第18話
もっとかわいがってくれんのか。囁いて耳朶を噛む。内壁を満たす熱と質量が増す。腰を揺らして押しつけて、かき抱いた小さな頭を、きっちり結い上げている髻の紐を解く。はらりと落ちた呂色は艶やかで美しい。
「こら。いたずらばかりして」
「いつもきっちりした姿のお前がこんなことをされてもなすがままなど、己れしか知らぬ」
指で梳いて唇を寄せると、抱え上げられ膝立ちになる。腰を掴まれ引き落とされて腹の奥を突き上げられてあられもない声が零れる。
「ひぃん……っ」
粒立って熟れた色をした胸の突起を舌で押し潰され、転がされ、吸い付かれながら突き上げられて奏臥の首に掴まっているのが精いっぱいだ。とろとろと溶け出した内側と同じに喉は蕩けた音吐をまき散らす。甘ったるく重く白檀が満ちる。奏臥にとって、禄花はどんな香りがしているのだろう。胸の淡い実を噛まれて蕩けた蜜が内で弾けた。
「ん、ぁあ――」
つま先から頭の天辺、指まで痺れて重ねた肌が痛いくらいの淫楽に満たされる。ぐずぐずと体の形が崩れてなくなってしまいそうだ。けれど禄花の内側にある奏臥の熱はまだ、滾ったままで深く穿たれる。
「まって、奏、まって、あぁ、ぁあぁ……っ」
仰け反った喉を噛まれて揺さぶられ、敏感になった体は強く容赦なく禄花へ悦楽を伝えて来る。ひくひくと喉を鳴らして快楽だけを追う。思考など纏まらない。
「あぁぅ、んふぅ、んぁあ……っは……」
何度か濃い薫陸の香りが身の内に放たれたのを感じたが、思考も視界も回って時間の感覚がなくなる。しかし奏臥が体を離そうとするたびに、抱き縋って何度もねだった。疲労に倒れ伏した腰を抱えられ、背中から覆い被さられて理性など崩れた。獣のように快楽を求めて媾う。項を噛まれ、無意識に逃げを打つ腰を掴まれ激しく突き上げられて気を失った。
温い。
「?」
手のひらにある感触が何であるか気づいて慌てて身を起こす。いつからそうしていたのか、禄花を見つめていた奏臥が慌てて引いた手を掴んで微笑む。
「大丈夫」
ああ。ああ、そうか。触れられる。死なせずに済む。
安堵して肌を重ねる。抱きしめられて身を任せる。その穏やかさに再びねだる。ねだっては強い逸楽に翻弄されて気を失う。
どれくらい気を失っていたのだろう。そのまま少し眠ったようだ。目がごわごわして開きにくい。目を開けるのを諦め、寝返りを打つ。
「ん……」
少し前までそこにあったはずの温もりを探す。その手を掴まれて目を開いた。
「ここにいる」
ぽすぽす、と褥を叩いて横になれと言外に示す。素直に寝転び、禄花を胸に抱き込んだ奏臥の香りを吸い込む。柔らかで控えめな白檀が上品に香る。握り締められた指先へ唇が当たる。何度も何度も。そのくすぐったさに目を閉じて奏臥の胸へ額を押しつける。
「温い」
「うん」
「目が覚めたら居なくなっていたら寂しい」
「うん」
「どうして居なかったんだ」
「兄上に文を書いていた」
「甥に言い付けて来ただろうが」
「禄花。あれから三日経っている」
「……三日?!」
がば、と起き上がる。岩屋のさらに奥にある隠し室には光が届かない。だから時間が分からない。それにしても三日も経つとは。
「……さすがに三日目の朝、とかだよな」
「……三日目の」
「うん」
「戌の刻だ」
「完全に日没後じゃねぇか」
「うん」
「三日……三日も……」
頭を抱える。丸三日も他に何もせず褥に居た、とは。引き留めねだった禄花も悪いが、それに応えた奏臥の体力も底なし過ぎるだろう。
「まぁ、いいか」
