好いことをするのは。だってお前が必死でかわいいもの」
からからと笑って足を奏臥の腰へ絡める。早く脱げと袍を引っ張って唇を重ねると、かわいい白睡蓮は禄花の唇を噛む。
「十年以上経っても君はやはり意地が悪い」
「はははっ」
袍を脱ぎ捨てた奏臥の背中へ手を回し、目を閉じる。慌ただしい足音が聞こえ、それから妻戸が勢いよく開いた。
「叔父上! 明蓮は叔父上とどこまでもご一緒いたします!」
「……」
この世の終わりを見たような沈痛な面持ちで動きを止める奏臥を仰ぐ。廂に立つ奏誼を睨み、御帳台から重たい足取りで出て行く。
「あっ、叔父上。お休みになられるところでしたか」
冠を付けていない奏臥の姿に奏誼が平伏する。伏しているから自慢の叔父がどんな表情をしているか見えぬのだろう。几帳の隙間から覗き見るが、奏臥の背中が邪魔をしている。
「奏誼」
「はいっ」
「お前は私が良いと言うまで、東の対に立ち入り禁止だ」
「ええっ?! 何故です叔父上、何故っ!」
「ぶはっ」
堪えきれず吹き出してしまう。禄花の声に奏誼は首を傾げ、御帳台を覗き込んだ。
「どなたか居られるのですか」
「良いから出て行きなさい」
御帳台と奏誼の間に割って入り、奏誼の肩を掴んで妻戸へと追いやる奏臥の不機嫌だろう顔が覗きたくなって体を起こす。御帳台から出ようとすると、不機嫌が形になったような制止の声が落ちて来た。
「禄花。君はその格好で外へ出ないで」
「花仙殿? その格好とは?」
そこで初めて、奏誼は奏臥が単のみであることに気づいたようだ。周りを見渡し、床に落ちた衵や袍や奏臥のものではない狩衣や袴を目にするごとに耳から項、顔まで真っ赤になって行く。
「叔父上、あの、あの、し、失礼いたしましたっ!」
両手で拳を作り、目に当てて転がり出て行く。仕草といい言動といい、凡そ或誼に似ていない。だが顔だけはしっかり似ている。奏臥と或誼と奏誼は並ぶと血縁なのがよく分かる。奏臥が天皓の凍える月白の美貌なら、或誼は菜の花畑に浮かぶ宵待月で、奏誼は真夏の深い藍の空にくっきり浮かぶ明るい望月だ。
「普通、手のひらで覆うように目を隠さぬか?」
奏臥の肩越しに奏誼の背中を見やると、振り返りざまに腰へ腕を回された。後ろ手に妻戸を閉めた奏臥のすっきりと整った眉は眉間に深い皺を刻んでいる。腰に回されているのは片腕なのにそのまま軽々と禄花を引き摺って行く。ほとんど爪立ち状態で禄花は自分で足を動かす必要がないくらいだ。
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