ごろんと褥に転がって奏臥へ手を伸ばす。玲瓏な美貌は解けて緩み、禄花の額へ唇を押し当てる。
「或誼殿には明日、挨拶しに行こう」
「うん」
禄花が寝ている間にいつも通り微塵も解れなく結い上げられた髻を少し憎らしく睨む。それでも烏帽子は文机の上に置かれていて、指の背で奏臥の頬を撫でた。額の小さな種に触れようと指を伸ばすと、指を咥えられる。指の腹で下唇を軽く押して幼子を叱るように首を横へ振る。
「それに封じた己れの血と種はじきお前の中で分離できなくなる。そうなればその種も勝手に外れて落ちる」
「これは君がくれたものだから、なくしたくない」
「くれてやったのは呪いだぞ。阿呆め」
「君と同じになるのなら、呪いではない」
「呪いだ。お前と家族を引き離す」
「君と行くと、私が決めた。だからこれは呪いではない」
真っ直ぐに若苗色の瞳が禄花を見つめ返す。だからこの話は終わりだ、と澄んだ虹彩が語っている。軽く目を閉じて小さく頷いて見せた。
「己れがくれてやれるのはこの身くらいだぞ。いいのか」
「君がいい。君が欲しい。私のものだと印をつけたいくらいだ」
「印ならたくさんつけただろう?」
奏臥の咲かせた花弁だらけの肌を合わせる。肉の薄い胸に咲いた花弁を指で撫で、奏臥は禄花の耳殻へ蜜のような音吐を流し込む。
「これはすぐに消えてしまう。消えない印をつけたい」
「いいぞ。どこにつける?」
「見えるところに」
形の良い指が眉間の間を撫でる。
「そこでいいのか? お前しか見えぬところでなくて良いのか」
「……」
「なんだ」
「両方につけたい」
「ははっ!」
何も選べぬと玻璃のような目をしていた奏臥がそこまで執着してくれるのならば、何もかも好きにさせてやりたいと思うほどに愛している。
「君はこれから、どこへ行くつもりだ」
「……吾毘へ行こうかと思う」
「吾毘で何をする?」
「塩を作り、民人でも薬を作れる知識を授ける。吾毘は稲作に向かない土地だ。だが年貢のために今は無理矢理稲作をしている。このままではいずれまた年貢も納められず飢饉が起るだろう。そうなれば積もり積もった帝への不満が戦を呼び起こす。だからあの土地には米に代わるものが必要だ」
禄花の髪を撫でながら、奏臥は急かさず続きを待っている。
「奏は吾毘へ行ったことがあるか?」
「ない。私は生まれて一度も都から出たことがない」
「そうか。ならば斐臥の国がどうやってできたかは知っているな?」
「うん。初代玄鳴帝が十種の神宝を以て国を治められた。しかし南の紀陽都、北の吾毘は元々の土地の王であった者を領主として、ある程度の自治を認めている」
奏臥の話はあくまでも「帝」からの視点だ。実際は異なる。
斐臥という国は元々、大きく三つに分かれていた。北の吾毘、南の紀陽都、中央の斐臥。それぞれに宗教も異なる。それを斐臥が自分たちは神々の子孫であり、どの神も皆、帝の血族であるなどと宣って武力で制圧したのだ。武力を以て、というのは正しくはないかも知れぬ。斐臥国初代帝の玄鳴帝は十種の神宝の力を用いて気象を操り災害を起こし、民人から反乱の意思を奪って行ったという。十種の神宝は初代玄鳴が身につけていた衣や腕輪、指輪や銅剣などを指すが、長い時間に紛失や焼失などで今は銅鏡や銅剣、勾玉の首飾りや櫛、領巾など五種となっている。これらは盗難防止の為に保管場所を一定期間で変えている。その日取りや次の保管場所を占うのも陰陽師の仕事だ。他にも儀礼などに用いているので、或誼ならば目にしたことがあるかも知れない。
「南の紀陽都は気候が温暖で果実などが豊富な上、海洋貿易も盛んで富める国だ。それゆえ中央も中々に口出しをしにくい。しかし北の吾毘は違う。冬が長く、夏が短い。貧しく厳しい土地の国で農耕には向かぬ。育てば美味い米が収穫できる。だが気候的に安定せず、収穫が望めぬ時も多い。それで吾毘の民だけは米を納められぬ場合は代わりに兵役に就くことを命じられている」
「うん」
「何故だか分かるか」
「吾毘は元々が遊牧民であるがゆえに騎馬に長け、弓をよく操り、男も女も勇猛果敢な戦士の国だ。だからこそ、都の外を守る衛士には吾毘の者が多い」
「そう。吾毘の兵は強い。だから帝はわざわざ、稲作に向かぬ土地で稲を作らせている。つまりわざと、兵役をせざるを得ない状態を作り出しているんだ。そんな強い戦士の国だからこそ、さらに北の以流の侵攻も防いで来られた重要な領地だ。それなのに大事な戦力を削るような阿呆なことしかしていない。そればかりか、吾毘の兵が守っている平和な内裏しか知らぬ武人ばかり作り出して、どうやって脅威に対抗できるというのだ」
「……そんな……」
奏臥は今まで、吾毘の人間から見たら、などと考えたことはなかったのだろう。
「危険な都の外は吾毘の兵士に守らせ、内裏は貴族出身の衛士に任せる。もし吾毘が帝に謀反を起こせば都の安寧に慣れ切り腐敗した武家が勝てるとは思えぬ。吾毘が都へ謀反を起こさぬのは北の以流という脅威と挟み撃ちになることを警戒しているからだ。しかし帝がそれを理解していないのは致命的だ。理解していて高を括っているのかも知れんが、吾毘が以流と結託して都に攻め入ってみろ。負けるのは帝だ」
「……帝が、負ける……」
お人好しで世間知らずだが、飲み込みは早い。奏臥の呟きに頷いて続ける。
「そんな状態だから、歴代吾毘領主は帝を快く思っていない。それは中央も同じで、寒さが厳しい吾毘の度重なる飢饉を放置してきた。見かねて幾度となく援助をしてきたから、己れは吾毘の領主には伝手がある。己れが吾毘に行くというのは、そういう不均衡を崩す可能性を含んでいる」
「……」
「今の斐臥は各領地の力関係が歪だ。だから厳しい土地である吾毘がいつも割を食う。吾毘はそもそも大神信仰が主の、少数の遊牧民が集まった狩猟民族の国だ。しかしそれゆえにほどよく手入れされた里山があり、山には鉱脈もある。中には岩塩や金、玉の鉱脈もある。手入れされた里山があるから、岩塩など掘り尽くしてしまえば終わりのものではなく海辺で塩づくりをするのがいい。それらを金に換える術を教えれば南の紀陽都同様、富める領地となろう。それらの知識を手土産に吾毘へ塒を変えるつもりだった。そうなれば確実に帝にとっては面白くない状況になる」
奏臥は今まで、或誼に守られて来た。だから知らぬ。この斐臥の国は、火種を抱えた不安定な国であることを。
「……吾毘の領主殿はどんな御仁なのだろう」
「……血筋さえあれば黙っていても権力が手に入る帝と違い、北からの侵攻を防ぐ知略と武力と人望を兼ね備えた立派な御仁だよ。でなければ今頃、吾毘は崩壊してとっくに都は北の以流に侵攻されている」
「……私は随分と見識が狭かったようだ」
「だからこそ己れは吾毘へ積極的に介入して来なかった。だがいくら大神の神官の家系で獣人だからと言ってもやはり人は人だ。吾毘の領主にも寿命はある。時期領主が必ずしも現領主と同じく立派な人物とは限らない。だからこそ、吾毘は重要なんだ」
「獣人?」
「ああ。だから普通より寿命が長く、力も強い」
「その……」
「うん?」
「耳や尻尾があったりするのだろうか」
「あるぞ。現領主殿は耳も尻尾もあったし、満月の時だけ完全な獣の姿になったはず」
「……!」
途端に普段は無機質な若苗色の虹彩がきらきらと輝く。そういえば奏臥は動物が好きだったなとぼんやり考えた。
「当然だがそこまではっきり獣人の血が現れることは珍しい。だからこそ、現領主への領民の崇拝と信頼は強い。しかし吾毘への仕打ちはそういう、自分とは違うものへの畏れもあるだろう」
「君はそれが分かっていた」
「それが分かっていて、今までは表立って吾毘を助けて来なかった。帝と事を構える覚悟がなかったからだ。己れは卑しい。今になって腹を括ったと言っても遅いくらいだ。だから吾毘へ行くならもう逃げぬ。それでも、己れと来るか」
「……それでも君が、それを正しい道と思うなら私も君を支えよう」
禄花のかわいい白睡蓮が髪を撫でる。凛冽な美貌そのままに純粋な魂が答える。
「禄花。君は否定するだろうけど本当は思慮深く慈愛に満ちた優しい人だ。私より多くのことを見据えているだろう。憂いているだろう。だから、君は君の思うようにするといい」
私にできるのは、君から離れないことだけだ。
たったそれだけが、ずっと欲しかった。
「腹が決まった。もう迷わん。お前が嫌だと言っても連れて行くぞ」
「うん」
「そもそも己れの母は吾毘の生まれなんだ」
「……そうか。君の母上の故郷なら、きっとよい所だ」
こつん、と額を突き合わせて愛しい美貌を仰ぐ。両手で頬を包む。触れられる。しかしそれは同時に、奏臥をもう元には戻せぬという呪いの再確認だ。
「温い」
「うん」
緩んだ頬を禄花の手へ甘えた仕草で擦り付ける。晧の月はようやく、禄花のものとなった。僅かな罪悪感と大きな安堵に瞼が重くなる。そうして禄花は深い眠りに逆らわず身を任せた。
「禄花」
呼び声に意識が浮上する。まだ微睡んでいたい。控えめな白檀の香りと温もりに体重を預ける。
「禄花。起きて。兄上に会いに行こう。支度して」
「ん」
本当はまだこうしていたい。奏臥の胸に凭れたまま、目を開けずに頷く。
「仕方がないな。抱えて行こう」
「うん」
甘えて奏臥の背へ手を回す。深く満ち足りた気分だ。髪を高く結い上げられ、結わえられた紐を見る。ほんのり淡い一斤染。ずっと懐に入れていたのか、空になった棺を見て掴んで来たのか。いずれにしても十年以上、取っておいたのかと目を伏せて紐の端を指に絡ませた。
さすがに今日は直垂というわけにはいかないだろう。立ち上がって几帳の裏に畳んでおいた深縹の狩衣を掴む。当然のように禄花の着替えを手伝う奏臥の頬や首を撫でて時々邪魔をした。支度の済んだ禄花の腰を抱き寄せ、無言で見つめる奏臥の背へ手を回す。
「行かぬのか」
「うん」
「どうした」
「君が居る」
「おう」
何度目だ、とからかうのは止めた。奏臥は十年間、毎日棺を確かめたのだ。この先毎日、気の済むまで好きにさせようと決めた。
「もうどこにも行かぬ」
「うん」
何度でも言おう。それで奏臥が安心するのならば。肩へ手を置き唇を重ねる。
「行こうか。お前の香鵬へ乗せてもらおう。落ちぬようにしっかり抱きしめていてくれるのだろう?」
「うん」
隠し室を抜け岩屋を出る。二度と離れぬ、離さぬと示すように、その間も奏臥はしっかりと禄花の腰を抱えたままだ。
「どこへも行かぬぞ?」
「うん」
花が二人を囲むように渦を巻く。ふわりと包むように香鵬は二人を背に乗せる形で姿を現す。
「私がこうしていたい。だめか」
「お前の好きなようにしていい」
香鵬の背でも禄花を胸に抱いて離さぬ奏臥を仰ぐ。その肩口へ頬を寄せる。
「全部だ。己れの全部、お前の好きにしていい」
「……っ」
十分に加減しているのだろう。潰さぬよう、力を込め過ぎぬよう、気を配りながらも思いの丈を込めて抱きしめられる。頬を撫でると、手のひらへ唇を押し当てられた。
「このまま以斉の屋敷へ香鵬で下りるのか?」
「うん。誰も驚かぬ」
それは以斉の家人だけではなく、都の人間も誰も驚かぬほど奏臥がそうして香鵬を操って来たということだ。少し考えて奏臥の肩へ頭を預ける。
十年ぶりに見る以斉の庭は、椿の植わっていた場所に山梔子が植え替えられていた。
「?」
違和感に庭を見回す。気を取られていて、無防備になった背中にぶつかって来た重みを受け止め損ねる。
「花仙さま!」
「うおぅ!」
前のめりに倒れかけた禄花を奏臥が支える。振り返って背中に飛びついて来た人物を見て覚えず破顔した。
「紀之片。なんだお前、はは、大きくなったな」
「背なんてほんのちょびっとしか伸びてません! 年を取ったんです!」
「ははは、そうか。うん。そうだな。元気そうで何よりだ」
「花仙さまはお変わりなく」
「おおっ? 何だよそんな言い回しできるようになったのか? ぎゃんぎゃんぴぃぴぃ言ってたのに!」
「ぎゃんぎゃんぴぃぴぃなんて言ってません!」
「あはははは」
ず、と鼻を啜る紀之片の頭を、袖で覆った手で撫でる。
「うん。でも大きくなったな。大きくなった」
しみじみと呟くと紀之片はぐい、と鼻を拭って真っ直ぐに大らかな雄黄色で見つめ返す。
「おかえりなさい」
「うん。ただいま」
答えて笑うと紀之片は、今度こそ声を上げて泣き出した。
「なんだ、おい。もういい年だろう。泣くな」
おろおろしていると今度は横から脇へ突進されてよろめく。奏臥が禄花の肩を片手で支えた。
「花仙様!」
「おお、志嬰! はは、すっかり綺麗になったな」
一番変わったのは志嬰だろう。少し驚いて脇へしがみつく顔を眺める。相変わらずの狩衣姿だが、年齢を重ねて女性の骨格や肉付きが顕著になって白粉も塗っていないのに色香が備わっている。とはいえ、変わらず剣の腕を磨いているのだろう。しがみついた手のひらは硬い。変わったものと変わらないものに目を落とす。常なら控えめで冷静な志嬰の顔が見る見る歪んで行く。
「ううう、うわぁぁぁん!」
「うわぁぁぁん」
志嬰の泣き声に誘発されたかのごとく、紀之片も泣き出す。しがみつく五尺二つのどこへ手をやったらいいのやら。手と顔を忙しなく動かしてどこにも所在などなく、自分の頭を抱える。その間も禄花の肩へ手を置いたままの奏臥を仰ぐ。
「なんだお前たち、どうして泣く? 奏、どうにかしろ。お前の弟子だろ」
「好きにさせよ。この子たちもお前に会いたかったのだ。ずっと」
「……」
奏臥の答えに胸が詰まった。ならば奏臥はこの十年、一体どれほど禄花を思ったのだろう。二人の手を袖の下から取って視線を合わせる。
「今度こそ黙って居なくならぬから。もう泣くな。ほら、早く生けねば枯れてしまう」
菖蒲を一束ずつ渡して二人を抱えるようにして腕へ手を添えた。窺うように禄花を仰ぐ顔は、あの頃と同じだ。
「立派になった。弟子はいるのか? また後で話を聞かせてくれ。己れは或誼殿と相談があるのでな」
「はい」
聞き分けよく返事をした志嬰に促されて紀之片も振り返り、振り返り屋敷へと戻って行く。十年経っても姉弟子と弟弟子は変わらぬようだ。中門をくぐる二人を見送っていると寝殿の簀子を駆けて来る足音がした。
「奏臥……!」
「兄上」
奏臥が振り返り微かに表情を緩めた。或誼は襪のまま、霧の中を彷徨うような足取りで庭へ下りる。
「睡天丸……」
「兄上……私はもう、幼名で呼ばれる年ではありませぬ」
少しはにかんで眉目を潜めた奏臥の腕に取り縋り、或誼は何度も頷く。
「そうか。そうだね。そう。そうだ……よかった」
「長らく不義理をして申し訳ない、或誼殿」
禄花の声に振り向き、或誼はほう、と長い長い息を吐き出した。一回り縮んでしまいはしないかと心配になるほどに長い吐息の後、薄い花弁が風に揺れるような表情で口を開く。
「お久しぶりです、花仙殿」
「随分と心労をかけたようだな」
弾かれるように顔を上げ、それから瞬きして、少し顔を傾け或誼は唇の端だけで笑った。一連の所作は流れるがごとく滑らかで優雅だ。だがしかし或誼はずい、と顔を近づけて禄花へ顔だけで笑って見せた。
「わたくしの心労など風に吹かれたら飛んで行くような些細なものですよ」
「あー……。いや、うん。済まなかった」
気不味く斜め上へ視線を動かす。禄花の顔を凝視している或誼の無言の圧力を感じた。
「奏」
「うん」
「己れは或誼殿と半刻ほど話をしたい」
「……」
あからさまに萎れて俯く。頷きもしないのが無言の答えだ。空気を掴むように手のひらを握って、奏臥の懐へ撫子の小さな花を忍ばせた。反対側の手からも撫子を出して自らの耳へ挿す。それから奏臥の唇へ人差し指の腹を軽く押し当て、その指を自分の唇へ当てた。
「音は聞こえぬが気配は分かるだろう? どこへも行かぬ。後で東の対へ行くから」
御帳台を整えておけ。と囁くと月白の美貌は微かに頬を染め、こくりと小さな頭を縦に振った。東の対へ歩き出した背中を見やり、或誼を盗み見る。薄く笑みを刻んでいた唇の端はさらに吊り上がっているが目が笑っていない。
「……或誼殿」
「わたくしが」
「おう」
「この四日間どんな気持ちでいたか、花仙殿にはご理解いただけますでしょうか」
「お……おう?」
「生きた心地が致しませんでした」
ぐるんと勢いよく振り返った笑顔は一寸も動かない。気圧されて上半身を引く。
「……すまん」
「……まぁ……よいでしょう」
「手短に言おう。奏が待てなさそうだしな。奏臥を連れて吾毘へ行く。誰にも言わずに行くか、派手にやらかして行くかはまだ決めていない」
「……」
奏臥が何と文を書いたかは知らぬが、その時点で或誼はある程度のことを予想していたのだろう。目を閉じて、それから池の向こう、庭の端へ体を向けた。
「花仙殿、この庭が十年前と変わっていることにお気づきですか」
「あ? ああ……。庭の隅に植わっていたのは赤い椿だった。庭の草木が全て白か、寒色の花の咲くものに変わっている」
「何故だかご存知か」
「……知らぬ」
十年間、鷹野の山裾にある棺から動かずに居たのだ。体が大分蘇生してからならともかく都のことも、この屋敷のことも崖から落ちた後、初めの数年は知りようがない。ほう、と長い息を吐いた或誼の横顔からは笑みが消えている。
「お恨み申し上げます、花仙殿」
奏臥によく似た、けれど疲れ果てた表情で或誼は蕭々と降りしきる冬の雨のようにそう、吐き出した。その顔は濃い虚脱に満ちていた。或誼の向こう、山梔子の濃く艶やかな葉を目路に入れながら、その唇が語り出すのを待った。
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